1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
一、神の御子
使徒信条は、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と言って、イエスを神の「ひとり子」と呼んでいます。ヨハネ3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに…」とあり、賛美にも「ひとり子イエスよ」と歌うものが多くあります。しかし、多くの人はイエスがなぜ神の「ひとり子」と呼ばれるのか、それが自分にとってどんな意味を持っているのかをあまり考えることがないように思います。それで、きょうはイエスが「ひとり子」であることについてご一緒に学ぶことにしました。
まず、「子」という言葉に注目しましょう。なぜイエスは「子」と呼ばれるのでしょうか。それはイエスが神に「造られたもの」ではないからです。この世にあるものはすべて神が造りました。神ご自身の他、「造られたもの」でないものはありません。創造者でないものは被造物であり、被造物でなければ創造者です。ヨハネ1:1-3はこう言っています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」ここで「ことば」と呼ばれているのはイエスのことです。特に人となってこの世に生まれる以前のイエスのことです。この世は「ことば」によって、つまりイエスによって造られました。ヨハネ1:1-3はイエスは造られたものではなく、世界の創造者であると言っているのです。
イエスは今から二千年前、ユダヤのベツレヘムに生まれました。クリスマスはイエスの誕生を祝うものです。では、イエスは、その時にはじめて存在するようになったのでしょうか。いいえ、イエスは初めから、永遠の先から存在していました。イエスご自身が「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです」(ヨハネ8:58)と主張しています。アブラハムは紀元前二千年、今から四千年前の人です。イエスは、人間としては「アブラハムの子孫」として生まれましたが、神の「子」としは、アブラハムの以前から存在していたのです。アブラハムの以前どころか人類が存在する以前、いや宇宙が存在する以前から、神と共に存在していたのです。イエスは神です。「父」に対して「子」という名で呼ばれる神、「子」なる神です。このことはとても大切なことですので、しっかり心に留めておきましょう。
ローマ皇帝による教会への迫害が止み、キリスト教がローマ帝国の国教のようになってから、それまで命がけで守られてきた信仰を歪めるものが教会の中に入ってきました。そのひとつが「アリウス派」というもので、この人たちはイエスは神ではなく、神によって最初に造られた「造物主」であると主張しました。イエスは神的ではあるが神と同一ではないとしたのです。これに対して教会は会議を開き、アリウス派を退け、「ニケア信条」を採択して、イエス・キリストについて次のように言い表しました。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
この言葉はほとんどがヨハネの福音書から取られています。ニケア信条は何か新しいことを言っているのでなく、聖書が教え、使徒たちが伝えたことをそのまま語っているのです。たとえイエスがどんなに素晴らしい人物であったとしても造られた者であったなら、人はこのお方によって救われることはありません。実際、イエスが神であることを否定したアリウス派は、人は自分の善行で自分を救わなければならないと教えました。イエスが神でなければ、人は恵みにより、信仰により救われるという聖書の大切な教えも崩されてしまうのです。
二、ひとり子
次に、イエスが「ひとり」の子と呼ばれていることを考えてみましょう。神はイエスの他に「子」をお持ちではありませんから、たしかにイエスは「ひとり子」なのですが、それは「一人っ子」という意味ではありません。日本語の翻訳では「ひとり」に数字の「一人」を使っていません。新共同訳は「独自」の「独」を使っています。そうです。イエスはまったく独自なお方なので「ひとり子」と呼ばれるのです。「ひとり子」は英語で "One and Only Son" と訳されますが、それには「世界でたったひとつのもの」「他のものとは比べられないもの」「他のものに替えることができないもの」という意味があります。
SMAPが2002年に「世界にひとつだけの花」という歌を歌いました。こんな歌です。
No.1 にならなくてもいい「ナンバー・ワン」になろうと競い合うのでなく、「オンリー・ワン」であることを喜ぼうというわけで、多くの人がこの歌に共感し、この歌は日本でとてもはやりました。「オンリー・ワン」という言葉は特別な存在を指しすときに使います。神は、イエスを特別な愛をもって愛され、「オンリー・ワン」、「ひとり子」と呼んだのです。
もともと特別な Only one
そうさ僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい
