1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである。」
一、キリストの本質、神の御子
バプテスマのヨハネの務めはキリストの先駆者として、キリストを指し示し、証しすることでした。ヨハネは、この箇所でキリストについてその本質と使命について証ししています。イエスの本質が神の御子、御子なる神であること、そして、その使命が「神の小羊」となることだということです。最初に、ヨハネがイエスの本質について証しした言葉に聞きましょう。
ヨハネは、やがて来られるキリストについて「わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」(ヨハネ1:27)と言いました。当時、来客を迎えるときには、そのくつのひもを解いて足を洗ってあげるという習わしがありました。日本の時代劇で、旅人が旅籠に泊まるとき、わらじを脱がせてもらい、足を洗ってもらうシーンがありますが、あれと同じです。ユダヤの国では、客人のサンダルのひもを解くのは、召使の中でも、いちばん下の者がする仕事でした。ですから、ヨハネが「わたしはその人のくつのひもを解く値うちもない」と言ったのは、キリストがどんなに優れたお方であるかを表わす言葉なのです。それは、ヨハネが謙遜して言った言葉ではなく、キリストが人間を超えた存在であることを表しているのです。
ヨハネは、また、イエスについてこうも言いました。「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである。」(30節)「わたしのあとに来るかたは、…わたしよりも先におられた」というのは、「なぞなぞ」のような言葉ですが、これは何を言っているのでしょうか。「わたしのあとに来る」というのは、キリストがヨハネの活動の後に宣教をはじめることを言っています。
では、「わたしよりも先におられた」というのはどういうことでしょうか。ルカの福音書によれば、イエスはバプテスマのヨハネの誕生から六ヶ月あとに生まれています。バプテスマのヨハネのほうがイエスより、六ヶ月年長でした。しかし、ヨハネが言っているのは、どちらが年長かということではなく、イエスが神の御子として「永遠の先におられた」お方であるということだったのです。ヨハネの福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)という言葉ではじまっていますが、この「言」とは、神の御子のことです。神の御子が人となって生まれ、イエスと名付けられたのは、バプテスマのヨハネよりも六ヶ月後でした。しかし、イエスは神の御子として、ヨハネが生まれるはるか先に父なる神より生まれておられたのです。ヨハネどころか、この世界が存在する前、永遠の先から存在しておられました。ヨハネがイエスを「わたしよりも先におられた」と言ったのは、じつに驚くべきことです。ヨハネはイエスが神の御子であることを、神の恵みによって知らされていたのです。
ヨハネ8:58でイエスは「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」と言われました。「わたしはいる」(“I am.”)という言い方は、神が「わたしはあってある者」(“I am that I am.”)と言われたのと同じ言い方です。聖書に精通したユダヤ人たちは、この言葉を「冒瀆」と感じて、イエスを石打ちにしようとしました。イエスがご自分を永遠の存在者、神とされたからです。ユダヤの指導者たちは、イエスを「はじめからおられたかた」、「先におられたかた」として受け入れることをしませんでしたが、バプテスマのヨハネはイエスをそのようなお方として人々に指し示しました。
バプテスマのヨハネはイエスをたんに「優れた人間」として敬ったというのでなく、神として、その前にひれ伏しました。イエスの弟子たちも同じでした。弟子たちは、イエスが奇跡によって、ご自分が神であることを示しはじめられたとき、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」(ルカ5:8)と言って、イエスの足もとにひれ伏しています。また、復活ののち、イエスを「わが主、わが神」(ヨハネ20:28)と呼んで礼拝しています。ある人が言いました。「ここに国王や大統領が入って来たら、人々は立ち上がって迎えるだろう。しかし、イエス・キリストが来られたなら、わたしたちはひれ伏して迎えなければならない。」優れた人物には「礼儀」を尽くすだけでよいのですが、聖なるイエスには、それ以上のこと、「礼拝」が求められているのです。イエス・キリストを信じる信仰とは、たんにイエスを優れた人物として尊敬する、イエスの「ファン」(fan)になることではありません。イエスを神として礼拝し、主として従う者(follower)になることです。
