神の住まうところ

イザヤ57:15

オーディオファイルを再生できません
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
その名を聖ととなえられる方が、
こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の心を生かすためである。」

 一、天におられる神

 子どもを持っている人、あるいは子どもを教えている人はどもから「神さまってどこにおられるの?」と質問されると思いますが、そんな時、どう答えますか。今年の7月のことですが、私は著名な天文学者ヒュー・ロス博士の講演を聴きに行きました。講演の後で、質疑応答の時間があり、「子どもが神と宇宙の関係について難しい質問をしてきた時、どう答えたらいいのでしょうか。」という質問が出ました。ロス博士は、この質問に「子どもが質問してきた時が、答えをあげるのに一番良い時です。『大人になったら分かるから、待ちなさい。』などと言ってはいけません。親は、子どもにきちんと答えられるように、いつも聖書を勉強していなければなりません。」と答えていました。皆さんは、子どもの「神さまはどこにおられるの?」という質問に答えることができるでしょうか。大人は、子どものように「分からない!」「教えて!」と正直には言いませんが、やはり、神について多くの質問や疑問を持っています。あなたは、あなたの家族や友人が持っている質問や疑問に答えることができるでしょうか。

 「神はどこにおられるのか。」という質問の答えとして真っ先に思い浮かぶのは、「神は天におられる」ということではないかと思います。イエスは「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)と言っておられます。イエスご自身が「神は天におられる」と言われたのですから、「神は天におられる」という答は正しいのです。しかし、「神が天におられる」という場合の「天」とはいったいどこなのでしょうか。神は大空の雲の上に住んでおられるということでしょうか。あるいは、この大空のかなた、宇宙のどこかにおられるというのでしょうか。ロシアが「ソビエト」と呼ばれていた頃、宇宙開発ではソビエトがアメリカに先んじていていました。1961年4月12日、ソビエトは有人の人工衛星ボストーク1号を飛ばしました。わずか1時間48分の宇宙飛行でしたが、人類最初の宇宙飛行士となったユーリ・ガガーリンは「地球は青かった。」という有名な言葉を残しました。彼は、このことばと共に「私は天に行ったが神を見なかった」と言ったとも伝えられています。ソビエトは無神論の国でしたので、クリスチャンが「神は天におられる」と言っているのをからかってそう言ったのかもしれません。その時、ソビエトの宇宙飛行士ばかりでなく、多くの人々は、人間が飛行機で雲の上を飛ぶようになったばかりでなく、大気圏を越えて宇宙にまで行くことができるようになったことによって、無神論が証明されたかのように考えていました。「天におられる神」を信じる信仰は時代遅れだと考えたのです。

 では、本当に神は天におられないのでしょうか。「神は天におられる」と言うのは、神が大空やそのかなたの宇宙のどこかにおられるという意味ではありません。この大空も、そのかなたに広がる大宇宙も皆、神が造られたものであって、神は、ある空間に限定されて存在しておられるとか、この宇宙のどこかにいなければならないというお方ではありません。神は宇宙を超えて偉大なお方であり、この宇宙のどこにでもいることが出来、この宇宙を超えて存在しておられるお方なのです。ですから、聖書が「神が天におられる」という場合の「天」という言葉には、大空や宇宙というだけでなく、それを越えたところという意味があるのです。コリント第二12:2に「第三の天」という表現があります。第一の天は大空のこと、第二の天は宇宙、そして、第三の天とはそれを超えたところを指しています。「神が天におられる」というのは、神が地球上のどこかの場所はもとより、宇宙のどの場所に制約されることのない無限のお方であり、神はあらゆるものを超えて、どこにでも存在されるということを意味しています。このことは、詩篇139:7-12に次のように歌われています。

私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕えます。
たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ。」と言っても、
あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

 神は「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」(イザヤ66:1)と言われます。この大宇宙も神の目から見れば、神の栄光の飾りの一つにすぎないのです。私たちは宇宙について知れば知るほど、その広さ、大きさに驚くのですが、この宇宙が神によって造られたものであって、神がこの宇宙よりもはるかに大きなお方であるということを知る時に、神の偉大さをあがめずにはおれなくなります。アメリカの宇宙飛行士は、神の作品である宇宙の中に、神の偉大さを感じ取りました。そして、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)という聖書のことばを、宇宙船から地上に送りました。人間が宇宙に飛び立つ前も、その後も、「天におられる神」、つまり、天と地を越えて存在しておられる神の栄光は、決して変わらないのです。私たちは、祈る時、「天におられる神よ。」と呼びかけますが、そう呼びかけることによって、あらゆるものを越えて存在される偉大な神が、私の必要のすべてを満たしてくださるのだという確信を持つことができるのです。

