9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。
9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。
9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
わたしの娘がまだ小さい時、真剣な顔をして、私に、こう言いました。「お父さん、赤ちゃんって、ふつうは赤いよね。でも、イエスさまは、生まれた時、緑色だったんだね。日曜学校で、『きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』ってならったよ!」「みどりご」というのは、昔のことばで「赤ちゃん」という意味なのですが、娘は、それを「緑色の子ども」だと思い込んでいたのです。イザヤ書にも「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」とありますが、イエスは、緑色ではなく、やはり、真っ赤な顔をして、お生まれになりました。見たところ、他の赤ん坊となんの変わりもありませんでした。しかし、クリスマスの日、飼葉桶に寝かされた赤ん坊は、特別な赤ん坊でした。赤ちゃんは九ヶ月母親の胎内にいて、時が満ちて産まれるのですが、キリストは、九ヶ月どころではなく、救い主が約束された最初の時から、長い年月がついに満ちて、イスラエルのベツレヘムの町にお生まれになったのです。今朝のイザヤの預言は、キリスト降誕の七百五十年前になされたものですが、キリストが「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という名で呼ばれる特別なお方であると言っています。この四つの名前はキリストについて何を教えているのでしょうか。
一、キリストの知恵
最初の名前、「不思議な助言者」というのは、口語訳では「霊妙なる議士」と訳されていました。何のことだか分からなかったので、英語の訳を見ましたら、"Wonderful Counselor" となっていました。英語のほうが分かりやすいのですが、誤解されやすいかもしれません。カウンセラーというと、現代では、心理学的な意味で使われるのですが、聖書の時代の「カウンセラー」は、国の政策を立てたり、軍事上の戦略をさずけたりする人のことを意味していました。アメリカで言えば、大統領補佐官のような役割りです。王たちは、政治や外交、軍事において、経験と知恵ある者たちからアドバイスを求めました。箴言には「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。」(箴言15:22)「あなたはすぐれた指揮のもとに戦いを交え、多くの助言者によって勝利を得る。」(箴言24:6)とういう言葉があります。しかし、王であるキリストは、助言者や補佐官を必要としないのです。ご自身が「不思議な助言者」であり、最高の知恵を持っておられるお方だというのです。
今日、科学技術が発達し、人は多くの知識を持つようになりました。しかし、人生の知恵についてはどうでしょうか。日本では、テレビにも出演する有名な大学教授が痴漢まがいのことをして、その地位を棒に振ってしったそうです。しかも、こういうことはめずらしいことではなく、毎日のように起こっていると聞きます。人は何のために生きているのか、どのように生きるべきなのかについて、「知識人」と言われる人も全く分かっていないのです。なるほど、巷には「こうしたら、お金が儲かる」「こうしたら人間関係が良くなる」「こうしたら迷いをなくすことができる」などという生きるための「ハウ・ツー」を教えてくれるものがたくさんあります。しかし、そういったものを学んだところで、私たちの人生の本当の問題は、決して解決できません。神の前で自分を素直に見つめるなら、誰しも、自分が、表面では、何事もないようにふるまっていても、心の中の小さな問題でも、自分ではどうすることもできない無力な者であることが分かることでしょう。ですから、私たちには、「不思議な助言者」であるキリストの知恵が必要なのです。もっと正確に言えば、そのような知恵を持っておられるキリストご自身が必要なのです。キリストの導きをたんなる助言として聞くだけで「従うか従わないかは、私の勝手」というのでなく、キリストを自分の人生に王として、主として迎え入れる時、私たちは、キリストの知恵によって導かれていく間違いのない人生を送ることができるのです。
二、キリストの力
二番目の「力ある神」はキリストの比べるもののない力を表わしています。ある学者は、「力ある神」を "Divine Warrior" と訳していましたが、まさに、キリストは、私たちのために戦ってくださる、神からの戦士です。江戸時代に「男は敷居を跨げば七人の敵が有る」と言われたことがあります。この「七人」とはなんだろうと思って調べてみたのですが、わかりませんでした。たんに敵の数が多いという意味なのかもしれません。「世の中はなまやさしくはない。」という意味なのでしょう。「女にも七人の敵」というテレビドラマもあったそうですが、男性、女性にかかわらず、私たちが立ち向かわなければならない敵は数多くあると思います。ディビッド・ジェレマイヤ先生は、"Facing the Giants in Your Life" というシリーズの説教の中で、クリスチャンに立ち向かってくるものに、「恐れ、失望、孤独」「思い煩い、罪責感、誘惑」「怒り、恨み、疑い」そして「優柔不断、失敗、ねたみ」という十二人の「巨人」たちがいるが、クリスチャンはそれと戦わなくてはならないと教えています。
