クリスマス・イン・オクトーバー

ヨハネ1:14-18

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 一、人となられたキリスト

 来週あたりから、私たちの教会でも「クリスマス・イン・オクトーバー」が始まります。これは外国にいらっしゃる宣教師のお子さんたちにクリスマスギフトを送るもので、有志の方からの募金をお願いすることになるかと思います。今では、12月になってからギフトを送っても、航空便でクリスマスまでには届きますが、一昔前は、遠い外国には船便で何ヶ月もかかったので、「クリスマス・イン・ジュライ」とか「クリスマス・イン・オクトーバー」とか言って、クリスマスの何ヶ月も前から、教会でクリスマスギフトを用意したのです。今年も、この時期、世界各国でそれぞれのクリスマスを迎えられる宣教師のことを覚え、そのお働きが用いられるよう祈りたいと思います。

 今朝のメッセージのタイトルも「クリスマス・イン・オクトーバー」ですが、それは、今朝の聖書の個所に世界で最初の宣教師であるイエス・キリストが、父なる神のもとから私たちのもとに来てくださったことが書かれているからです。イエスは、ユダヤ人として生まれ、ユダヤの国で伝道されました。イエスはユダヤの国からはほとんど出てはおられません。ですから「宣教師」ということばはあてはまらないと思う方もおありでしょう。しかし、イエス・キリストは父なる神のもとから、私たちのこの世界に来てくださったというのは、宣教師が豊かな本国から、言葉も文化も全く違った遠い国に、時には命の保証もないまま派遣されていく以上のことではなかったかと思います。「ことばは人となって」というのは、「ことば」と呼ばれるお方、世界の創造者であるお方が、被造物の世界に入ってこられたということ、造り主が造られたものにすぎない私たち人間とすこしも変わらないものになってくださったということを意味します。被造物である人間の側から、創造者であるお方のことを完全に理解することは不可能ですが、「人となって」来られた時のイエスのお気持ちは、遠い外国にはじめて降り立った宣教師のようであったと思います。

 私は、そのことを考えていましたとき、昨年十二月の宣教委員会で、ある姉妹が話してくださったあるストーリーを思いだしました。それはこういうものでした。ブラジルにある宣教師がいて、彼はブラジルのいろんなところにいる他の宣教師たちのために小型機で物資を運ぶ仕事をしていました。彼は飛行機のパイロットだったのです。クリスマスが間近に迫った時ある日、彼に仕事が入りました。彼は、奥さんや子どもたちに「クリスマスには帰ってこれるからね。そうしたらみんなでクリスマスを祝おう。」と言って目的地に向かいました。無事に仕事を済ませて帰ろうとしたのですが、その季節には珍しい大雨で、飛行機を飛ばすことができませんでした。一日待てばやむだろう、二日待てばやむだろうと、待っていたのですが、一向に雨はあがりません。そしてとうとうクリスマスの日になってしまいました。彼は「クリスマスなのに家に帰れないなんて―これではクリスマスが台無しだ」と、心がイライラして夜よく眠れませんでした。彼は心の中で「イエスさま、どうしてクリスマスの日に、私のホームから遠く離れたところにいなければならないんですか」とつぶやきました。その時、彼の心にキリストが語りかけてくださいました。「子よ、わたしもクリスマスの日に、わたしのホームから遠くはなれたところにいたのだよ。」そうです。イエスは彼のホームである天から、父なる神のもとから、遠く離れたこの地上に来てくださったのです。私たちはクリスマスは「ホームにもどる日」と思っていますが、イエスにとっては「ホームから離れる日」だったのです。私たちに救いのメッセージを伝えるため、イエス・キリストは父なる神のもとから遣わされて来られました。今はまだ十月ですが、今から、このクリスマスの意味をしっかりと覚えておきたいと思います。

