9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
一、処女降誕
救い主がいつ、どこで、どのようにしておいでになるかは、旧約聖書にすでに預言されていました。とくに、預言者イザヤは、救い主の誕生、働き、苦難、そして、その栄光を事細かに預言しています。今朝の箇所はその預言のひとつで、救い主イエスがお生まれになる、およそ750年前に書かれたものです。
イザヤは、まず、「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた」(6節)と言って、救い主は赤ん坊となってこの世に生まれると言っています。人は誰でも赤ん坊として生まれるのに、なぜイザヤは、そんな当たり前のことをわざわざ言っているのでしょうか。それは、救い主が、今までになく、これからもない特別な誕生の仕方をするからです。イザヤは7:14で「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」と預言しています。救い主は処女から生まれるのです。
日本で、一年間に生まれる赤ちゃんの数は、2013年には103万人でした。1949年に269万7千人を記録して以来、どんどん数が減っています。それでも、一日に2800人の赤ちゃんが生まれています。生まれる赤ちゃんの半数が男の子とすれば、60秒にひとりの男の子が生まれていることになります。世界中では、数知れないほどの男の子が生まれていることでしょう。しかし、その中の誰ひとり、イザヤの預言を満たす赤ちゃんはいません。処女マリヤからお生まれになったイエスだけが、この預言を成就したのです。
使徒信条に「我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ…」とあるように「処女降誕」は、わたしたちの信仰の大切な要素のひとつです。「処女降誕」と聞くと、「そんなことはありえない。それはクリスマス物語のひとつのエピソードにすぎない」と言って否定する人たちもいますが、もし、それが普通の誕生であったとしたら、イエスは天から来られたお方ではなく、人から生まれた者のひとりということになります。イエスは人から生まれた者の中で最も優れていたので、神の子と呼ばれるようになったということになるのです。しかし、人はどんなに優れていたとしても、アダムの子であるかぎり、アダムから受け継いだ「原罪」を持っています。そして、人に罪があるかぎり、人は他の人を罪から救い出すことができません。他の人を助けるために命を投げ出すことはできても、それによって人々の罪を贖い、罪の赦しをもたらすことはできないのです。それができるのは、ただおひとり、処女より生まれ人となられた神の御子イエス・キリストだけです。この罪のないお方が十字架の上で流された血だけが、人を罪から救うことができるのです。「処女降誕」がなければ、わたしたちの罪の贖いもないのです。
それにしても、救い主が赤ちゃんとなってこの世に来られるというのは、なんともリスクの大きなことだとは思いませんか。医学が発達していなかった時代には、抵抗力の弱い幼子は病気で数多く死んでいきました。現代でも食糧の乏しい地域では子供はおとなになる前に死んでいきます。そういう地域にいる子供に「おとなになったら何になりたい?」と質問が時には残酷に聞こえることもあります。おとなになれるかどうかわからないからです。「おとなになるまで生きていたい。」それが飢餓地域にいる子供の切実な願いなのだそうです。今から二千年前には、赤ん坊が無事に成人できる確率はおそらく五分五分だったろうと思います。神の御子はそんなリスクを背負って生まれてきました。実際、イエスは二歳にもならないときに、ヘロデ王から命を狙われるという危険な目にも遇っています。
しかし、父なる神はそんなリスクがあるにもかかわらず、御子を赤ん坊として世に送られました。それは、救い主が救いを必要としている人々と同じ苦しみや痛みを経験するためでした。高いところから「さあ、ここまで登ってきなさい」と言うだけなら、それはわたしたちに必要な救い主ではありません。「罪」という深い穴の中に落ち込んでいるわたしたちは、自分の力でそこから這い出すことさえできないでいるのです。わたしたちに必要な救い主は、その穴に降りてきて、わたしたちを抱きかかえ、そこから引き上げてくださるお方です。イエス・キリストは罪に苦しむわたしたちを救うため、罪の世界のまっただ中に降りてこられ、誕生から死にいたる人の生涯を生き抜いてくださったのです。救い主が赤ちゃんとなって世に来られたのはそのためです。そして、そのことの中に、神のわたしたちへの燃えるような愛が示されているのです。7節の最後に、「万軍の主の熱心がこれをなされるのである」とあります。かいば桶に寝かせられた赤ん坊に、この神の熱い愛を見る人は幸いです。この神の熱い思いに触れ、わたしたちも心を熱くして、この救い主に従い行く者でありたいと思います。
二、ダビデの子
イザヤは、また、救い主がダビデの子孫として生まれるとも預言しています。イザヤ11:1-2に「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる」とあり、11:10には「その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある」とあります。エッサイというのはダビデの父親です。やがて、ユダの国は滅び、ダビデの王家は途絶えます。しかし、木が切り倒されても根が残るように、国は滅びても、ダビデの血筋を引き継ぐ者は残りました。たんに血筋を引き継いでいるだけでなく、ダビデがまごころをもって神に信頼したように、神への信頼を忘れなかった人々がいたのです。「エッサイの株」というのは、そういう人々を指しています。
