6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
一、神のきよさ
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」ここで「聖なる」ということばが三度繰り返されていますが、なぜでしょう。じつは、ヘブル語には比較級がなく、より「聖なる」(holy)ものは、「聖なる、聖なる」(holy holy)と言葉を重ねて表わしました。神がモーセに幕屋を作るように言われたとき、神はその中に聖所を作り、その奥に、垂れ幕で仕切られた至聖所を作るように命じられました。聖所は英語で "holy"、至聖所は、"holy holy" と呼ばれます。
幕屋は後に恒久的な建物、神殿となりますが、イザヤは、おそらく、この幻を神殿で見たのだと思います。神殿は神の臨在の場所です。神がそこに住まわれるところです。しかし、イザヤの見た幻では、神は神殿の中にはおられないで、神殿のはるか上、天の御座におられます。神殿は、神の御衣のすそさえも入れることができませんでした。ほんとうの神殿は天にあり、地上の神殿はその雛形でしかなかったのです。けれども、それは神殿が聖なるものでないと言っているのではありません。それは聖所(holy)であり、そこにはさらに聖なる至聖所(holy holy)もありました。しかし、神は、聖所(holy)や至聖所(holy holy)を超えて偉大で聖なるお方、最も聖なるお方であるので、「聖なる、聖なる、聖なる」(holy holy holy)と最上級で呼ばれているのです。神殿が聖であるのは、神がそれをきよめられたからです。神は聖なるものの根源です。
イザヤ書では神は「イスラエルの聖者」と呼ばれています。それはイザヤ書全体に繰り返し出てくることばで、イザヤ書のテーマのひとつとなっています。「聖なること」というのは、本来は「分離」を意味します。世の汚れから一線を引いたものという意味です。神が「聖なるお方」と呼ばれ、「聖なる、聖なる、聖なる」と賛美されるのは、神が被造物から一線どころか、それ以上に区別されたお方であることを言い表わしています。この最もきよいお方が、この世に降ってこられ、罪びとのところに来られ、最も汚れた者をきよめてくださるのです。これが「きよめ」であり、これは奥義です。「きよめ」は神が、神のみが最も聖なるお方であるということから出発します。このことが忘れられると、私たちは、「きよさ」の基準を自分で定義してしまい、「自分は、きよめられている」といった自己満足に陥ります。「自分はあの人よりもきよめられている」と高慢になり、「きよめられゴールに到達した」と思い込み、そこに安住し、成長を求めない、怠慢の罪を犯すようになります。
主イエスが「天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」と教えられたように、きよめのゴールは、人間が立てることができるものではなく、聖なる神ご自身です。しかし、人間は、そんなゴールに到達できるのでしょうか。自分の力では決してできません。汚れた罪びとを者を愛して、きよめてくださる、聖なる神にはおできになります。私たちは、聖なる神の「きよめ」(sanctification)の恵みに信頼するのです。
二、人間の汚れ
幻の中で最も聖なる神を見たとき、イザヤは「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」と叫びました。「私は、もうだめだ」というのは、直訳すれば、「私は滅びつつある」となります。イザヤは、自分がちりから造られ、ちりに帰るものであることを示され、神のきよさの前に、自分が崩れ去り、ちりに帰っていくのを感じ取ったのです。聖なる神に出会い、聖なる神の前に立つとき、私たちはそのような体験をします。そして、このように自分の汚れを認めることが「きよめ」の第一歩なのです。
「罪」という言葉がギリシャ語で「的外れ」を意味することは、皆さんがよくご存知のことです。ほんとうは神に向かわなければならない、私たちの思い、心、生活が、神の方に向かわないで、別のところに向いてしまっていること、それが罪です。もし、私たちが「私はこれだけの業績をあげ、教会でもこんなに働いています」と言ったとしても、それが、神のためのものでなく、神のみこころに添っていなければ、的外れなものとなってしまいます。神は私たちの「したこと」(doing)だけでなく、私たちの「あり方」(being)をご覧になります。それがどんなにどんなに大きな努力であったとしても、的はずれなものは神に受け入れられることはありません。罪が的外れであるというのは、列車がレールから外れて走ること、車が一方通行の道路を逆走するようなものです。
