恵みとまこと

ヨハネ1:14-18

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1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 イエスがお生まれになった日の出来事を一番詳しく書いているのは、ルカの福音書です。マタイの福音書には、ヨセフへの告知や東方の賢者たちの訪問が書かれていますが、イエスがお生まれになったその日のことは書かれていません。マルコの福音書にはイエスの降誕のことは全く書かれていません。

 では、ヨハネの福音書はどうでしょうか。ヨハネの福音書にはマリアもヨセフも、天使も羊飼いも、また、東方の賢者たちもヘロデ王も登場しません。ベツレヘムという地名も出てきません。けれども、マタイやルカとは全く違った言葉ですが、イエスの降誕が書かれているのです。それは、14節です。

 14節は「ことばは人となった」、「私たちの間に住んだ」、「私たちはこの方の栄光を見た」という三つのことを語っています。この三つのことから、クリスマスが、私たちにとって、どんな意味をもっているのかを、ご一緒に考えましょう。

 一、人となられたキリスト

 「ことばは人となった。」ここで「ことば」と呼ばれているのは、神の御子としてのイエスのことです。なぜ、イエスは「ことば」と呼ばれているのでしょう。それは、第一に、「ことば」が人の意志や感情を伝えるものだからです。心の中でどんなに相手を思っていても、それを言葉にしなければ、相手に伝わりません。同じように、神も人への愛を伝えるために、言葉を尽くして語りかけてくださいました。預言者を通して語ってこられた神は、最後にご自分の御子イエスを通して、その思いのすべてを明らかされたのです。ヘブル1:1-2にこうあります。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」

 イエスが「ことば」と呼ばれるのは、第二に、イエスがこの世界の造り主だからです。ここで使われているギリシャ語は、「ロゴス」で、それには「論理」や「原理」という意味があって、この世界を成り立たせているものを指します。ギリシャの自然哲学者たちは、この世界が何によって成り立っているかについて考えました。それは「アルケー(はじめ、起源)の探求」と呼ばれました。タレスは「万物の根源は水」と言い、ヘラクレイトスは「火」だと言いました。ピタゴラスは「数」と言いました。エンペドクレスは「火、空気、水、土」の四元素が世界を成り立たせていると言い、デモクリトスは「原子」であると言いました。それに対して聖書はヨハネ1:1で「初めに(エン・アルケー)ことばがあった」と言って、イエスこそが哲学者たちが追求した「アルケー」であると言っています。

 紀元前六世紀の哲学者たちが、自然界がいくつかの元素によって成り立ち、また、そこには原子の運動があると考えましたが、それが正しかったことが、今日、証明されています。水素から始まってオガネソンまで118の元素が発見され、さらに55の元素の存在が予想されています。様々な現象は数式で法則として表されてきました。しかし、これらの元素がどのように生じたのか、それらの法則がどのように定められたのかは、科学によってだけでは知ることはできませんし、証明することもできません。それが科学の限界であり、科学がそれ以上のことを言うなら、それはもはや科学ではなくなります。聖書は、科学によっては知ることができないこと、つまり、見えるもの、見えないもののすべてを造り、それに法則を与え、保っておられるのは、神であり、また、神の御子イエスであると教えています。ヨハネ1:1-3に「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」とある通りです。その上で、聖書は「ことばは人となった」と、神の御子が人となられたと宣言しているのです。

 神話の世界には神々が天界を離れて人間界で暮らすという話がいくらでもあります。日本の神話にも、「天孫降臨」といって、「アマテラス」の孫にあたる「ニニギ」が地上に降り立ち、天皇家の先祖となったという話があります。創造者と被造物の区別のない神話の世界では、神が人になり、人が神になるというのは特別なことではありません。しかし、創造者と被造物の区別をはっきり教えている聖書が、神が人となられたと言っているのは、普通のことではありません。それは人が神になるのと同じようにありえないことで、聖書の教えの根幹を壊してしまうようなことなのです。しかし、事実、このありえないことが起こりました。「ことばは人となった」のです。ほんとうに神が人となり、造り主が被造物になったのです。これは、私たちの理解を超えた出来事、世界の創造以来、ただ一度だけ起こった、特別なことなのです。

 クリスマスは、一般に考えられているように、世界で一番尊敬されている人、イエスの誕生日というのではありません。それは、神であるお方が人となられたという奇蹟が起こった日です。奇蹟といえども、それはすべて造られた世界の中での出来事ですが、神の御子の降誕は、世界を創造されたお方が造られた世界の中に入って来られたということ、永遠の世界とこの世界との間に起こった奇蹟以上の奇蹟だったのす。クリスマスは、神が人となられたという、とてつもない出来事に驚き、「なぜ神の御子が人となってこの世に来られたのか」を考え、その答を見つける時なのです。

 二、人と共に住まわれるキリスト

 次に、「私たちの間に住まわれた」という部分ですが、これは、神の御子が人となってこの世に来られた理由を言っています。神の御子が人となってこの世に来られたのは、「私たちの間に、人々と共に住む」ためだというのです。この「住まわれた」(スケーノオー)という言葉には「テントを張る」という意味があります。イスラエルの祖先たちは、牧畜を生業にしていましたので、家畜の移動と共に人々も移動し、行く先々にテントを張って生活しました。イスラエルがエジプトから救い出され、荒野を旅したときも、人々はテント生活をしました。その時の神の宮、神殿もテント式で「幕屋」と呼ばれました。神の「幕屋」は、人々とともに移動し、イスラエルを導き守りました。その後、神殿は立派な建物になったのですが、聖書は「神の御子は私たちの間にテントを張った」と言うことによって、荒野で、幕屋が常にイスラエルの人々と共にあったことを思い起こさせ、神が私たちの身近かにいてくださることが強調されています。神が社会的な身分、立場、能力、貧富の差などに関係なく、神を信じる者と共にいてくださることを、私たちに教えてくれます。実際、イエスはこの世の忘れられたような人々をも心に留め、その人たちと共に歩まれました。