イエスの時代には、ダビデの血筋を引く者も、真実な信仰者たちも、切り株のように人々から捨てられ、忘れられていました。しかし、切り株からも新しく枝が出るように、人の目には隠れていたダビデの血筋、また真実な信仰者から、「ダビデ」の役割を果たす救い主が生まれるのです。実際のダビデはユダヤ一国の王でしたが、やがて来る「ダビデ」、つまり、救い主は全世界の王として、世界を治めます。ダビデはエッサイの子でしたが、エッサイより偉大でした。同じように、救い主は「ダビデの子」と呼ばれても、ダビデよりも偉大なお方なのです。
クリスマスの賛美「エッサイの根より生い出でたる」(新生讃美歌153)は、救い主を真冬に咲いた薔薇の花にたとえて、こう歌っています。
エッサイの根より 生い出でたるこの賛美や他の賛美が歌っているように、救い主は、聖書の預言の通りダビデの家系に生まれました。それがイエス・キリストです。イエスは人の血筋によらず、処女から生まれた神の御子ですが、人としては、旧約を成就するために、ダビデの家系に生まれたのです。ダビデに匹敵する王、いやダビデにまさる王として、世界を治め、それを平和に導くためでした。
古き書より 伝えられし 預言のごと
寒き冬の夜 バラは咲きぬ
イザヤの語る ちさきバラは
おとめマリヤを 母となして み旨により
救いのために み子となりぬ
三、不思議な助言者
イザヤは、さらに、救い主が「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれると預言しています。「名は体を表わす」というように、この四つのお名前は、救い主がどのようなお方かを言い表しています。今朝は、四つのお名前のうちの第一のもの、「霊妙なる議士」をとりあげます。
「霊妙なる議士」は、英語訳では "Wonderful Counselor"(「不思議な助言者」)と訳されており、そのほうが分かりやすいのですが、ここでいう「カウンセラー」は、現代の「カウンセラー」とは違います。今日のアメリカでは「カウンセラー」というと、さまざまな相談にのってくれる専門家という意味で使われます。お金のことは「ファイナンシャル・カウンセラー」に、精神的な悩みは「心理学のカウンセラー」に相談します。カウンセラーはクライエントの抱えている問題を分析してアドバイスを与えます。しかし、イザヤの時代にはカウンセラーと言えば、政治にかかわる人たちのことでした。王のまわりには外交や内政、また軍事の上で助言を与える人が大勢いました。アメリカで言うなら、大統領補佐官のような人たち、軍事で言えば参謀のような人たちです。
じつは、イザヤは、そのようなカウンセラーのひとりでした。イザヤはアハズ王(7章)やヒゼキヤ王(36-39章)に神からの言葉で助言を与えました。しかし、王たちは、イザヤの助言を受け入れませんでした。最終的に物事を決断するのは王ですから、王がアドバイスを受け入れなければ、どんなに優れたカウンセラーがいても、また、アドバイスがどんなに的確なものであっても、それが生かされることはないのです。しかし、もし、王自身が優れたカウンセラーであったらどうでしょうか。正しい政策を選び、次々とそれを実行していくことでしょう。やがて来られる救い主は、ご自身が優れたカウンセラーであって、この世を正しく治めることを知っておられます。救い主が「不思議な助言者」と呼ばれているのは、そのことを指しています。
ヘブライ語の「不思議」には「人間の知恵、知識、能力を超えたもの」という意味があります。聖書では奇蹟を表わすのに「しるしと不思議」(sign and wonder)という言葉が使われます。わたしたちは、自分自身のことさえ良く分かっていませんし、自分の人生の問題や身の回りに起こるさまざまな出来事に対処する十分な知恵も力も持っていません。ですから、わたしたちには、わたしたちの知恵や力を超えた助けが必要なのです。救い主は人間の知恵や力を超えてわたしたちのうちに働いてくださいます。救い主はまさに「奇蹟の助言者」です。
良いカウンセラーは、クライエントのことを良く知っています。誰も、自分のことは自分が一番良く知っていると思っていますが、そうではありません。時には、カウンセラーのほうが、その人のことを、その人以上に知っていることもあるのです。人間のカウンセラーでさえそうなら、まことのカウンセラーはもっとそうです。詩篇139篇にこうあります。
主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。イエス・キリストは、わたしたちの過去と現在を知っておられるだけでなく、将来も知っておられます。わたしたちの過去をいやし、現在を励まし、わたしたちを将来に向かって導いてくださるのです。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。
カウンセリングを受けるとき、クライエントには H-O-W が必要です。Honesty(正直であること)、Openness(どんなアドバイスをも受け入れる開かれた心)、Willingness(自分から進んで問題の解決に取り組む意欲)のことです。イエス・キリストに対して、また、自分をキリストに導いてくれる人に対して、そのような態度で向かうとき、イエス・キリストはわたしたちの人生に奇蹟を起こしてくださいます。このような「奇蹟のカウンセラー」を持つことは何と心強いことでしょう。そのようなお方によって導かれる人生はなんと幸いなものでしょう。イエス・キリストを、あなたの救い主として、王として、そして、最高の助言者として、今、お迎えしようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、御子をわたしたちの救い主としてお与えくださったあなたの愛を心から感謝します。あなたが遣わしてくださった救い主イエス・キリストをわたしの心にお迎えします。わたしたちの心と思いだけでなく、生活と人生をも導いてください。わたしたちのうちにあなたの知恵と力とを現わしてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
11/30/2014