皆さんはイエス・キリストが、たんなる人間ではなく、永遠の先からおられた神の御子であるという真理をはっきりと理解しているでしょうか。イエスをそのようなお方として信じ、頼り、従い、そして人々に知らせているでしょうか。そうでなければ、クリスマスはたんなる偉大な人物の誕生日ということで終わってしまいます。神の御子のほんとうの誕生は永遠の先であり、クリスマスは、正確に言えば、神の御子が人となられた日なのです。イエスが永遠の神の御子であるという真理に立ってこそ、クリスマスをほんとうの意味で祝うことができるのです。
二、キリストの使命、神の小羊
バプテスマのヨハネは次に、イエス・キリストの使命を証ししました。それは、イエスを指さして言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」という言葉に示されていまが、この言葉はキリストの使命について、何を伝えているのでしょうか。
神は、聖なるお方です。罪ある人間は、この聖なるお方の前に立っていることはできません。預言者イザヤは聖なる神の幻を見たとき、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」(イザヤ6:5)と叫びました。「わたしは滅びるばかりだ」というのは、「わたしは、今、まさに滅びている」と訳すことができるほどです。聖なる神の前に立つとき人は、この聖なるお方の前で自分の罪を示され、震えおののくしかないのです。人は神に立ち返り、神と共にいてはじめて幸いを得ることができるのですが、人が聖なる神の前に出ることはまさに滅びでしかないのです。「人は神に近づく必要があるのに、罪ある人間は聖なる神に近づくことができない。」このジレンマはどのようにして解決されるのでしょうか。
旧約時代には、このジレンマを解決するために、祭壇に犠牲の動物が捧げられました。それを捧げる人は、動物の頭に手を置きます。この場合、「手を置く」という行為は、その動物がその人の身代わりとなるということを意味します。動物は、その人の罪を負って、祭壇の上で殺され、焼かれます。その煙が天に昇るとき、神は天でその人の罪を赦し、その人を受け入れてくださいました。イザヤは、幻の中で、祭壇の炭火によって、きよめられ、預言者として遣わされていくのですが、「祭壇の炭火」は、祭壇で捧げられる犠牲による罪の赦しを表わすものでした。
けれども、旧約時代の動物の犠牲は、のちに来る本物の犠牲の雛形にすぎず、それは完全には罪を除くことができませんでした。本物の犠牲とは、聖なる神の御子イエス・キリストです。イエス・キリストは全人類の身代わりとなって、人の罪をすべて背負い、十字架という祭壇の上で、罪のための犠牲となって死んでくださったのです。今から二千年前のグッドフライデーに、聖なるお方が「罪」となられ、神の御子が父なる神から見離され、いのちの主が死なれるという出来事が起こりました。それは聖書に預言されていたとはいえ、人の心に思い浮かんだこともない出来事、まさに前代未聞の出来事でした。この「神の御子の死」によって、世の罪は取り除かれました。人はその罪を赦され、神に近づき、神と共にあることができるようになったのです。イエス・キリストは、じつに、神が備えてくださった犠牲の小羊です。旧約聖書が何千年にもわたって描いてきた神の救いの約束は、「神の小羊」によって完全に成就したのです。
救い主が苦しみを受けて死ぬ。しかも、それは世の罪のための身代わりの死であるということは聖書に預言されてはいましたが、当時、それを理解していた人はほとんどありませんでした。ところが、バプテスマのヨハネはそのことを、特別な恵みによって知らされていました。それで、イエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言うことができたのです。ヨハネは、イエスが宣教をはじめて間もなく、捕まえられ、処刑されましたから、イエスの十字架を見ることはありませんでした。しかし、彼は、あらかじめ、イエスの十字架を指し示したのです。イエスが、ヨハネについて「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった」(マタイ11:11)と言って、賞賛したのは、おそらく、ヨハネがイエスの真の使命を理解していたことに関係があると思われます。
グリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」では、イエスの十字架のもとに、そこにいるはずのないバプテスマのヨハネが描かれていて、ヨハネはイエスを指さしています。これは、イエスの十字架が、偶然起こった出来事ではなく、聖書が預言していた出来事であり、十字架の上で苦しむイエスこそ「世の罪を取り除く神の小羊」なのだということを示しています。ここには「世の罪」をすべて引き受け、それを「取り除く」ために「神の小羊」として死んでいかれるイエス・キリストが描かれています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」ヨハネがそう叫んだ声がこの絵から聞こえてきそうです。