 二、聖なる神

 神が大宇宙を越えた大きなお方であるということを聞きますと、神が人格のない、冷たい原理、原則のような存在であるかのように考えてしまいがちですが、神は決してそのようなお方ではなく、私たち人間と同じように、知性も、意志も、感情も持ったお方、人格を持ったお方です。今、「神が人間と同じようだ。」と言いましたが、これは正確な表現ではありません。神が人間を神のかたちに造られましたから、「人間が神に似た者である。」というほうが良いでしょう。神は、私たちに知性を与え、意志をあたえ、そして感情を与えてくださいました。神は、私たちの喜びの源であり、また、私たちの涙の意味を知っておられるお方です。神が人間を人格を持つものとして造ってくださったのは、人間が人格を持っておられる神を知り、神とまじわることができるためです。その意味では、人間は、神が造られた者の中で最も神に近い存在です。

 しかし、別の面から言えば、人間は神から最も遠い存在です。それは、人間の罪のゆえです。神が造られたあらゆる物は、神が与えた定めに忠実に従っています。天体はその定められた軌道を回っていますし、自然界のあらゆるものは、今も、神の与えた法則に忠実に従っています。それらは神の目的に従って生きています。しかし、人間だけが、神の目的に背を向け、神が与えてくださった道徳の法則に逆らい、神のお心とは遠く離れた生活をしてます。動物の世界には確かに「弱肉強食」ということがあって、残酷なように見えますが、ライオンなどの猛獣でも、満腹している時には決して他の動物に手を出しません。ところが人間は、自分を養うのに十分なものを持っているのに、他の人を殺してまで、人のものを奪おうとします。満足することを知らないのです。しかも、ひとりやふたりではなく、戦争によって何万人、何百万という人の命を奪うのですから、人間は、猛獣にくらべものにならないほど残酷です。

 とは言っても、私たちの知る世界では、どこから見ても残酷で全くの悪人という人はあまりおらず、悪人にも少しばかりは善良なところがあります。同じように、完全に正しい人は地上にはおらず、正しい人といわれる人でも、どこかに邪悪な部分があります。人間の社会は、善と悪、正義と不正とが妥協し、うまく折り合いをつけて成り立っています。それで、人間は、神をも同じように、悪や罪と妥協されるお方と考え、宗教の儀式を守っていさえすれば神は自分の悪に目をつむっていてくれる、何がしかの捧げものをしていれば、神と取引をして、願い事をかなえてもらえると考えるようになってしまいました。しかし、神は、完全に正しく、きよいお方であり、罪や悪とは決して妥協することのないお方です。神が「天におられる」と言われているのは、神の無限の存在を表すとともに、神が、このような人間の罪を憎み、退け、人間の罪からはるか離れて、まったくきよいおかたであるということを言おうとしているものです。聖書は、神が、人間の罪や汚れからまったくかけ離れた完全で聖なるお方であることを、くりかえし教えています。とくにイザヤ書では、天使たちが絶え間なく「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫んで神を礼拝している様子が描かれており、預言者イザヤでさえ「私は滅びる。私は汚れた者だ。」と叫んだほどでした(イザヤ6:1-5)。イザヤ書は、この聖なるお方をないがしろにした人々への警告の書物で、いたるところで、神を「聖なる方」と呼んでいます。イザヤ57:15でも神は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方」と呼ばれています。

 三、地に住む神

 しかし、神が天におられる聖なるお方であり、私たちが地に住む汚れた存在であるというだけで終わるなら、私たちは、ただ天からの怒りにふるえ、聖なる神の前におののくだけということになってしまいます。神と人間の間に何の希望ある接点も生まれてきません。けれども、神は、「わたしは、いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる。わたしは、高く聖なる所に住む。」と言われるだけでなく、「わたしは、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」と言っておられます。「心砕かれて、へりくだった人」とは、天地を創造された神の前に自分の小ささを認める人、聖なるお方の前に自分の罪と汚れを知って悔い改める人のことです。神は、そういう人と「共に住む」と約束してくださっています。「住む」というのは、しばらくの間訪れるというのとは違います。その人と共に永遠にいてくださるという意味です。神が天の永遠の住まいとともに、「へりくだった人の霊」「砕かれた人の心」を第二の住まいとして、そこにとどまってくださるというのです。

 日本には「正直者の頭に神宿る。」などということばがあって、立派な人間に神が宿ると思われてきました。日本経済新聞の竹田博志という人は、粘土から見事な陶器をつくりあげていく陶芸家を紹介して「神の宿る手」という記事を書いていますが、そのように、人々は人並みはずれた優れた人と神は共におられると考えてきました。ところが聖書は「わたしは、…心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」と言って、それとは全く逆のことを言っています。神が心にかけ、目を留めてくださるのは、神の前に自分を小さくする人々です。イザヤ66:2にも「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」とあります。天におられる神、聖なる住まいにおられる方は、へりくだり、心砕かれて、神のことばに聞き従う者と共にいてくださるのです。

