6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
12月、クリスマス・シーズンたけなわですね。どこのショッピング・モールもクリスマスの飾りつけが終わりました。どこかでクリスマス・ツリーを買ってきたのでしょうか、車の屋根にツリーをくくりつけて走っているのを良く見掛けるようになりました。私の近所でも、家や庭木が色とりどりの電球で飾られています。カリフォルニアはあまり季節感のないところですが、こうして町の様子が変わってくると、やはり12月なんだなと、思うようになります。日本でも、クリスマスのライトアップが年々盛んになっており、それがニュースにもなっています。そのニュースの中で、アナウンサーが「商店街はクリスマスの飾りつけが完了し、町はクリスマスの精神にあふれています。」と言っていました。このアナウンサーは、ライトアップを楽しみ、ショッピングに出かけることを「クリスマスの精神」と言ったのですが、もちろん、それが、ほんとうの「クリスマスの精神」でないことは、皆さんもよくおわかりですね。では、いったい、何が本当のクリスマスの精神なのでしょうか。クリスマスの精神はどこにあるのでしょうか。
一、聖なるお方を礼拝する
聖書から、最初のクリスマスのことを振り返って気づくことは、「礼拝」ということばです。
ルカは、イエスがお生まれになった夜、羊飼いたちが飼い葉桶に寝かせられた幼子イエスを礼拝したことを、「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(ルカ2:20)という言葉で書いています。
マタイは、東方の博士たちが、「イスラエルの王」として生まれたイエスを礼拝するためにやってきたことを書いています。マタイ2:2で博士たちは、「私たちは…(その方を)拝みにきました。」と言っています。博士たちは最初、エルサレムのヘロデ王の宮殿にやってきました。王は王宮にいるのがあたりまえだからです。しかし、当時エルサレムにいたヘロデ王は、神に立てられた「イスラエルの王」ではありませんでした。ヘロデは、その王位をローマ帝国に金を贈って買い取った人物でした。ほんとうの「イスラエルの王」は、エルサレムではなくベツレヘムで、しかも、宮殿ではなく馬小屋で、お生まれになりました。それは、聖書の預言が成就するためでした。
ヘロデ王は、実に疑い深い人で、いつも、自分の王位が誰かに狙われていると考え、自分の子どもまでも殺しました。それで、時のローマ皇帝は、「ヘロデの息子になるくらいなら、ブタになったほうがましだ。」と言ったと伝えられています。このヘロデが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおいでになりますか。」という言葉を聞いて不安にならないわけがありません。彼は、すぐさま陰謀をめぐらして、博士たちから、イエスのことを聞き出し、イエスを亡きものにしてしまおうしました。しかし、表面はまことに友好的な態度で博士たちに言いました。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」(マタイ2:8)ヘロデには、イエスを礼拝する気持ちなどまったくありませんでした。しかし、私たちの王としてお生まれになったお方に対して私たちがしなければならないことが、そのお方の前にひざまづき、ひれ伏して礼拝することであるということを、ヘロデでさえ、頭では分かっていたのです。私たち、イエスを主と告白し、王として従う者たちが、他の人たちと同じように、クリスマスをただ自分たちの楽しみだけに使ったり、忙しい、忙しいと言って過ごすだけで、このお方を礼拝することを忘れていたら、本当に申し訳のないことです。博士たちは、星に導かれてベツレヘムまで行き、幼子イエスを見てひれ伏し拝んでいます(マタイ2:11)。クリスマスの精神は、礼拝にあるのです。私たちも、クリスマスに主を礼拝する心を取り戻したいと思います。
二、聖なるお方を仰ぎ見る
クリスマスの精神が礼拝にあるなら、礼拝の精神はどこにあるのでしょうか。それは、「神を見ること」にあります。では、「神を見る」とはどういうことでしょうか。いったい人間は神を見ることができるのでしょうか。
聖書は、人間は神を見ることができないと教えています。神は霊であって、私たちの肉眼でとらえられるお方ではないからです。「神を見ることができない。」ということには、神を肉眼で見ることができないということばかりでなく、私たちが、どんなに神について思いめぐらしても、またどんなに修業をしたとしても、人間の努力で神を理解することはできないということをも意味しえています。私たちが神を知ることができるのは、神の側から、「私はこんな者だよ、私はこう考えているのだよ。」とご自分を示してくださった時だけです。有限の私たちは、無限の神を自分の感覚や頭脳によって捕らえることができないのです。それが出来るという主張は、いつしか、勝手に神々を作りだす偶像礼拝に陥ってしまうのです。また、神が幻の中でご自分を現されることがあっても、私たちは自分の罪深さのゆえに、きよい神の栄光を目の当たりに見ることができないのです。神はモーセに「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである。」(出エジプト33:20)と言っておられます。神に近く生きたモーセでさえそうなら、私たちは、なおのこと神を見ることはできません。
人間は神を見ることができません。しかし、礼拝は、本来、私たちが見ることのできない神を、特別に見ることを許される機会なのです。イザヤが、神殿で神を見た時のことを振り返ってみましょう。注意深くお読みください。「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、…」(1節)とあります。イザヤは、神殿での礼拝で主を見ました。神殿は、神のお住まいとして建てられたものです。しかし、神殿は、神の衣のすそだけしか入れることができませんでした。人間の作ったものは、たとえ、神殿であっても、神をお入れするすことができないことを意味しています。セラフィムと呼ばれる天使は「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」と叫んでいましたが、「聖なる主」というのは、神が、このように、高く、大きく、あらゆるものを超えて存在しておられるということを指し示すことばです。
