恵みの年

イザヤ61:1-2

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61:1 神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
61:2 主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

 神は、世界を創造され、それを治め、また歴史をも導いておられます。かつては、「文明が進み、人類の未来は明るい」と考えられてきましたが、今では、そんな楽観的な考え方をする人は少なくなり、「世の中は悪くなった」と嘆く人のほうが多くなりました。しかし、嘆くだけでは何も変わりません。少しでも社会がよくなるように、世界が平和になるように、祈り、努力することが必要です。多くの心ある人たちがそのために働いています。けれども、世界は人間の努力だけでコントロールできるものではありません。戦争や犯罪、不法や不道徳がはびこる世界に、神の介入がなければ、この世はもっとひどい状態になっていて、とっくに滅びていたかもしれません。神は、人類の歴史を導き、私たちのための救いの計画を推し進められました。救い主が来られ、福音が宣べ伝えられるために、神は歴史に働きかけ、歴史の中に入ってこられ、歴史を動かしてこられました。きょうは、そのことを学びます。

 一、ペルシャ王

 イザヤ書には、とても不思議な預言があります。それは、ペルシャの王キュロスについてです。イザヤ44:28に「キュロスについては『彼はわたしの牧者。わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。エルサレムについては『再建される。神殿はその基が据えられる』と言う」とあり、イザヤ45:1では「主は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。』」とあります。

 イザヤが預言をしたのは、「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」(イザヤ1:1)です。イザヤはヒゼキヤの次の王がマナセで、イザヤはマナセによって殉教しました。イザヤの時代は、アッシリアが衰え、新興国バビロンがそれにとって代わろうとしていた時代でした。ペルシャは、そのバビロンの次に来る国で、キュロス王が登場するのはイザヤから150年も後のことです。ところが、イザヤは、ユダがバビロンに滅ぼされ、エルサレムの神殿が壊される。だが、ペルシャの時代にそれが再建されると預言しました。しかも、神殿再建命令を出す王が「キュロス」という名で呼ばれることまで預言しているのです。聖書の預言は、どれも見事に成就しています。それは聖書が神の言葉であることの証拠の一つです。

 キュロス王による神殿の再建は、たんに記念となる建物が再建されるというにとどまりません。イスラエルは、ペルシャの属州の一つとなり、国家ではなくなっても、民族として、神の民としては存続しました。神殿再建はそれを意味しています。イスラエルはペルシャの後、ギリシャやシリア、そしてローマの支配を受けるのですが、宗教的には独立し、多神教と偶像の満ちた世界の中で、唯一のまことの神への信仰を守り通しました。神は、アブラハムの子孫、ダビデ王の後継者から救い主を起こすと約束されましたが、キュロス王によって、アブラハムの子孫やダビデの家系が絶えることのないようにされ、その預言が成就したのです。

 二、ローマ皇帝

 ユダヤの人々は、ペルシャのあとはギリシャ、ギリシャのあとはシリア、シリアのあとはローマに支配されました。神は、そうした大帝国の専制君主をも用いて、救い主が預言の通りにお生まれになるようにしてくださいました。

 ルカ2:1-2に「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった」とあります。「住民登録」は通常は自分が住んでいるところで行うものですが、ユダヤでは「家系」が重んじられましたので、それぞれは、自分の生まれ故郷に帰って登録をしなければなりませんでした。ユダヤの人々にとって、ローマが行う「住民登録」は、自分たちがローマ市民としての特権を受けるためのものではなく、それとは逆に、ローマの属国の民とされるという屈辱的なものでした。しかし、神は、この「住民登録」を用いて、ガリラヤにいた母マリアをベツレヘムに導き、救い主がダビデの子として、ダビデの町、ベツレヘムで生まれるという預言が成就するために用いられたのです。

 皇帝アウグストゥスは聖書のことなど何も知らず、まことの神を信じてもいませんでした。しかし、神は、不思議なしかたで、ローマ皇帝の心に思い浮かんだ人口調査のアイデアを用いられたのです。総督キリニウスは、規則どおりに自分の職務を果たしただけでしょうが、神は、彼をご自分の目的のためにお使いになったのです。

 アウグストゥスが即位する10年前、エドム人のヘロデは、ローマの元老院に賄賂を送り、ユダヤ人ではないのに「ユダヤの王」の称号を手に入れ人々の上に30年以上も君臨していました。ところが、本物の「ユダヤの王」が生まれたことを知ると、その命を狙ってベツレヘムに軍隊を送りました。そのために、まだ2歳にもなっていなかったイエスはヨセフとマリアに連れられて、エジプトに逃れました。エジプトのアレクサンドリアにはずっと以前からユダヤの人々のコミュニティがあったので、そこに身を寄せたのです。やがてヘロデ大王が死んだと伝え聞いたヨセフは、エジプトを出て、ユダヤの地に戻りました。イエスがエジプトから上られたことについて、マタイは「これは、主が預言者を通して、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と語られたことが成就するためであった」(マタイ2:15)と書いています。イエスは、イスラエルが過去にたどったエジプトからカナンの地への道のりをたどることによって、旧約の「出エジプト」が示していた「罪の奴隷からの解放」を実現するお方であることを示されたのです。

 このように、神は、神を知らない人々、いや、神に敵対する者たちをも用いて、人類の救いの計画を一歩づつ進め、ついに、イエスによってそれを成就されたのです。そして、神は、今も、イエスによる救いが世界で宣べ伝えられるために、国々の指導者を用い、様々な出来事を導いておられます。