罪はまた、神がしてはいけないと禁じられたことをしてしまう「違反」であり、また、神がせよと命じておられることをしない「怠慢」でもあります。しかし、罪は「汚れ」でもあるのです。私たちは悪いことばを口に出してしまった後で、「心にもないことを言ってしまった」と弁解することがありますが、心や思いにないことは口には出ません。球根から芽がでて、やがて花を咲かせるように、心の球根からことばや態度、行動などという芽や葉、花が出てくるのです。心に問題があるとき、そこから問題が生まれるのです。自分がした間違ったことは、自分の目にも、人の目にも見えます。しかし、その背後に、自分自身も気がついていないものがあるかもしれません。しかし、神の前に出るとき、間違ったことをしてしまったとき、自分がしたあのこと、このことだけでなく、それをやってしまう、自分の心の中の醜さ、汚れに気付かされます。だから、その汚れをきよめてれるものが必要となるのです。罪は行為ですが、同時に性質でもあります。私たちは神を信じているとは言っても、真実に神を愛するよりは、神を、自分が高められるためのアシスタント、あるいはサーバントにしてしまうことがあるかもしれません。人に対しては変なことをすると、うまくやっていけなくなるので、良くしたり、お世辞を言ったりするでしょう。でも、心の中で人に対する軽蔑や非難を隠し持っているかもしれません。その部分を聖なる神に扱っていただき、きよめていただく必要があるのです。
イザヤが、この幻を見たのはウジヤ王が死んだ年と1節にあります。ウジヤ王はどのように死にましたか。ウジヤ王は立派な王でした。イスラエルを数々の危機から救った信仰深い王でした。しかし、彼はその生涯の最後に、祭司しかしてはいけない「香を炊く」ということをしてしまったのです。「わたしは王だ」という高慢のために、祭司たちが止めるのも聞かずそうしたのです。ウジヤ王はそうすることによって、神殿の神聖を犯し、祭司職の神聖を犯し、神の神聖を犯しました。そのため、彼は撃たれて、らい病になりました。当時らい病は、宗教的に汚れたものでした。神のきよさに対する罪、それが人間の汚れです。
十戒のうち、第一戒から第五戒までは神にかんするもの、第六戒から第十戒は人にかんするものです。第五戒は「父母を敬え」ですから、それは「人にかんするもの」ではないのかと考えられます。たしかに、第五戒は「人にかんするもの」でもあるのですが、父母は、子どもにとって神の代理者であり、子どもたちは父母から神のみこころを学びましたので、第五戒は「神にかんするもの」の中に入れて良いと思います。アブラハムやヨブたち、族長は家族の祭司であり、家族にかわり、家族のために犠牲を献げていました。「父母を敬う」とは、父母を通して語られる神のことばに聞き従うということだったのです。ですから、第一戒から第五戒までは神を愛すること、第六戒から第十戒までは人を愛することを教えていると言って良いでしょう。私たちは、人に対する罪についてはよく分かります。人に嫌な態度をとってしまった、悪い言葉を口にしてしまったなどということがあると、それに気付いて、自分を反省します。ところが、神に対する罪については案外気付かないでいるのです。
神への罪と人への罪を考えるとき、私はいつもダビデとサウルのことを思います。ダビデはウリヤの妻、バテシバのことで姦淫の罪と殺人の罪を犯しました。十戒の後半を破っているのです。しかし、ダビデはイスラエルの中で最も神と人とに愛された王となりました。一方のサウルはダビデのように姦淫の罪は犯していません。品行方正で良い王様のように見えます。しかし、サウルは神から斥けられています。サウルは祭司であるサムエルが来るのを待たずに犠牲をささげるという罪を犯したからです。その後、ダビデを匿った祭司たちに手を下し、虐殺しています。サウルの犯した罪は十戒の前半を破る罪、聖なるものに手を出す罪でした。それは恐ろしい罪です。ダビデとサウルの違いは、ふたりが聖なる神をどれだけ愛し敬っていたかという違いから出ています。
コリント第一3:17に「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です」とあります。ここで「神殿」とは教会のことです。人に対する罪については目ざとく非難する人が、教会を傷つけても、そこで不敬虔な態度をとっても、礼拝を軽んじても平気でいることがあります。聖なるものに対する罪もちろん、十戒の前半も後半も同じ重みがありますが、聖なるものに対する罪は、それに気付かない、気付いても軽く扱われることが多いので、しっかりと意識している必要があります。聖なる神とのまじわりを深めれば深めるほど、人は十戒の後半の罪だけでなく、十戒の前半の罪を意識するようになります。「私は神を神としているだろうか。神以外のものをあがめていないだろうか」と心探られます。キリスト者でわざわざ仏像を拝む人や神棚を祭っている人はいないでしょう。しかし、偶像は木や石や金属でできた「マテリアルなアイドル」だけを意味しません。目に見えない「メンタルなアイドル」もあるのです。持ち物や財産ばかりでなく、名誉や地位なども偶像になるのです。
きよめの体験は、多くの場合、救われてから後にやってきます。バプテスマを受け、ある程度の信仰生活を経験してからのことです。「自分は罪を赦され、神の子とされたのに、まだ同じ罪を犯している、すこしも神の子らしくない。それはどうしたことなのだろうか。」そういった心の葛藤を通して、より深いレベルで自分の罪に気付き、「汚れた者をきよめてください」という叫びが生まれてくるのです。人に対する罪は、キリスト者でない人でも分かります。しかし、神に対する罪、神のきよさに反する罪は、信仰生活を始め、みことばの光に照らされていく中で見えてくる、分かって来るものです。罪を汚れとして理解できるようになるのです。
三、罪のきよめ
