1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
一、神の御子イエス・キリスト
誰でも、自分が愛する人のことをもっとよく知りたいと願います。友だち同士が、恋人同士がいつもいっしょにいていろんな話をしたいと思うのはそのためでしょう。それと同じように、いや、それ以上に、私たちも私たちの愛する主イエス・キリストをもっと深く知りたいと願っています。そして、私たちがイエス・キリストをもっと知りたいと願う以上に、私たちの父なる神は、私たちにご自分の御子イエス・キリストをもっともっと知らせたいと願っておられます。聖書にはイエス・キリストのご生涯を描いた福音書が四つありますが、それは、御父が御子を知らせたいという思いの表われだと思います。四つの福音書はイエス・キリストのご生涯を四回繰り返しているだけではなく、イエス・キリストを四つの方面から描いているのです。神は、私たちにイエス・キリストについてのある部分だけでなく、その全体を、他の面も見てほしい、学んでほしい、知ってほしいと願っておられるのです。
ところで、四つの福音書とヨハネの黙示録4:7は不思議な形でつながっています。ヨハネの黙示録4:7を見ますと、神の御座の近くに四つの生き物があったと記されています。ヨハネの黙示録4:7と4:8を開いてみましょう。「第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」この「しし」、「雄牛」、「人間」そして「わし」のような四つの生き物は、神のそば近くにいる特別な御使いをさしています。なんだか奇妙な感じがする表現ですが、これはヨハネの黙示録独特の言い回しで、四つの生き物はそれぞれ神の御子イエス・キリストのご性質の一面を表わしていると、古くから考えられてきました。人間が神のご性質を反映することができるよう「神のかたち」に造られたように、天使も神の栄光や力を表わすものとして造られており、この四つの生き物、天使が神の御子の四つの面を表わしているという解釈は間違っていないと思います。この四つの生き物が表わしている姿が、それぞれ四つの福音書で表わされているイエス・キリストのお姿とみごとに一致しているのです。
第一の生き物は「しし」のようでした。ライオンが「百獣の王」といわれるように、イエス・キリストは「王の王、主の主」です。イエス・キリストは旧約では「ユダ族のしし」として預言されており、人々はダビデのような王が神の民を治めるてくれるのを待ち望んでいました。マタイの福音書には、旧約の預言のとおり、イスラエルの王として、また全世界の王として来られたイエス・キリストがみごとに描かれています。
第二の生き物は「雄牛」のようでした。牛は労役に用いられます。ライオンが「王」を表わすとしたら牛は「しもべ」を表わします。イエス・キリストは、イザヤ書では「主のしもべ」と呼ばれており、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」(イザヤ42:1-4)と預言されています。牛が忍耐深い動物であるように「主のしもべ」であるイエス・キリストも忍耐をもって父なる神に服従し、私たちのために救いをみわざを成し遂げてくださいました。マルコの福音書はイエスをしもべとして描いています。
黙示録の第三の生き物は「人」のようでした。これは、イエスが人としてこの世にこられたことを表わします。イエス・キリストは何の罪もない完全で正しい人として、ご自分を神にささげてくださったゆえに、イエス・キリストは私たちの罪をあがなうことができたのです。イエス・キリストは罪のないお方でしたが、罪の世界の真っ只中に降りてきてくださり、私たちの痛み、苦しみ、悲しみを知る者となってくださったのです。ルカの福音書は、イエスを人として描いています。
第四の生き物は「わし」のようでした。鷲は空高く飛びますので、天的なものを表わします。イエス・キリストは人となられましたが決して人間から出たお方でなく、神のもとから来られたお方なのです。鷲が天から舞い降りるように、イエス・キリストも神のもとから人の世界に降りてきてくださったのです。ヨハネの福音書ではイエス・キリストを、鷲のように天に属するもの、神の御子として描いています。これからの礼拝でヨハネの福音書を学び続けることにしていますが、この学びによって神の御子としてのイエス・キリストをさらに深く知ることができるようにと願っています。
二、神のことばイエス・キリスト
では、今朝の個所、ヨハネの福音書一章一節から三節に目を留めていただきましょう。ここでも、イエス・キリストは鷲のように天に属するもの、高きにいますお方として描かれおり、イエス・キリストはすべてのものにまさるお方として描かれています。
