1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
ヨハネの福音書のギリシャ語の文章は、とてもシンプルで、新約聖書のギリシャ語を学ぶ人は最初にヨハネの福音書を教材にして単語や文法を習います。けれども、そこで使われている言葉や文章には深い意味があり、それを理解し、説明するのは簡単ではありません。今月は、ヨハネの福音書1章の1節から始めて、15節までを学んできましたが、この部分だけでも、「ことば」(ロゴス)、「いのち」、「光」、「証し」、「ひとり子」など、ヨハネの福音書に独特な、深い意味を持つ言葉が次々と出てきました。そして、14節には「恵みとまこと」という聖書に繰り返し出てくる大切な言葉があります。きょうは、「恵みとまこと」について学びましょう。
一、恵みとまこと(14節)
14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」とあります。「恵みとまこと」の「恵み」はギリシャ語で「カリス」(χάρις)、「まこと」は「アレーセイア」(ἀλήθεια)ですが、これは、旧約聖書にある、へブライ語の「ヘセド」(חֶ֫סֶד)と「エメト」(אֱמֶת)を訳したものです。「ヘセド」には「親切」、「エメト」には「忠実」という意味があります。創世記24:49に、アブラハムのしもべがナホルに言った言葉があります。「それで今、あなたがたが私の主人に恵みとまことを施してくださるのなら、私にそう言ってください。もしそうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになります。」アブラハムのしもべは、「恵みとまこと」という言葉によって、ナホルが娘リベカを、アブラハムの息子イサクの妻に与えるという「親切」と「忠誠」をナホルに願ったのです。
このように「恵みとまこと」は人に対しても使われますが、聖書は、神こそが「恵みとまこと」に満ちたお方であると言っています。人間の場合、自分が好きな人には親切にするが、そうでない人にはそれを控えたり、最初は親切にしても、だんだんと態度が変わってくることがあります。しかし、神は、決して気まぐれなお方ではありません。神の「恵みとまこと」は誰に対しても、どんな場合でも、時が経っても変わることがありません。詩篇57:10には、「あなたの恵みは大きく 天にまで及び/あなたのまことは雲にまで及ぶからです」とあります。これは、神の「恵みとまこと」が人間の親切や忠誠をはるかに超えて確かなものであることを言っています。
なぜ、神の「恵みとまこと」は変わることなく、確かなものなのでしょう。それは、神ご自身が恵み深く、真実なお方だからです。「恵みとまこと」は、神が私たちに与えてくださるギフトであると同時に、それは神のご性質、本質、そのものなのです。詩篇86:15には、「しかし主よ/あなたはあわれみ深く 情け深い神。/怒るのに遅く/恵みとまことに富んでおられます」と言われています。
神の「恵みとまこと」は神ご自身の変わらないご性質に基づいたものです。神は変わらないお方ですから、神の「恵みとまこと」も変わらないのです。もし、それが、人間や社会の状態に基づいたものであるなら、神の「恵みとまこと」は、とうの昔に消え失せていたかもしれません。旧約のヤコブは、こう祈っています。「私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。」(創世記32:10)ヤコブは神を信じる人でしたが、彼の生き方は、必ずしも敬虔なものではありませんでした。それは彼自身がよく知っていて、そんな自分にも神の「恵みとまこと」が注がれたことをヤコブは感謝しているのです。「恵みとは、それを受けるにふさわしくない者に対する神の愛である」という定義がありますが、ヤコブは、まさに、その「恵み」を知る人でした。
神がヤコブに「恵みとまこと」を注がれたのは、ヤコブが、神がアブラハムと結ばれた契約を引き継ぐ者だったからでもありました。ヘブライ語の「恵み」(ヘセド)は、しばしば、「契約の愛」と呼ばれます。「まこと」(エメト)から「アーメン」という言葉が生まれました。神は、ご自分の契約に「アーメン」なお方で、最後までそれを守り通してくださるのです。それで、「恵みとまこと」は、英語の聖書では “steadfast love and faithfulness” と訳されます。「揺るがない愛と一貫した忠誠」。それは、「恵みとまこと」をよく言い表しています。
詩篇138:2にこうあります。「私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し/恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。/あなたがご自分のすべての御名のゆえに/あなたのみことばを高く上げられたからです。」この聖句は、礼拝のたびごとに覚えるとよい聖句だと思います。礼拝とは、じつに「恵みとまことのゆえに」神を崇め、神に感謝することだからです。
二、キリストによる実現(16、17節)
次に16節ですが、ここには、神の「恵みとまこと」は、イエス・キリストによって私たちに与えられたと書かれています。14節と16節を続けて読むと意味がよく通じます。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。…私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」というわけです。「この方は恵みとまことに満ちておられた」とありますが、イエスは永遠の先から神とともにおられたお方ですから、神の「恵みとまこと」が、そっくりそのままイエスの内にあるのは当然といえば当然です。「恵みとまこと」はイエスのうちに、満ち満ちて、あふれ出し、それは私たちにまで届いたのです。
