1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
イエスはさまざまな名前で呼ばれています。マタイ1:1では「ダビデの子」、同じく2:2では「ユダヤ人の王」、マルコ1:1では「神の子」、ルカ2:11には「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」とあって、「救い主」、「主」、「キリスト」と呼ばれています。ヨハネ1:1では「ことば」、「神」、1:9では「光」と呼ばれていました。そして、きょうの箇所、ヨハネ1:14では「ひとり子」と呼ばれています。イエスが「ひとり子」と呼ばれていることには、どのような意味があるのでしょうか。
一、「ひとり子」イエス
「ひとり子」(原語で μονογενής モノゲネース)には、まず、「生まれた者」という意味があります。これは、イエスが神によって造られたものではなく、父なる神から生まれたお方であることを表わしています。世界のあらゆるものは神によって造られました。目に見えるものばかりでなく、目に見えない天の御使いたちも、神に造られた「被造物」です。神だけが「創造者」で、他のすべては「被造物」です。神と、神以外のものとは、「創造者」と「被造物」という関係にあります。。しかし、イエスは、「神によって造られたもの」とは呼ばれずに、「神から生まれたお方」です。ヨハネ1:1-3は、「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」と言って、はっきりと、イエスが創造者であり、神であると教えています。
「ひとり子」という名前は「特別な存在」という意味があります。原語の「モノゲネース」の「モノ」には、「モノレール」の「モノ」のように「一つ」という意味もありますが、ここでは、「一つ」というよりは、「特別な」、「独特の」、英語でいう “unique” という意味で使われています。「ひとり子」は「一人っ子」ではないのです。「一人っ子」は、たまたま兄弟姉妹がいなかっただけで、兄弟姉妹を持つ可能性は残されています。しかし、イエスの場合は、他に、イエスと同じ神の御子が他にいるということではありません。イエスは、ただひとりの神の御子です。「ひとり子」の「ひとり」は、英語の “one”(多くあるものの一つ)ではなく、“only”(他にはないただ一つ)という意味です。King James Version では、“the only begotten”、English Standard Version では、“the only Son” と訳されており、どちらも “only” が使われています。新共同訳では、「独自」の「独」という漢字をあてて、「独り子」と書き表しています。
日本では、子どもが、並外れた才能を発揮すると「神の童(わらべ)」と書いて「神童」(しんどう)と呼ばれます。「十で神童、十五で才子(さいし)、二十歳過ぎれば只の人」などという戯れ言葉に出てきます。また、他の人が真似できないような高度な技術を「神技」と呼びます。ビジネスの世界で、顧客にうまく対応することを「神対応」などと、日本では、何にでも「神」を使います。そして優れた人物は、その人の死後、「神」に祭り上げられます。菅原道真(すがわらのみちざね)は平安時代の人で、学者一家に生まれ、子どものころから才能を表わし、それこそ「神童」と呼ばれていました。醍醐天皇(在位897-930)のとき、右大臣にまで登りつめたのですが、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)により、九州に左遷させられました。道真の死後、彼を中傷した時平が病死し、朝廷の関係者が相次いで亡くなりました。洪水や干ばつなども多く起こりました。人々は、それらを道真のたたりだと言って恐れ、それを鎮めるために、京都に北野天満宮を建て、道真は「天神」と呼ばれる「神」となり、全国に彼を祀る神社ができました。道真は「学問の神」とされていますので、受験シーズンになると、日本各地の天満宮の社殿の壁は合格を祈願する絵馬でいっぱいになります。
しかし、イエスが「神」と呼ばれ、神の「ひとり子」と呼ばれるのは、イエスが優れた人物であったので、後に、「神の子」として崇められるようになったからではありません。聖書は、創造者である神と被造物である人間をはっきりと区別しており、被造物であり、有限な人間が、たとえどんなに優れていたとしても、決して、創造者であり、無限の神と同じように扱われ、礼拝されることはありません。ヨハネの福音書がイエスを「ひとり子」、「ひとり子の神」(ヨハネ1:18)と呼んでいるのは、イエスが実際に「神のひとり子」、「御子なる神」だからです。イエスは神となった人ではなく、逆に、人となられた神です。
325年、ニカイア教会会議で採択された「ニカイア信条」は、イエス・キリストについて、次のように告白しています。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られた。
これらの言葉はほとんどがヨハネの福音書から取られています。ニケア信条は何か新しいことを言っているのではなく、聖書が教え、使徒たちが伝えたことをそのまま語り、再確認しているだけです。
クリスマスは、イエスのご降誕を喜び、祝うときですが、イエスが神の「ひとり子」、「ひとり子」なる神であることが分からなければ、クリスマスがイエスの「誕生パーティ」で終わってしまいます。そして、そのうち、イエスのことなど忘れてしまい、年末を楽しく過ごす行事になってしまうのです。“Christmas” は、“Christ” と “Mass” とが合わさったもの、つまり、「キリストへの礼拝」です。イエスを「神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神」として礼拝する時です。キリストが礼拝されることのないクリスマスは、ほんとうのクリスマスではありません。
二、神に愛された「ひとり子」
