1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
映画「ダ・ヴィンチ・コード」が話題になっています。世界中での興行収入を合計すると、おそらく過去最高になるだろうと言われています。みなさんの中にも、映画を観た人、原作を読んだ人がいると思います。この作品はまったくのフィクションなのですが、作者のダン・ブラウンが「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」と書きましたので、この小説でキリストについて言われていることも本当のことだと思っている人も多くいるようです。「ダ・ヴィンチ・コード」は、「イエスはマグダラのマリヤと結婚していて、イエスが十字架で死ぬ前に、マグダラのマリヤはイエスの子を宿していた。イエスは、初代教会を自分の妻であったマグダラのマリヤとその子に任せようとした。」と言っています。こういう説は、全くの空想話で、むきになって反論するほどのことでもありませんし、イエス・キリストを信じる私たちには、何が正しく、何が間違っているかは分かるのですが、まだ信仰を持っていない人がこの小説を読んだり、映画を見て、「キリストは結婚していたのだろうか。今も、その子孫がどこかにいるのだろうか。」と疑問を持って質問してきた時、私たちは、それに対してきちんとした答えを持っているでしょうか。そのような時、丁寧に聖書を説明してあげることができれば、「ダ・ヴィンチ・コード」の小説を読んだり、映画を観たりして、キリストについて間違った考えを抱いた人も、本気で聖書を学ぶようになり、キリストを信じる信仰に導かれるかもしれません。神は、キリストに反対する人や、ことがらさえも、キリストを伝えるために用いられることがあります。私たちがしっかり聖書を学び、信じているなら、「ダ・ヴィンチ・コード」のようなものさえも、キリストを伝える機会として使うことができるのです。
一、キリストは結婚していたか
「キリストは結婚していた。」ということは、聖書に何の根拠もないばかりか、聖書全体の教えと矛盾することで、いちいち反論するまでもないことですが、皆さんが友だちから質問された時の助けになるかと思い、いくつかのことをあげてみたいと思います。
「イエスが結婚していた。」という主張する人々は、当時のユダヤ人にとって、結婚していない人は軽んじられ、ユダヤ教の教師はみな結婚していたと言います。しかし、ユダヤ教のすべてが、結婚について同じ考えを持っていませんでした。ユダヤ教の一派エッセネ派の多くは独身でした。イエスの教えられたこと、イエスのなさったことはすべて、当時のユダヤ教の教えとは違った、とてもユニークなものでした。ですから、イエスを当時のユダヤ教の慣習の枠組みの中に入れて、「イエスも結婚していた。」と考えるのは間違っています。
第二に、イエスは、弟子たちに、独身について教えておられます。イエスは「というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」(マタイ19:12)と言われましたが、「生まれついた独身者」、「天の御国のために、自分から独身者になった者」という言葉は、あきらかにイエスご自身を指しています。そうでなければ、イエスの教えに力はなかったでしょう。
第三に、イエスの周りには多くの女性の弟子がいて、イエスと親しくしていました。ベタニアのマルタ、マリヤ姉妹がそうでした。マリヤは「主の足もと」に座って、その教えを聞いたほどです(ルカ10:39)。さまざまな女性がイエスに近づき、香油を注いでいます。もし、イエスが結婚していたなら、女性たちは、イエスの妻に遠慮して、そのようにはイエスに近づかなかっただろうと思います。女性たちが男性であるイエスにそのように近づくことができたのは、イエスが特別なお方だったからでした。
第四に、イエスは、十字架の上で母マリヤを弟子ヨハネに託しています。イエスは十字架の苦しみの中から、母マリヤに向って「そこにあなたの息子がいます。」と言い、ヨハネに「そこにあなたの母がいます。」と言われました。イエスの十字架のもとには、母マリヤばかりではなく、母マリヤの姉妹、クロパの妻マリヤ、またマグダラのマリヤもいました(ヨハネ19:25-27)。もし、マグダラのマリヤがイエスの妻であったのなら、なぜ、イエスは母マリヤの行く末をマグダラのマリヤに託さなかったのでしょうか。
第五に、マグダラのマリヤがイエスと結婚するような若い女性であったというのは、全くの想像にすぎません。イエスに従った女性たちの多くは、イエスの母マリヤと似通った年代の女性たちでした。ペテロの姑やヤコブとヨハネの母親など、息子たちがイエスの弟子となったので、自分たちもイエスに従うようになった女性がほとんどでした。結婚前の若い女性が、男の弟子たちにまじってイスラエルの各地を旅行するということは、当時は考えられないことであり、また、そういうことがあれば、イエスを批判しようと目を光らせていたパリサイ人たちが見逃すはずはありませんでした。マグダラのマリヤの名は、常に、イエスの母マリヤやクロパの妻マリヤたちと一緒に出てきますので、マグダラのマリヤもまたイエスの母と同じような年代の女性であったと思われます。
第六に、使徒パウロはコリント第一9:5で「私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。」と言っています。もし、イエスが結婚していたのなら使徒パウロは、ほかの使徒たちや、主の兄弟たち、また、使徒ペテロなどの例をあげずに、主イエスの例をあげて、「私たちには、主イエスのように妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。」と言ったことでしょう。
イエスが独身であったことは、他にも、いくつも証拠がありますが、最後に、イエスが死より復活されたということが、すべての議論に終止符を打ちます。人間はやがて死んでゆきます。ですから、結婚して子孫を残し、親は子に、子は孫に自分たちの知識や経験を与え、その使命や事業を引き継がせていくのです。しかし、イエスは死を打ち破って復活され、今も生きておられるお方です。イエスには、子孫を残して使命を引き継がせる必要はないのです。人間の目から見ると、イエスの使命は使徒たちによって引き継がれたかのように見えますが、実は、そうではなく、イエスご自身が弟子たちを用いて、その使命を遂行しておられるのです。マルコ16:20は「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。イエスは今も生きて、私たちのうちに働いていてくださる神なのです。