 そのような神の導きは、そのときには、それが神の導きだと分からないことが多いものです。今、世界は混乱していて、世界の指導者たちが、それぞれ自分たちの利益になるようにと、富や技術、土地や資源ばかりでなく、宇宙空間までも奪い合っています。社会も混乱し、犯罪を犯しても罰せられないのに、正しい主張をしたら捕まえられる。子どもが性転換手術によって身も心も滅ぼし、若者は麻薬に蝕まれ、学業を投げ出し、働くこともしない。アメリカの歴史で今までなかったような逆さまなことが行われるようになりました。神を信じる者も、預言者ハバククと同じように「あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を吞み込もうとしているときに」(ハバクク1:13)と言いたくなるときがありました。しかし、詩篇11:4に「主はその聖なる宮におられる。主はその王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる」とあるように、神はこの世界の現実をご覧になっておられます。私たちには見えなくても、神は働いておられます。キュロスやアウグストゥスを用いられた神は、今も、この時代を導いておられます。ですから、どんなときも希望を失うことなく、より一層、神に信頼し、みこころが成るようにと祈りたいと思います。

 三、イエス・キリスト

 神は、様々なことを働かせて、私たちに救いを備えてくださいました。イエスがお生まれになったのは、アジア、アフリカ、ヨーロッパの3つの大陸がつながっているユダヤの地でした。また、ローマ帝国がそれらすべてを支配していた時代でした。ローマではギリシャ語が共通語として使われ、道路が整備され、郵便制度もありました。それらのことは、イエス・キリストの救いが、わずが一世代のうちに全世界に届けられるために用いられました。政治や経済、教育や文化などは、救いが伝えられるために助けとなりました。しかし、救いを成就したのは政治でも経済でも、教育や文化でもありませんでした。それをなさったのはイエスです。イエス・キリストだけが、聖書の預言を成就し、救いを実現されたお方なのです。

 きょうの箇所は、ルカの福音書4章に引用されています。ルカ4章には、イエスが育ったナザレでの、安息日の礼拝のことが書かれています。イエスは説教者として招かれていました。安息日の礼拝では、どの日にどの箇所を読むかが決まっていて、その日はイザヤ書でした。巻物を渡されたイエスは、イザヤ61:1-2を開き朗読しました。その部分は、ルカの福音書ではこうあります。「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4:18-19)

 人々の目が朗読を終えたイエスに注がれました。するとイエスは口を開いて言われました。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(ルカ4:21)イエスは、「イザヤが書いた主の霊に満たされた人とはわたしのことである。わたしが罪と死に縛られている人々を解き放ち、真理が見えなくなっている人の目を開き、あらゆる虐げから自由にする。主の恵みが支配する新しい時代が今、始まった」と宣言されたのです。

 それは、当時、「ラビ」と呼ばれた教師たちの言葉とはまったく違っていました。普通、ラビたちは、朗読した箇所について、それがどのような状況で書かれ、何を意味しているのかを語りました。自分の意見よりも、この学者はこう言っている、あの学者はこう教えたなどといって、伝えられてきたことをを繰り返すだけでした。もちろん、聖書の背景を知ることは大切です。一つひとつの言葉が何を意味しているかを考えることも重要です。聖書は、厳密に解釈され、正しく説かれなければならないでしょう。先人たちの意見も貴重なものです。しかし、それだけでは、聞く人に知識を与えても、力や希望、励ましや慰めを与えることはできません。もちろん、「知識」は無意味なものではなく、それ自体が「力」なのですが、生きた知識でなければ、それは私たちの力とはなりません。私たちが聖書を学ぶのは「物知り」になるためではありません。聖書を成就されたイエスが、今も、私たちのために聖書の約束を実現してくださるのを期待し、その実現を受け取るためなのです。

 イエスは、常に権威をもって語られました。それは、イエスが、人々に聖書を与えた神ご自身であり、神の御子として、父なる神のみこころを完全にご存知だったからです。そして、聖書が預言していることは、すべてご自分のことであり、ご自分が成就なさることだからです。聖書が描いているお方が、聖書から抜け出して、聖書を指差し、「これはわたしのことだ」と言われるのですから、イエスの言葉以上に確かなものはありません。

 神は歴史を通して、様々な人物や出来事を用いてこられました。それらすべては、イエス・キリストの救いの成就に仕えるためでした。しかし、救いそのものを実現なさったのはイエスです。今まで誰もしなかったことをした人について、「彼は歴史を作った」と評価されることがあります。しかし、ほんとうの意味で歴史を作ることのできるのは、神だけ、神であるイエスだけです。今年は2025年、“AD 2025” です。AD は Anno Domini、「主の年」という意味です。紀元前は “300 BC” などというように、BC は Before Christ の略です。イエスによって歴史が区切られているのです。イエスが、いままでの人類の歴史に終止符を打ち、新しい歴史を造られたのです。私たちの人生も、イエス・キリストを信じるとき、古いものは過ぎ去って新しくされます。私たちの日々の生活もまた、神への信頼を、イエス・キリストへの信仰を新しくするたびに、新しい始まりを迎えることができます。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(コリント第二6:2)イエスが始められた恵みの年を喜び、感謝し、人々に知らせる私たちでありたいと願います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは歴史を造り、歴史を新しくされ、歴史の中で働かれるお方です。まことにあなたは摂理の主です。イエスが与えてくださった恵みの時代を、摂理の主であるあなたに信頼しながら歩み続ける私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/9/2025