「巨人」ということで、思い出すのですが、今、日曜日の朝の聖書クラスのひとつでは、民数記を学んでいて、その中に、カナンの土地を探ってきたイスラエルの族長たちが、「私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」(民数記13:32-33)と言ったとあります。族長たちは、カナンの土地には巨人たちが住んでいて、そんな敵とは戦えないと、不信仰な報告をしたのです。この時の族長たちは、主なる神が「力ある神」であり「天の戦士」であることを見失っていました。そんな中で、ヨシュアとカレブのふたりは「その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と、信仰に立ちました。私たちもキリストにあって「主が私たちとともにおられる。」と言うことができます。「力ある神」であるキリストが共にいてくださるなら、たとい七人の敵、十二人の巨人に取り囲まれても、それに打ち勝つことができるのです。
三、キリストの保護
第三の、「永遠の父」というのは、キリストが愛といつしみをもってこの世を支配されることを言い表しています。人々に愛された王や、支配者、政治家たちは、古代ばかりでなく、現代でも「父」と呼ばれ慕われます。権力をふるうことよりも、人々の生活を守ることに心がけたからです。父親が一家をしっかりと支え、保護するように、キリストも、キリストに頼る者に対して父となって、守ってくださるのです。人間の父には、子どもたちを守りたくても守りきれない時があります。また、年をとって父親としての力が衰えてきたりもします。しかし、キリストは、いつも、いつまでも、永遠に父としての力をもって、キリストに頼る者を守り、助けてくださるお方なのです。
アメリカの心理学者マズローは、人間には基本的な五つの欲求があり、一つが満たされると次の欲求が生まれてくると言いました。第一の欲求は「生理的欲求」で、食欲などがこれにあてはまります。その次が「安全欲求」です。誰しも、自分を守りたいという思いがあります。マズローによる人間の欲求の段階はあと第三から第五まであるのですが、そのことは、いつかお話しすることにして、人間には、誰かに守られているという安心感がなくてはならないものなのです。それが失われる時、人は絶えず何かに怯えながら生きていかなくてはなりません。しかし、どんな場合でも私たちを守ってくれるものが、はたして世の中にあるのでしょうか。お金や財産も、地位も名誉もあてにならないものです。私たちを変わることなく守ってくださるお方は、「永遠の父」と呼ばれるキリストの他ありません。キリストなしには、私たちはさまざまな苦痛、重荷、ストレスで押しつぶされてしまうことでしょう。キリストのもとに、たましいの休み場があります。キリストのもとに来て安息を得ようではありませんか。
四、キリストの平和
最後の「平和の君」という名前は、キリストが世に来られた目的を表わしています。キリストが世においでになったのは、争いに満ちた世界に平和をもたらすためでした。その平和とは、まず、神と人との間の平和です。聖書は、私たちは、以前は神の敵であったと言っています。私たちの多くは、「神なんているものか。俺の人生は俺のものだ。」と言って、神に敵対していたのではなかったでしょうか。キリストは、神に敵対し、神の怒りを受けるばかりの私たちを、神と和解させ、神と人との間に平和をつくり出すために十字架で死んでくださったのです。十字架の死は「あがないの死」と呼ばれますが、英語ではあがないは "atonement" と言います。文字どおりには、「ひとつにする」という意味です。キリストによって私たちは、神との和解をいただいて、神とひとつにしていただけるのです。神との平和が与えられるのです。ローマ5:1に「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。クリスマスには "Peace on earth"(地に平和)ということばをよく耳にしますが、この平和は、まず、神との平和です。あなたは、神との平和を持っているでしょうか。神との平和から、お互いの間の平和が生まれます。ヘブル語で「平和」(シャローム)は「平安」とも「繁栄」とも訳すことができますが、あなたにも、イエスのくださる平和、平安が必要ではありませんか。神との平和の中に生きる人生こそが平安な人生であり、神のため、人のために実を結ぶ繁栄の人生となるのです。
イザヤは「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」と預言しました。キリストは、実に「私たちのために」生まれ、まさに「私たちのために」死に、そして「私たちのために」復活してくださったお方です。そのことを信じる者は、人生のすべてにわたって、キリストの知恵と力、保護と平和を受けることができるのです。キリストは「私のために」お生まれくださったと信じて、キリストを人生に迎え入れ、キリストの知恵に導かれ、キリストの力に強められ、キリストの保護のうちに守られ、キリストの平和によって生きるものとなろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたはキリストを、私たちのために、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として遣わしてくださいました。キリストこそ、あなたが私たちに受け取るようにと贈ってくださった最高の贈り物です。このキリストを心に迎え入れ、人生の導きをキリストに求め、人生の戦いにおいてキリストに頼り、キリストに保護を求め、キリストの平和の中に生きる私たちとしてください。私たちのためにお生まれくださった、イエス・キリストのお名前で祈ります。
12/19/2004