 二、私たちとともに住まわれるキリスト

 ヨハネの福音書は言います。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」キリストが人となられたのは、私たちの間に住まわれるためでした。「住まわれた」(エスケーノーセン)ということばは、もともと「テントを張る」ということばでした。昔のイスラエルの人々は、牧畜を主にしていましたので、家畜の移動とともに人々も移動し、行く先々にテントを張って生活したのです。キリストが「私たちの間にテントを張られた」ということばは、キリストがごく普通の人々の普通の生活の真中に来てくださったということを良く表わしている表現だと思います。イエス・キリストは、王宮にでも、神殿にでもなく、家畜をつなぎとめておく洞穴にお生まれになりました。先月の榊原先生のお話のように、「暗い、汚い、くさいベコ小屋」に生まれてくださったのです。これは、家畜を飼うものが、家畜といっしょに生活するように、イエスがいつも私たちの身近にしてくださるお方だということを表わしています。

 実は、神が私たちの間にテントを張られたのは、これがはじめではありません。イスラエルは紀元前千四百年ごろエジプトで奴隷でしたが、神は、イスラエルをエジプトから救い出してくださいました。その時、神はモーセに特別なテントの家「幕屋」を作るようにお命じになりました。それは、人々がそこで礼拝するためのものですが、イスラエルが荒野にいる間、人々はこの幕屋を中心にして宿営し、人々が移動するときも、幕屋はその行列の真中にあって、人々とともに移動したのです。出エジプト記、レビ記、そして民数記を読むとそのことが詳しく書かれていますね。

 出エジプトから四百年たって、幕屋はしだいに古びてきまいましたので、神はソロモンに神殿を建てることを許されました。その神殿はまことに壮麗なものであったのですが、神殿よりも幕屋のほうが、神が人々の只中におられて、人々のことを気遣っていてくださるということをよく表わしていました。それで、ヨハネの福音書は「キリストは私たちの間にテントを張られた」と言うことによって、旧約時代の幕屋があらわしていたものがキリストによって成就したと言っているのです。キリストは私たちとかわらない人となって、この世に来てくださいました。幕屋が常にイスラエルの人々と共にあったように、キリストはいつも人々とともにいて、その痛みや悲しみを知ってくださり、私たちと共にいてくださる神となってなってくださったのです。

 「テントを張る」という言葉はヨハネの黙示録にもあって、7:15-17に「だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」と書かれています。21:3-4にも「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。神が「幕屋を張られる」「神の幕屋が人とともにある」といった言葉がそうです。この言葉は、神と人とを隔てる一切の罪や悪が取り除かれる時、神が備えていてくださる最終的な救いを指し示す慰めに満ちたことばとなっています。イエス・キリストによって神を「わたしの神」と信じる者に、神は「あなたはわたしの民、わたしの子だ」と言ってくださるのです。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(レビ26:12)という旧約聖書の約束はイエス・キリストによって、キリストがこの世にお生まれくださったクリスマスの日に成就したのです。

 三、神の恵みを伝えるキリスト

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」キリストが人となられたのは、私たちと共にいてくださるためでした。そして、キリストが私たちと共にいてくださるのは、神の栄光と、恵みとまことを私たちに示すためでした。「私たちはこの方の栄光を見た」とある「見た」(エセアサメサ)という言葉は"theater" の語源になった言葉です。18節に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあるように、キリストは見えない神を見える形で表わすために人となってきてくだいました。キリストはご自分の生涯をいうならば「劇場」にして、私たちに神を見せてくださいました。キリストのご生涯を見るものは誰もが、そこに神を見ることができるのです。

 ところで「栄光」という言葉は、わかるようでわからない言葉です。私はこれを「神のご性質のあらわれ」という言葉で置き換えています。光そのものは無色透明ですが、プリズムを通すと、赤から紫色のきれいな虹の色が見えるようになります。そのように、神の栄光とは、私たちの目に見えない神のご性質が見える形で表わされたものを言います。神は、永遠、不変のお方であり、何よりもきよいお方、正しいお方です。神のきよさ正しさは旧約聖書の時代にすでにモーセを通して、またモーセを通して与えられた「律法」に示されていました。しかし、神の「恵みとまこと」はイエス・キリストによって示されました。