「恵みの上にさらに恵みを」とあるのは、神の恵みの豊かさを言い表したものですが、最初の「恵み」は旧約の恵み、次の「恵み」は新約の恵みであると言えるでしょう。17節に「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とあります。旧約時代、神はモーセを通して「律法」を与えてくださいました。「律法」と聞くと、人を束縛するものと考えられがちですが、「律法」は本来は、神の聖さ、正しさを表すものであり、人を罪から守るものです。旧約時代に律法が与えられず、神の聖さ、正しさが示されなかったら、この世は全く神から離れ、神に立ち返る機会すら失われたことでしょう。
けれども、私たちは、律法を守ることができない、不完全な者です。律法の恵みだけでは足らないのです。もうひとつの恵み、福音によって証しされた罪の赦しの恵みが必要なのです。それが、イエス・キリストによって与えられた第二の恵みです。この恵みは、ホセア書2:19に「わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ」とあるように、旧約時代にすでに預言されていましたが、イエス・キリストは、旧約聖書に何百とある預言を成就し、「恵みとまこと」を実現してくださいました。旧約の預言のクライマックスはイエスの十字架と復活ですが、イエスは預言の通りに、十字架で死なれ、死から復活されて、「恵みとまこと」を実現してくださったのです。
ある人は、神の聖さ、正しさだけを見て、神の「恵みとまこと」を見ません。別の人は、神は愛であり、あわれみ深く、恵みに満ちておられるのだから、何をしても許されると考え、神の正義を無視します。どちらも間違っています。詩篇89:14は「義と公正は あなたの王座の基。/恵みとまことが御前を進みます」と言っています。神は聖く正しいお方であるとともに、同時に、「恵みとまこと」に満ちておられるお方であり、「義と公正」、また「恵みとまこと」の両方で私たちを取り扱われるのです。イエス・キリストが私たちの罪を赦されるのは、神の義をないがしろにしてのことではありません。私たちに代わって神の義を完全に満たし、私たちが受けなければならないさばきを代わりに受けられました。だからこそ、私たちの罪を赦し、私たちを救うことがおできになるのです。神の「義と公正」、また「恵みとまこと」は、神にあって別々のものではありません。イエス・キリストは、それが一つのものであることを十字架で示してくださいました。
三、恵みとまことを見る(18節)
イエス・キリストは「恵みとまこと」を実現されたばかりでなく、私たちがそれを見ることができるように、理解できるようにしてくださいました。14節に「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」とあるように、私たちはイエス・キリストのうちに、栄光となって表れた「恵みとまこと」を見たのです。「きよしこの夜、御子の笑みに、恵み御代の、あしたの光、輝けりほがらかに」と賛美に歌われている通りです。この恵みの栄光は、飼葉桶に寝かせられたときだけではなく、イエスのご生涯を通して、イエスの上に輝いていました。イエスは、変貌の山で、弟子たちにそれを見せておられます。十字架の暗闇の中でも、この栄光は輝いていました。だからこそ、今まで信仰的なことを何一つ考えることなく、淡々と任務を果たしてきたローマの隊長は、「この方は本当に神の子であった」と叫ばずにはおれなかったのです。イエスの栄光は復活のときにも、昇天のときにも、目に見える形で表されています。
「私たちはこの方の栄光を見た」の「見る」には“theater”(劇場)の語源になった言葉が使われています。イエス・キリストは、ご自分の人生を、まるで劇場のようにして、神の「恵みとまこと」を見せてくださったのです。弟子たちは直接その目でイエス・キリストの恵みの栄光を見たのですが、現代の私たちも聖書によって、同じ栄光を見ることができます。四つの福音書を丹念に読んでいくとき、目の前にイエスの姿が描きだされてきます。聖書のどの箇所も、イエス・キリストについて語っていますから、そこからも、イエスとその栄光を信仰の目で「見る」ことができるのです。
18節はこう言っています。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」イエスは、神の「恵みとまこと」を見せてくださり、その「恵みとまこと」が私たちにとってどんなものなのかを説き明かしてくださいました。「父のふところにおられるひとり子」の「ふところ」という言葉は、「ラザロと金持ち」のお話の中で、ラザロが「アブラハムの懐」の中にいたとあります(ルカ16:22-23)。また、最後の晩餐のとき、「イエスが愛された弟子」がイエスの胸元に寄りかかっていたというところでも使われています(ヨハネ13:23, 25)。「イエスが愛された弟子」とは、この福音書を書いたヨハネのことです。他の弟子たちが礼儀正しくイエスと少し距離ををとっていた中で、ヨハネはイエスの小さな声も聞き漏らすまいと、イエスの胸元によりかかっていました。ヨハネは弟子たちの中で一番若かったので、遠慮なく、そうしたことをしたのでしょう。ですから、ヨハネは、他の福音書には書かれていないイエスの言葉、イエスのお心の中にあったものを書くことができました。ヨハネがイエスの胸元(ふところ)でイエスのハートビートを聞いたように、イエスも、永遠のはじめから神とともにおられた、父なる神のお心のそば近く、その「ふところ」で、みこころのすべてを聞き取っておられました。そして、私たちに神の「恵みとまこと」をあますことなく説き明かしてくださったのです。
私たちは、どれほど、イエスにある「恵みとまこと」を見つめてきたでしょうか。「恵みとまこと」を説き明かしてくださる言葉に耳を傾けてきたでしょうか。「私は、あなたの栄光を見ています。私たちは、あなたが神を説き明かしてくださるのを聞いています」と、イエス・キリストに申し上げることができる者でありたいと、心から願います。
(祈り)
父なる神さま、一年最後の日を、こうして、御言葉と賛美、祈りとまじわりの中で過ごすことができ、心から感謝します。まもなく、始まろうとしている新しい一年も、あなたの「恵みとまこと」――揺るがない愛と一貫した忠誠――に目をとめ、あなたの「恵みとまこと」よって生かされる一日、一日でありますように。私たちを導き、助け、励ましてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/31/2023