 ところで、子どものために書かれたものですが、サンタクロースとキリストとをくらべたリストを見つけました。こうありました。

サンタは年に一度しか来ないが、イエスはいつでも助けてくださる。
サンタは靴下に物を入れるが、イエスはすべての必要を満たしてくださる。
サンタは煙突から勝手に入ってくるが、イエスはドアをノックし、私たちが招き入れると入ってきてくださる。
サンタに会うには行列に並ばなければならないが、イエスはお名前を呼べば側に来てくださる。
サンタは私たちを膝に載せてくれるが、イエスはその腕の中に休ませてくださる。
サンタは「Ho、Ho、Ho」としか言わないが、イエスは健康(health)と、助け(help)と、希望(hope)をくださる。
サンタは「泣かないで」と言うが、イエスは「心配事をわたしに任せなさい。わたしがあなたの世話をするから」と言われる。
サンタは私たちを笑わせてくれるが、イエスは私たちに喜びをくださる。そして、その喜びは私たちの力になる。

 そして、そのリストには「サンタは北極に住んでいるが、イエスはどこにでもおられる」とありました。キリストは、私たちと共にいて、私たちの救いとなり、助けとなるため、「人となって、私たちの間に住まわれ」ました。クリスマスは、今も、私たちの側近くに、私たちと共にいてくださるイエス・キリストを見つけ出す日なのです。

 三、神の恵みであるキリスト

 さて、14節の最後の部分は「私たちはこの方の栄光を見た」ですが、その後、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と続けています。栄光とは神のご性質の表れなのですが、ここでは、神の「全知」「全能」「永遠」「不変」などの栄光ではなく、神の「恵みとまこと」の栄光が語られています。

 ヨハネ1:17に「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とあって、「律法」と「恵み」が対比されています。律法は神の「聖さ」や「正しさ」を表し、私たちに、聖くあること、正しくあることを要求します。しかし、私たちは律法の通りに聖く、正しく生きることができませんでした。恵みによって罪を赦していただき、新しくされてはじめて、聖さや正しさを目指して生きることができるようになりました。では律法はいらないのでしょうか。いいえ、律法がなければ、自分の罪が分からず、恵みを求めることもできません。また、律法がなければ、聖さや正しさの具体的な目標を見失ってしまいます。しかし、律法には罪を赦し、人を罪からきよめる力はありません。旧約時代の人々も、罪の赦しやきよめの恵みを知らなかったわけではありませんが、それは部分的なものでした。罪の赦しやきよめの恵みはイエス・キリストによってはじめて、完全な形で示されたのです。

 さきほどのサンタクロースとキリストを比べたリストの中に「サンタはツリーの下にギフトを置くが、イエスはご自分がギフトになり、十字架の木の上で死なれた」というのもありました。ヨハネ3:16に、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」とあるように、神は、イエスご自身を私たちへの愛の贈り物、「恵み」そのものとして、与えてくださったのです。ヨハネ3:16はイエスの十字架を指していますが、クリスマスはイエスが十字架への第一歩を踏み出された日ということができますから、ヨハネ3:16はクリスマスの御言葉でもあるのです。

 「恵みとまこと」という言葉の組み合わせは、神の恵みがまことの恵みであること、つまり、真実で変わることのない恵みであることを意味しています。ヨハネ3:16の後半が「それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と言っているように、神の救いの恵みは決して変わることなく、信じる者はかならず救われ、永遠のいのちに至るのです。

 「私たちはこの方の栄光を見た」の「見た」(セアオマイ)という言葉は "theater" の語源になっている言葉です。イエスは、ご自分の生涯を「劇場」にして、私たちに神の栄光、恵みの栄光を見せてくださいました。18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とあるように、イエスは私たちに、神を、神の恵みを見せてくださっているのです。

 今年のクリスマス、私たちは何を見るでしょうか。私たちは、クリスマスがサンタクロースの日でも、年末の行事でもないこと、また、イエスの誕生パーティでもないことを知っています。そうしたものではなく、聖書のクリスマスを静かに想い見ましょう。「天に栄光、地に平和」と歌った天使たち、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」とのメッセージを聞いてベツレヘムに急いだ羊飼いたち、家畜小屋のマリアとヨセフのことを想いみるのですが、何よりも見つめなければならないのは、飼葉桶に寝かせられた赤ん坊のイエスです。このイエスのうちに、神が人となられ、私たちと共に生き、そして私たちのために救いを成し遂げてくださった「恵みとまこと」が輝いています。それをしっかりと見つめましょう。クリスマスはじつに、イエス・キリストにある「恵みとまこと」を、また、「恵みとまこと」に満ちたイエスを信じ、受け入れる時です。その時、私たちは、信じる者の生涯に神の「恵みとまこと」が満ちるのを見ることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたがクリスマスにしてくださったことは、私たちの理解を超えています。しかし、それは、私たちがあなたの「恵みとまこと」に与るためでした。「恵みとまこと」であるイエスを心に迎えます。このクリスマスに、私たちをあなたの「恵みとまこと」で満たしてください。人となられた神の御子、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/20/2020