 New Living Translation は「恵みとまこと」を "unfailing love and faithfulness" (「神の絶えることのない愛と真実」)と訳していますが、的確な訳だと思います。キリストのご生涯の全体が神の私たちに対する変わらない愛と真実を示していますが、特に、キリストが私たちの罪を背負って死なれた十字架には、神の愛と真実が最もよく現われています。一口に愛と言っても様々な愛があります。しかし、誰かのために命をささげる―これにまさる愛はないということは誰もがご存知でしょう。イエスも「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」と言っておられます。キリストが私たちを愛してくださった愛は、このすべてにまさる愛、もっとも大きな愛でした。罪のない神の御子が私たちの罪を背負い、その身代わりとなって死んでくださった、それが十字架です。ヨハネは十字架をさして「ここに愛がある」と言いましたがそのとおりです。十字架に示された以上の愛はありません。

 神の真実は、神が私たちへの約束を、どんなことがあっても守りつづけてくださるということの中に見られます。人間がどんなに神との約束を反故にしても、神は人間を救うという約束を守りつづけ、ついにはそのひとり子イエス・キリストを送ってくださったのです。そして神は「イエス・キリストを自分の救い主として心に迎えいれた者、イエスは主キリストであると信じた人々は、罪ゆるされ、救われて、神の子として生まれ変わる」という救いの約束を、その真実にかけて守ってくださいます。この約束は、イエス・キリストが十字架の上で流された血潮によってしるされた約束、キリストがその命をかけて保証しておられる約束だからです。

 神の御子は私たちの救いのため人となり、私たちのこの世界に住んでくださいました。私たちの痛みや悲しみ、苦しみのすべてを身に受けて、私たちに神の愛と真実を届けてくださいました。これらはクリスマスからはじまりイースターに終わるイエス・キリストの地上でのご生涯において成就しました。そんな意味でクリスマスやイースターは十月であれ、十一月であろうが、常に心に覚えておかなければならない出来事なのです。

 今日は、世界聖餐日、世界中のクリスチャンが、聖餐式を通して、イエス・キリストが示してくださった愛と真実を覚える日です。イエス・キリストのおからだをあらわすパンをいただく時、私たちを救うため、罪をのぞいては私たちと全く同じになるため、イエス・キリストが、肉体をとり人となられたことを深く思い、感謝しましょう。ブドウジュースをいただく時、イエス・キリストが、私たちの救いのためにその命をささげてくださったことを深く思い、感謝しましょう。パンとブドウジュースは物質的に私たちのからだに入りますが、イエス・キリストは霊的に私たちの魂のうちに入って、私たちといつも共にいてくださることを深く思い、感謝しましょう。私たちの教会では、イエス・キリストへの信仰を告白してバプテスマを受けた方々で聖餐式を守ることにしております。まだバプテスマをお受けになっていらっしゃらない方は、パンや杯をお取りにならないようお願いいたします。イエス・キリストを信じてバプテスマをお受けになりたい方は、お申し出ください。この礼拝につどっておられる皆さんがバプテスマを受け、共に聖餐式を守ることができますよう、心から願っています。すでにバプテスマをお受けになっておられる方は、いずれの教会の方でありましても、共に聖餐にあずかっていただきたく思います。

 (祈り)

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」父なる神さま、ヨハネの福音書には、マリヤもヨセフも、飼い葉桶も東の博士も登場しませんが、このことばによってクリスマスに起こった最も大切なことをお教えくださり、感謝いたします。あなたの愛と真実がキリストのご生涯の中に、私たちの目に見える形で示されていることもありがとうございます。これから守る聖餐式は、あなたの愛と真実を、私たちが目で見て、手で触り、この口で味わうことのできるものとしてくださったものです。私たちに、これにあずかることを許してくださった、あなたの恵みを感謝します。みことばと共に、聖餐によっても、あなたの愛と真実をさらに深く心にきざむことができますよう、お導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

10/7/2001