イザヤは、天使たちの叫びに神殿の基が震えるのを感じましたが、イザヤ自身もまた、震えおののいていました。そしてイザヤはその時、とっさに叫びました。「ああ。私は、もうだめだ。」ここは、新改訳よりも、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。」という口語訳のほうが良く意味を表わしていると思います。「滅びるばかりだ。」というのは、「ああ、私は滅びている!」という意味です。イザヤの生きた時代は、イスラエルの暗黒の時代でした。人々は神から離れ、好き勝手なことをするようになりました。アッシリヤ帝国がすぐそこまで来ていて、イスラエルを呑み込もうと手を伸ばしていました。ところが、イスラエルの人々は、自分たちは神の民だ、自分たちは大丈夫だと、この世の繁栄を謳歌していたのです。イザヤは、預言者として、「このままだと、国は滅びるぞ。」と叫び続けてきました。しかし、今、聖なる主を見た時、彼は、「国が滅びるだけではない、私も滅びてしまう。」と、叫びました。イザヤは、徹底して神のきよさと、人間の罪深さとを体験したのです。これが、神を見るということです。
あなたには、このような体験があるでしょうか。神の前にうちのめされて、そこから神を仰ぎ見るという体験です。礼拝は、自分が舞台に立って、演技をし、人々の注目と賞賛を受けるところではありませんし、ましてや、礼拝は、そこで、自分が観客のひとりになり、高い座席から神を見下ろすようなものでもありません。礼拝の場は、スポーツスタジアムでも、劇場でもありません。そこは神殿です。イザヤのように、自分の罪を悔い改めて、神の前にひれ伏し、神を仰ぎみるところです。神を見る、聖なる神を仰ぎ見て、自分が滅びゆくものであることを知って震えおののく、ここから礼拝が始まるのです。
三、聖なる方を恵みのうちに見る
礼拝は、へりくだって神を「仰ぎ見ること」です。へりくだる時に初めて、神を見ることができます。そして神はへりくだるものを、そのままにはしておかれません。イザヤは「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(5節)と言いました。すると、天使のひとりが、祭壇から燃えさかる炭火を持ってきて、イザヤの口に触れて言いました。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(7節)「きよい神」は、同時に、「きよめてくださる神」です。私たちも、イザヤのように、自分の汚れを心から認め、神の前にへりくだるなら、神はその罪を赦し、きよめてくださいます。聖書は、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)と約束していますが、はじめから「心のきよい者」は誰もいません。「心のきよい者」とは、もとは汚れていたとしても、神によって心をきよめられた者という意味です。聖書は、あるところでは人は神を見ることができないと言い、別のところでは神を見ることができると言っています。このふたつの相反する表現は、神は本来見ることができないお方なのに、私たちがその神を見ることを許されているのは、ただ神の特別な恵みによるのだということを言おうとしているのです。モーセは岩の裂け目に隠され、神の栄光をかいま見ることをゆるされました。イザヤは天使が持ってきた祭壇の炭火によって、罪をきよめられました。今、私たちは、イエス・キリストの十字架にかくまわれ、イエス・キリストの血潮にきよめられて、神を仰ぎ見ることができます。罪人として震えおののいて神を仰ぎ見る、そこから、出発して神の恵みを通して、神の愛のまなざしに出会う、それが礼拝です。
神は、旧約時代には、夢や幻によってご自分を表わしてこられましたが、クリスマスには、ご自分が人となって、ご自分を人々に表されたのです。羊飼いは飼い葉桶の中に、生まれたばかりの赤ん坊を見ましたが、この赤ちゃんこそ、人となってこられた神だったのです。イザヤが神殿で見た栄光の神を、羊飼いは飼葉桶の中に見たのです。栄光の神がそこにおらるのに、飼い葉桶には、イザヤが聞いた天使の叫び声も、地を揺るがすような振動もなく、すやすやと眠っている赤ん坊の、安らかな姿だけしかありませんでした。このように、私たちは、恵みによって、平安の中に神にお会いすることができるのです。ヨハネは「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。…いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(1:14-18)と言っています。羊飼いや東の博士たちが見たのは、イエス・キリストに満ちていた神の「恵みとまこと」だったのです。あなたも、このクリスマス、イエスのうちに、神を見る体験、神のきよさを見る体験、神の恵みに出会う体験を求めてみませんか。それこそが、私たちの礼拝なのです。
(祈り)
聖なる神さま。私たちは、どんなにか、あなたのきよさを忘れ、あなどってきたことでしょうか。そのために、本当は自分たちが滅びているのに、そのことが分からないで過ごしてきました。本当の平安でなく気休めの中に、本当のよろこびでなく楽しみの中に、本当の目当てでなく身の回りのことだけに忙しく過ごしてきました。クリスマスは、あなたの御顔を尋ね求め、仰ぎ見る時です。私たちを、イザヤのように、聖なるあなたの前にひれ伏す者としてください。御子イエスを礼拝した羊飼いや博士たちと共に、平安と喜びをもって礼拝をささげる者としてください。キリストのお名前で祈ります。
12/12/2004