「初めに、ことばがあった。」(1節)この「ことば」とはイエス・キリストのことです。なぜイエスは「ことば」と呼ばれたのでしょうか。「ことば」には二つの意味があります。
ひとつは「究極のもの」という意味です。ここで「ことば」をあらわすギリシャ語「ロゴス」は、そこから英語の logic ということばが生まれたように、「論理」という意味があります。そしてこの「ロゴス」が、ヨハネ1:1-3のように宇宙的な意味で使われる時は「宇宙の原理」「あらゆるものの根源」「究極のもの」という意味があるのです。古代から人々はこの世界の究極のものが何であるかを追求してきました。ギリシャ人もまた例外ではありませんでした。彼らはその哲学によってこの世界を成り立たせている究極のものを捕らえることはできませんでしたが、ともかくもそれに「ロゴス」と名づけました。ヨハネの福音書は、イエス・キリストこそがその「ロゴス」であると答えているのです。イエスを「ことば」と呼ぶことによってイエス・キリストこそが、「あらゆるものの根源」「究極のもの」であると教えているのです。
江戸時代、まだ日本がキリスト教を禁止し、鎖国していた時代から聖書は、香港やマカオで日本語に訳されていましたが、その最初の訳のひとつは、ヨハネ1:1を「はじめにかしこきものござる」――つまり、世界を設計された知恵と、世界を創造された力と栄光を持っておられる方――と訳していますが、これはこの節の意味を良くあらわしている訳だと思います。ヨハネ1:3は「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」と言っていますし、コロサイ1:15-17は「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」と言っています。イエス・キリストは、聖書を良く知らない人々から、世界の偉人たちのひとり、宗教の開祖のひとりと思われてていますが、もしそうなら、たとえどんなに偉大であっても、キリストもやはり人類のひとり、この世界の一部ということになります。しかし、キリストはこの世界の一部、造られたもののひとつではなく、この世界を造り、この世界を支えておられるお方なのです。私たちはこのような比べるもののない偉大なお方に造られ、愛され、守られ、導かれているのです。なんと幸いなことでしょうか。私たちの信じるお方、私たちの礼拝するお方がどんなに偉大なお方であるか、そのことをもっともっと知ることによって私たちの信仰はより確かなものになり、私たちの礼拝もより豊かなものになるのです。あなたは、イエス・キリストをあらゆるものの上に立つお方として信じ、礼拝しているでしょうか。
さてヨハネ1:1の「ことば」にはもうひとつの意味があります。それは「仲介者」という意味です。世界には二千の言葉があります。人間のことばの他に天使のことば、あるいは「天国語」というのがあるかもしれません。最近いただいたある集会の案内に「老壮年グループは日本語で、青年グループは英語で、乳幼児グループは天国語で集会をします。」とありましたが、赤ちゃんの言葉を天国語と表現したのはなかなかのユーモアですね。この方式でいけば、私たちの教会も、日本語部、英語部、天国語部があることになります。
それはともかくとして、どんな国のことばであっても、ことばの果たす役割の主なものは、それをを話す人の心の中にあるものを伝えることでしょう。イエス・キリストが「ことば」と言われるのは、イエス・キリストが神の御子として、私たちに神のお心を伝えてくださる方だからです。私たちの場合はことばが足らなかったり、過ぎたりして、自分の気持ちをそのまま伝えられないことがありますが、イエス・キリストは完全で真実な神の「ことば」です。「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」(1節後半と2節)と書かれている「ともに」ということばは親密な人格関係を表わすことばで、イエスは神と共におられたお方として神のみこころのすべて知っておられます。1:18で「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とありますように、神のすべてを知っておられるのは神の御子イエス・キリストだけが、私たちに神を示しすことがおできになるのです。
また「ことば」はそれを語る人の権威を実行に移させます。こんな話があります。あるホームレスがある親切な老人と公園で知り合い親しくなりました。ある日、その老人は彼にシャワーをとらせ、きれいな服に着替えさせ、そして彼に「これこれの会社の重役のひとりに会って、この封筒を直接渡してほしい」と小さな封筒を預けます。このホームレスだった人は、言われたとおりにしました。無事封筒を渡したから帰ろうとしますと、封筒を受け取った人は、彼を呼び止めて「ちょっと待ちなさい。君、明日からこの会社で働いてくれるかい?」と聞くのです。びっくりしたホームレスにその重役は言いました。「この手紙は、この会社のオーナーからの手紙で君を雇うように書かれているんだ。」このホームレスは、自分に親切にしてくれた人がその会社のオーナーで、自分に仕事を世話してくれていたことをまったく知らなかったのです。彼はその持っていった手紙、そこに書かれたことばに彼は職を得ました。権威ある人の「ことば」は、その権威を働かせてものごとをことばどおりにするのです。