イザヤが「ああ。私は、滅びるばかりだ」と叫んで自分の汚れを知ったとき、セラフィムのひとりが、祭壇の燃える炭を持って来ました。そして、その燃える炭火でイザヤの口に触れて言いました。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(7節)イザヤはこの時までも預言をしていました。「預言」というのは、その文字の通り「神のことばを預かる」ことです。神の前に正しくなければ、また、神と親しくなかったら、神のことばを預かることはできません。イザヤは神のことばを聞くことができた信仰があり、賜物もありました。しかし、それでイザヤは自分は大丈夫とは言いませんでした。きよめは霊的な能力とは別のものです。霊的な賜物を豊かに与えられたから、それで自分はきよめられと勘違いしてはいけません。「聖霊の実」と「聖霊の賜物」とは別物です。聖霊の実を結んでいなくても、賜物だけは与えられているということがあります。イザヤは預言者としての素晴らしい賜物を持っていました。信仰においても確かなものを持っていました。しかし、いや、「しかし」というよりは、「だからこそ」、神に近づけば近づくほど、神のきよさに触れれば触れるほど、罪が分かり、きよめを受けました。具体的なあれこれの罪だけでなく、創造者の前に被造物である、聖なる神の前に罪びとであるというだけで、私たちは罪の赦しときよめを神に願わずにはおれないのです。
炭火は祭壇から取られました。祭壇は主イエスの十字架を意味します。主イエスはあの十字架の上でご自分を犠牲をささげられたのです。祭司しか犠牲をささげることができませんが、主イエスは大祭司となって犠牲をささげられたのです。イサクは、父アブラハムといっしょにモリヤの山に登るとき、「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」と尋ねました。父の手によって犠牲としてささげられようとしたイサクは主イエスのひな形です。神はイサクの代わりに雄羊を用意されましたが、あの十字架では、神はほんとうに御子をささげておしまいになったのです。主イエスは大祭司であると同時に犠牲となって十字架の上で血を流されました。ここにきよめがあります。ヘブル9:11-14にこうありあます。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
「セラフィム」という天使の名前には「燃えるもの」という意味があります。これは聖霊を連想させます。ペンテコステの日、聖霊は炎となって弟子たちの上に下りました。聖霊もまた私たちをきよめてくださるお方、主イエスが十字架の上で成し遂げてくださったきよめを私たちに持ち運んでくださるお方です。コリント第一6:9-11に
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。とあります。救われるとは赦されるだけでなく、きよめられることであること、また、それは主イエスによって、聖霊によってなされるということが教えられています。
日本に宣教したフランシスコ・ザビエルは、こんな祈りを祈ったと言われています。
私が地獄に行くのが恐ろしいからというのでなく、私たちがきよめを求めるということが、「あの人は立派なクリスチャン」だと誉められるためであったなら、それは違っています。神に喜ばれたいという心、神を愛する思いできよめは求められなければなりません。
また、天国に入りたいからというのでもなく、
あなたがあなたであるゆえに、あなたを愛させてください。
罪はたんに法律的なものだけではありません。法律的なものだけであれば、「赦される」だけで十分です。しかし、罪が神の心を痛め、悲しませるものなら、「神さま、あなたのお心を痛め、申し訳けありません。私を、もっとあなたのお心を知り、あなたを喜ばせる者としてください」という祈りが私たちのうちに必要です。タラントの譬えで、1タラントをもらった人はそれを地面に隠して使いませんでした。なぜでしょう。彼は言っています。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。」(マタイ25:24-25)彼は、主人をただ厳しいだけの人としか見ていなかったのです。主人の寛大な心を知らないので、「へまさえしなければ良い」と考えて、タラントを隠したのです。主人の心が分かっていないのです。放蕩息子の兄もそうです。父親は兄に「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(ルカ15:32)と言って、「どうしてお前は、わたしの心がわからないのだ」と語っています。私たちは神の心を知っているでしょうか。神に喜ばれたいという一心できよめを求めているでしょうか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは主イエスによって私たちを救ってくださいました。その救いには、罪が赦されるだけでなく、罪からきよめられていくという、私たちは完全には理解できないあなたのみわざがあります。赦しもきよめもひとつとなって私たちの救いを形づくっています。どのようにきよめを求めれば良いのかということも学びました。聖なるあなたに目を向け、あなたへの愛のゆえにきよめを追い求めるものとしてください。主キリストの御名で祈ります。
7/7/2011