さて、「ひとり子」には、さらなる意味があります。それは、父なる神とイエスとの愛の結びつきを教えています。ニカイア信条は、イエスが「父と一体」であると言っています。この「父と一体」という言葉には、イエスが「ひとり子なる神」として、父なる神と等しいお方であるというだけでなく、父なる神と「ひとり子なる神」とが、愛において一体であることを言い表しています。イエスは、「ひとり子」として、父の愛を一身に受けておられたお方です。バプテスマのとき、父なる神はイエスに「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と言われました。「ひとり子」の呼び名は、父なる神の愛を表わしています。
ヨハネ5:20で、イエスは、「それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです」と言われて、この愛を証ししておられます。また、イエスは、完全な愛で父を愛しておられました。ヨハネ14:31では、「それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです」と、仰って、父への愛を証ししておられます。父なる神が「ひとり子」イエスを愛されたように、イエスもまた父を愛されました。聖書は「神は愛である」と言いますが、愛は、「一人ぽっち」では成立しません。愛には対象が必要です。また、愛は一方通行でも成り立ちません。愛し、愛される、互いに愛し合うことによって成り立つのです。「神は愛である」というのは決して、抽象的なステートメントではありません。父なる神と「ひとり子なる神」は、永遠の先から愛し、愛される関係の中にあり、神は実際に、愛し、愛されてこられたのです。
そして、神は「ひとり子」を愛されたその愛で、人々を愛してくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16は、神の愛を語るのに、イエスを「ひとり子」と呼んでいます。ヨハネ第一4:9でも、神の愛を語るのに、イエスを「ひとり子」と呼んでいます。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」父なる神が、何者にも換えることができない、ただおひとりの御子を人々の救いのために世に遣わされた。ここに神の、私たちへの愛があります。「ひとり子」という呼び名には、神の御子への愛、そして、御子イエスを通しての私たちへの愛を表すものなのです。イエスに「ひとり子イエスよ」と呼びかけてみましょう。父なる神がどんなにか私たちを愛してくださっているか、神の「ひとり子」イエスがどのようにしてその愛を私たちに届けてくださったかを思わずにはおれなくなることでしょう。
三、人となられた「ひとり子」
ヨハネ3:16で「神は、実に、そのひとり子をお与えになった」と言われている「お与えになった」とは、究極的には、十字架を指しています。父なる神は、永遠の愛で愛し続けた「ひとり子」の命さえも、世の救いのために差し出してくださいました。それは、言い換えれば、神が、罪の中に苦しみ、滅びるしかない者たちを、御子を愛するのと同じ愛で愛されたということです。そして、「ひとり子」が、人の身代わりにその命を差し出すためには、まず、人となる必要がありました。それで、「ひとり子」は人となって世に来られたのです。クリスマスは、私たちにとっては、救い主が来られた喜びの日ですが、父なる神にとっても、「ひとり子」イエスにとっても、喜ばしい日とはいえない日だったかもしれません。それは、父なる神が「ひとり子」を手放し、「ひとり子」が父の愛から引き離されることを覚悟した大きな決断の時であったと思います。
しかし、「ひとり子」は「人となって」くださいました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。「ことば」であるイエスにとって、この世は、決して心地よいところではなかったでしょう。永遠・無限のお方にとって、それは何と窮屈なところだったことでしょう。聖なるお方にとって、そこは、あまりにも汚れた醜い場所であったに違いありません。しかし、「ひとり子」イエスは、人の世に「住んで」くださいました。それは、私たちを罪の世から、罪も死もない天へと導くためでした。イエスは、ご自分が一身に受けていた神の愛を携えて、世に来てくださいました。ご自分が受けておられる神の愛を私たちにも分け与えるためでした。神は、その愛によって、イエスを信じる者に、神の子どもとなる特権を与えてくださった。神は、イエスが持っておられた「神の子」としての身分を、イエスを信じる者にも分け与えてくださった。ほんらいは、ただひとりの「神の子」であるイエスが神の子どもとされた者たちの「長兄」となってくださいました。ご自分を信じる者たちを弟や妹たちのようにして愛し、守り、彼らの模範になり、導き手となるためでした。
このように、神が「ひとり子」を愛された愛は、クリスマスにこの地上に形をとって現れ、全世界に示され、証しされました。クリスマスは、神が、「ひとり子」イエスを愛された愛で、私を愛してくださっていることを知り、その愛を確信する日です。今年のクリスマス、イエスが神の「ひとり子」であること深く思いみましょう。そして、「そのひとり子をお与えになった」ほどの神の大きく、深い愛を、さらに見出しましょう。神が私たちに与えてくださった「希望」、「平和」、「喜び」と共に、「ひとり子」イエスを通しての「愛」を多くの人々に知らせていきたいと思います。その愛に応えていくことができるよう、願い、祈ります。
(祈り)
父なる神さま、きょう、私たちは、イエスが「ひとり子」と呼ばれていることの意味を学び、そこにあなたの大きな愛が示されていることを知りました。私たちが、イエスのうちにある愛を、さらに見出し、その愛に憩うことができますように。その愛に生かされ、その愛をもって人々に接することができ、その愛を証しすることができますよう、導き助けてください。あなたの「ひとり子」イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/24/2023