同じようにイエス・キリストは神の「ことば」として、神の権威を働かせて世界を造り、治め、そしてこれを救われるのです。キリストが「ことば」と呼ばれるのは、父なる神から一切の権威を預かって、それを私たちに働かせてくださるからです。信仰とは、このイエス・キリストの権威を受け入れ、それに従うことです。その時、イエス・キリストの力が私たちのうちに働くのです。
三、永遠の神イエス・キリスト
さて、ヨハネの福音書1:1は「初めにことばがあった。」と言っています。イエス・キリストは「はじめ」からいらしたお方です。この「はじめ」というのはどれぐらい先の「はじめ」でしょうか。四つの福音書は、それぞれ、違ったふうにイエス・キリストの生涯を描きはじめています。マルコの福音書はイエス・キリストの先駆者バプテスマのヨハネからはじめ、ルカの福音書はイエスの誕生の次第からはじめ、マタイの福音書はイエス・キリストのご生涯をイスラエルの先祖アブラハムからはじめでいます。マルコ、ルカ、マタイの順で時代をさかのぼっていますね。しかしヨハネの福音書はマタイの福音書のアブラハム以前にまでさかのぼっているのです。
ヨハネ1:1の「はじめに…」という言葉は、あきらかに創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造された。」という表現を意識して書かれています。創世記の冒頭とヨハネの福音書の冒頭には共通したものが数多くあります。創世記の「はじめ」とヨハネの「はじめ」のどちらが「はじめ」なのかと言えば、もちろん、ヨハネの「はじめ」の方が創世記の「はじめ」よりも「はじめ」です。ヨハネ3:3に「すべてのものは、この方によって造られた。」とありますから、造り主であるイエス・キリストが天地創造の前から存在されたのは当然です。イエス・キリストはいつかどこかでその存在をスタートされたお方ではありません。永遠のはじめから神の御子として存在されたのです。これは人間の存在とはまったく違っています。私たちにははじめがあり終わりがあります。私たちは有限のものですが、イエス・キリストははじめも終わりもない方、永遠のお方なのです。確かにイエス・キリストは今から二千年前、この地上にお生まれになりました。それは、永遠のお方が時間の中に入ってきてくださった、神が人となられたという、私たちに想像もつかない大きな奇跡であって、イエスがその時から存在をはじめられたということではないのです。
少し文法的なことを申しあげれば、ヨハネ3:3に「すべてのものは、この方によって造られた。」と言われている「造られた」という言葉は「アオリスト、不定過去形」といって「いつかどこかで存在をはじめた」という意味がありますが、「初めに、ことばがあった。」という時の「あった」というのは「継続形」で、「ずうっと継続して存在している」という意味があります。聖書は非常に注意深く言葉を選んでイエス・キリストが永遠の神であると、私たちに教えています。
イエス・キリストは地上でのお働きを終えて天に帰られる前に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。…見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ1:18-20)との約束を残してくださいました。私たちの信じるイエス・キリストは、永遠のはじめから永遠のおわりまでいてくださるお方、しかも、キリストを信じる私たちと共にいてくださるお方です。ヨハネの福音書が示すように、イエス・キリストを永遠の神として頼る者は、その永遠をイエスと共に過ごし、地上の人生もまた確かなものとなるのです。天からのお方、神のことば、永遠の神イエス・キリストをいよいよ深く知る者とさせていただきましょう。
(祈り)
父なる神さま、今朝、イエス・キリストが私たちの思いを越えて偉大なお方、永遠の神であることを教えていただきました。地上のさまざまなものに悩まされることの多い私たちですが、そのような時にこそ「はじめにことば―イエス・キリスト―があった」ということを思い起こさせてください。この世界の始まる前から、今も、この後も、どんな時にも共にいてくださるイエス・キリストに頼るものとしてください。あなたの御子イエス・キリストの力ある御名で祈ります。
9/9/2001