イエスがバプテスマを受けたあと、天からの声がこう言いました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)イエスは永遠の先から「御父」の「御子」でした。「御父」と「御子」の間には、私たちには量り知ることのできない深い愛がありました。今、人となり、バプテスマを受けて、父のみこころを成し遂げようとしている御子に、御父はもういちど、その愛を宣言されたのです。イエスが「ひとり子」、また、"One and Only" と呼ばれているのは、イエスが「御父」にとってかけがえのない「御子」、最愛の「子」であるからなのです。
神は預言者や天使を遣わしてみこころや栄光を示してきました。しかし、最後に、神は、預言者でも、天使でもなく、ご自分の最愛の「子」を世に遣わしました。それは、神の、私たちに対する愛を示すためでした。神は私たちに、私たちへの愛を示すため、どうしても御子を人として世に遣わさなければならなかったのです。神の愛は御子でしか表せなかったのです。14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」とある通りです。
続く16節と17節にも、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」とあって、「恵み」という言葉が繰り返されています。「恵み」とは、「それを受ける資格のないものに向けられた神の愛」のことです。神は、その「ひとり子」によって、私たちに、この愛を伝えてくださったのです。
ですから、神の愛を語るヨハネ3:16は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と言って、イエスを、他のどんな名称でもなく、「ひとり子」と呼んでいるのです。聖書でイエスが「ひとり子」と呼ばれているところには、父の御子に対する愛とともに、神の人への愛が表されています。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白する時、「ひとり子」イエスを通して与えられる神の愛を深く思いみましょう。
三、長子
最後に、私たちも、「ひとり子」イエスによって、私たちも神の子どもとされるということを見ておきましょう。ヨハネ1:12-13にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」イエスは、ご自分を信じる者に「神の子どもとなる特権」を与えてくださるのです。さきほど、イエスが「独り子」と呼ばれるのは「一人っ子」という意味ではないと言いました。イエスは、ともに神の愛を受ける兄弟、姉妹を持っているのです。ご自分ひとりがその愛を受けるのでなく、ご自分を信じる者にも、その愛を分け与えることを望んでいるのです。
イエスは十字架で私たちの身代わりに苦しみを受け、死なれました。それによって私たちの罪を赦し、私たちを神の前に正しい者とするためでした。罪のないお方が罪人の立場に立つことによって、つまり、罪ある私たちと立場を入れ替わることによってご自分の正しさを与えてくださったのです。そればかりでなく、イエスは、その身分をも私たちと入れ替えてくださいました。つまり、イエスは罪の奴隷という身分にかえて、神の子の身分を与えてくださったのです。神は私たちのために最愛の「子」を与え、「子」であるイエスは、ご自分の命も、身分も、立場も、そして、父の愛も私たちに分け与えてくださったのです。
復活の後、イエスはこう言いました。「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る。」(ヨハネ20:7)イエスは、父をご自分ひとりの父でなく、イエスとイエスを信じる者との共通の父としてくださったのです。ですから、私たちは神がイエスに「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と言われた言葉を、私たちに与えられた言葉として受け取ることができ、神の子どもとされたことを喜ぶことができるのです。
イエスは、父の「ひとり子」だからといって、父の愛を独占するようなことはしませんでした。イエスはご自分が長子となり、数多くの弟や妹とその愛を共有してくださったのです。イエスを信じる私たちも、自分たちだけが神の愛を受ければ良い、イエスの恵みに与ることができれば良いなどといった、狭くて小さい考えを捨て、もっと多くの人に、父の愛を、御子の恵みを伝えていきたいと思います。神を父と呼ぶ、神の家族が増えるようにと願い、求め、そのために働きたいと思います。
(祈り)
父なる神さま。あなたは、私たちに最愛の御子を与え、御子イエスはあなたの愛を私たちに分け与えてくださいました。「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白するたびに、あなたの大きく深い愛を想わせてください。そして、それが御子のゆえに、聖霊によって私たちに注がれていることを知らせてください。あなたから受けた愛を、人々に分け与える者としてください。御子イエスのお名前で祈ります。
2/10/2019