 しかし、天の神が地に住む、聖なる神が汚れた者のところに来られるということが、どのようにして可能となるのでしょうか。神もまた人間と同じように、悪に対して、罪に対して妥協されるのでしょうか。いいえ、神は、妥協されるお方ではありません。神は、ご自分が犠牲となることによって、このことを可能にしてくださいました。無限の神がご自分を制限され、聖なるお方が人間の罪の処理を引き受けてくださったのです。このことはイエス・キリストによって成就しました。キリストは神でしたが、神として持っておられたものを捨て、人間となってこの地上に生まれてくださいました。イエスは、家畜をつなぎとめておく洞穴の中でお生まれになりました。全く人目に触れないところから、イエスのご生涯がはじまったのですが、それはイエスの全生涯がどんなものであるかを示しています。イエスは神の子だからといって特別な生活をなさいませんでした。むしろ、他の人よりも貧しい生活をなさいました。イエスは人々に救いのメッセージを伝えましたが、それは決して華々しいものではなく、人目に隠れたものでした。現代では、ムービ・スターは豪邸に住み、立派な車に乗り、おつきの人たちを大勢従え、スポットライトをあびて登場するのですが、イエスはそのようなお方ではありませんでした。しかし、イエスのご人格の中に神のご性質は輝いていました。イエスの教えとイエスがなさった数々の奇蹟は、イエスが神であることを証明しています。イエスの示した真理は、心高ぶる人々には理解できないものだったかもしれませんが、へりくだって救いを求める人々には誰にも分かるものでした。

 イエスは、およそ三年の伝道の時を終え、十字架に向かわれるのですが、あの十字架は、罪のないお方が私たちの罪を背負い、私たちの代わりに罪のさばきを受けてくださったものでした。イエスの死は身代わりの死でした。人間だけが人間の身代わりになれます。それでイエスは人となられました。また、罪ある人間は自分の罪のために死んでいくだけで、他の人の罪を代わりに背負うことはできません。それで、ただひとり罪のないお方であるイエス・キリストが私たちの罪を背負い、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったのです。神は、イエス・キリストによって私たちに罪の赦しを与え、神と人間とのまじわりを回復してくださいました。キリストは、十字架が罪と死に対する勝利であることを証明するために、日曜日の朝、死に打ち勝って復活されました。キリストを信じる者は、十字架で罪を赦されるばかりか、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされるのです。私たちがこうして日曜日に教会に集まっているのは、復活されたキリストを礼拝するため、そのいのちによって生かされるためなのです。イエス・キリストは、天に帰られる時、弟子たちに「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束されました。イザヤ57:15「わたしは、…心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」ということばは、このようにして、イエス・キリストによって成就したのです。イエス・キリストを救い主として心に迎え入れるなら、イエス・キリストの救いはあなたのものとなるのです。

 私はイエス・キリストを信じたばかりの人に、かならず「イエス・キリストは今、どこにおられますか。」と聞くことにしています。すると、多くの人は「イエス・キリストは天におられます。」と答え、聖書を良く読んでいる人なら「父なる神の右におられます。」と答えてくれます。それは正しい答えなのですが、私はさらに「それだけですか。今、あなたはイエス・キリストを心に迎え入れたのではありませんか。」と尋ねますと、ほとんどの人が顔を輝かせて「そうでした。イエス・キリストは私のうちにおられるんですね。」と答えてくれます。キリストは天におられると同時に、キリストを信じる者の心にもいてくださいます。イエス・キリストは「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」のです。キリストが私たちのうちにおられるからこそ、私たちは、天におられる神を、恐れなく仰ぎ見ることができるのです。あなたは、すでにイエス・キリストをあなたの心に迎え入れているでしょうか。もし、まだでしたら、今、イエス・キリストをあなたの心に迎えいれませんか。神は「わたしは、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」と約束してくださっています。すでにイエス・キリストを信じている者たちは、イエス・キリストを心に迎え入れただけでなく、イエス・キリストを自分の生活と人生の主として、その中に迎え入れているかどうか、自分に問い直してください。神は「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす」お方です。偉大な神の前にへりくだり、聖なる神の前に心砕かれるという、信仰の体験によって、自分の努力で生きる生活から、キリストのいのちによって生かされる生活へと進むことができます。その時、私たちは「主について」何かを知るというのではなく、「主ご自身を」さらに深く知る者となることができるのです。

 (祈り)

 天におられる父なる神さま、「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる」あなたは「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」と約束してくださいました。そして、この約束はイエス・キリストによって成就しています。イエス・キリストは、「へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすため」、十字架に死に、死に勝利して復活し、すべてのことを成し遂げてくださいました。今度はわたしたちが、へりくだって、あなたを、自分の心に、生活に、そして人生に迎え入れる番です。私たちのうちに住み、失望した心に希望を与え、疲れた心を新しくし、キリストの復活のいのちを体験させてください。そして、そのことによってさらにあなたを知る私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/18/2005