二、キリストの子孫とは誰か
「ダ・ヴィンチ・コード」ではキリストの血筋が、フランスのメロビング王朝に保存されていると言っています。小説や映画には「キリストの子孫」が登場します。しかし、キリストは、ご自分の血筋を残しはしませんでしたし、そのようなことを考えもなさいませんでした。むしろ、それとは逆のことを考えておられたのです。
マタイの福音書1章にキリストの系図があります。イエスには、ユダヤ人の先祖であるアブラハムからイスラエルの王国を確立したダビデまでの十四代、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、さらにバビロン捕囚からヨセフやマリヤに至る十四代を数えることのできる由緒正しい系図がありました。この系図はイエスが救い主であることを証明するもので、なくてならないものなのですが、この系図には続きがありません。イエスで終わっています。いいえ、イエスがこの系図を終わらせたのです。ユダヤの人々は、由緒正しいユダヤの系図を持つことによって、その血筋を保つことによって救われると信じていましたが、イエス・キリストは、私たち異邦人のために血筋によらない救いの道を開いてくださったのです。イエスは、血筋や系図によらない救いを打ち立てるために、血筋を保たず、その系図に終止符を打たれたのです。
イエスのお心の中にあったのは、結婚によって作られる人間の家族ではなく、信仰によって結ばれる神の家族でした。ある時、イエスが人々を教えておられると、母と兄弟たちが訪ねてきました。人々は、イエスの母と兄弟が来たことを知ると、イエスに「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。イエスさま、お話を止めて、おかあさんと弟たちに会いに行ってください。」と言いました。ところが、イエスは「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」と言ってから、イエスの教えを聞くために集まってきた人々を見回して、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:33-35)と言われました。イエスは血縁による家族ではなく、信仰の家族を造ろうとされたのです。
では、どのようにして、この神の家族の一員になることができるのでしょうか。聖書は教えています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)イエスを神の子、キリストと信じる者は、その信仰によって救われるのです。決して血筋によってではありません。
アメリカは最初から王室も、貴族も持たない、人民の国として出発しました。私は、アメリカの独立宣言を誇りに思っています。それは、「われわれは以下の真理を自明であると信じる。すなわち、すべての人は平等に創造され、ひとりびとりは創造主なる神によって、常に変らぬ、他に譲り渡すことのできない権利を与えられている。」と宣言しています。聖書とワシントンの自伝の二冊の本しか持たなかった、丸太小屋暮らしの貧しい少年がやがて大統領になれる国、生まれや家柄、肌の色や言葉のアクセントで差別されない国、それがアメリカです。ところが最近は、アメリカでも、お金持ちや能力のある人、あるいは機会に恵まれた人たちが、特権階級を作りつつあります。血筋以外の差別が生み出されようとしています。しかし、人は、神の前に来る時、みな等しく罪びととして立たなければなりません。罪をゆるされ、罪からきよめられるのは、キリストを信じる信仰によるのです。「血筋」によってではありません。あなたのおじいさんやおばあさんがクリスチャンだったから、あなたの両親がクリスチャンだったから、あなたもクリスチャンになれるのではありません。あなたもまた、キリストをあなたの神として信じなければならないのです。人は血筋によってではなく、キリストが流してくださった十字架の血によって救われるのです。聖書がキリストの血について語る時は、決して、その血筋のことではなく、あの十字架で、私たちの罪の身代わりとなって流してくださった血のことを語っています。私たちは、キリストの流してくださった血によって、救われ、神の子どもとされるのです。
私たちが神の子として生まれ変わることができるのは、頭が良くて、難しいことがわかって、悟りを開くことができるからではありません。能力があって、数多くのことができるからでも、財産があって人に施しができるからでもありません。聖書は「肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのである。」と言っているではありませんか。私たちは人を見かけで判断しがちです。きれいな身なりをして、ニコニコしている人を見ると「良い人」だと思ってしまいます。ついつい「みかけ」にだまされてしまうのです。しかし、神は私たちのすべてを見通しておられます。神は私たちの外側のものを、ご覧になりません。神は、私たちの内側にあるもの、私たちのたましいの中にある悔い改めと信仰をご覧になります。キリストを聖書が教えるとおり、私の救い主として受け入れる時、私たちは救われ、神の子どもとされるのです。
「キリストの血筋」を云々するところに人が惹かれていくのは、それが血筋であれ、家柄であれ、学歴や社会的立場、能力や財産、姿や顔かたちであれ、何か自分を誇りたいという思いからきています。しかし、「血筋」に代表される人間が誇る、どんなものも救いを与えることはないのです。救いは、そうした誇りを捨てて、神の前に自分が罪人であることを認め、その罪がキリストの十字架の血によってしか赦されることはないのだということを信じ、受け入れることによって、はじめて私たちのものとなるのです。キリストは、私たちに血筋を誇ることをお許しになりません。血筋によってではなく、キリストを信じる信仰によって、神の子どもとして生まれ変わった者が、神の家族となり、霊的なキリストの子孫となるのです。
(祈り)
父なる神さま、あなたと、あなたの御子イエス・キリストの素晴らしさをほめたたえます。キリストをその聖なる御座から引き降ろそうとする人がなんと多いことでしょうか。それは、結局は、自分を神としようとする人間の罪以外の何ものでもありません。どうぞ、この世に悔い改めを与え、キリストを神として、救い主として、主として受け入れることができるよう、導いてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/11/2006