三、キリストの記念、主の晩餐
「世の罪を取り除く神の小羊」この言葉は主の晩餐の賛美となりました。ラテン語で「アニュス・ディ」として知られています。「イーゼンハイム祭壇画」をよく見ると、バプテスマのヨハネの足もとに十字架を持った小羊がいるのが分かります。その喉元から血を流しており、その血が盃に注がれています。この盃は、晩餐式の盃です。この絵は、晩餐式でわたしたちが受ける盃が、小羊イエスがその血によって勝ち取ってくださった罪の赦しと救い、永遠のいのちを表わすものであることを告げています。
わたしたちはイエス・キリストの十字架を繰り返し「記念」します。アメリカでは「独立記念日」や「9−11」は、毎年、くりかえして、それを記念します。もう、長年やっているから終わりにしようとは言いません。同じように、教会は、イエスが命じられたように、イエスの十字架の死を、二千年の間、くりかえし記念してきました。これからもそうします。そして、それを記念するたびに、信仰者はイエス・キリストを「神の小羊」として覚えてきました。主の晩餐によって、十字架の出来事の意味をより深く悟り、神の小羊、イエス・キリストへの信仰と愛とが養われてきたのです。
ひとりひとりが主の晩餐によって養われていくことによって、教会がキリストのからだとして建て上げられていきます。ある牧師が「教会とは聖餐共同体である」と言いました。主の晩餐を共に守る者たちによって教会が建て上げられていくという意味ですが、まさにその通りだと思います。Paul Inwood の “Lamb Of God” という賛美は、主の晩餐によってひとりひとりが命と喜び、愛と光を受け、いやされ、養われ、力を受け、互いがひとつの信仰に結び合わされて、教会が建て上げれていくことを、次のように歌っています。
Jesus, Lamb of God, Bread of Life for us;
Jesus, Lamb of God, Wine of Joy for us;
Jesus, Lamb of God, bearing all our sin:
Have mercy on us, give us your peace.
Jesus, Lamb of God, Source of unity;
Jesus, Lamb of God, Precious corner-stone;
Jesus, Lamb of God, bearing all our sin:
Have mercy on us, give us your peace.
Jesus, Lamb of God, Bread that makes us one;
Jesus, Lamb of God, Wine that heals our pain;
Jesus, Lamb of God, bearing all our sin:
Have mercy on us, give us your peace.
Jesus, Lamb of God, Food fro hearts and minds;
Jesus, Lamb of God, Giving strength to all;
Jesus, Lamb of God, bearing all our sin:
Have mercy on us, give us your peace.
Jesus, Lamb of God, Building up your Church;
Jesus, Lamb of God, Source of light and love;
Jesus, Lamb of God, bearing all our sin:
Have mercy on us, give us your peace.
「イエスさま、あなたこそ『世の罪を取り除く神の小羊』です。あなたはわたしたちの罪のために十字架で死んでくださいました。あなたによってわたしたちは生かされています。」この信仰の告白をもって、神の小羊、主イエス・キリストを、心から覚える晩餐式としましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、わたしたちが捧げるどんな犠牲も、わたしたちを贖うには不十分であることをご存知で、ご自分で、その犠牲を用意されました。それは、あなたの御子でした。イエスは、あなたが備えてくださった、わたしたちを救うただひとつの犠牲です。イエスを「神の小羊」と呼ぶとき、イエスがわたしたちにとってどのようなお方で、何をしてくださったかをしっかりと心に刻むことができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/6/2016