目的を成し遂げるお方

イザヤ55:6-13

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55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
55:12 まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
55:13 いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

 今年は「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)という年度標語に基づいて、神がどんなお方かを学んできましたが、今朝は神がご自分の目的を成し遂げるお方であることを、学びたいと思います。

 一、神の主権

 神がご自分の計画を成し遂げられることを、神の「主権」と言います。「主権国家」とか「主権在民」という言葉がありますが、その「主権」です。「主権国家」とは、外国の命令で物事を決めるのでなく、その国が自分たちにとって良いと思えることを自ら決めることのできる国家を指します。また、「主権在民」とは、その国家の決定が、王様や貴族など、一部の人々によってでなく、国民によってなされることを意味しています。独立国には「主権」があり、民主国家では国民に「主権」があるのなら、神がご自分のお造りになった世界に「主権」をお持ちにならないわけはありません。アメリカの国の主権は、アメリカ国民にしか通用しませんし、アメリカ市民は自分の国の大統領を選ぶことはできますが、他の国の大統領、たとえばベネズエラの大統領について云々することはできません。しかし、神はこの世界をお造りになり、すべての人をお造りになったお方であって、神は、世界のすべてに主権を持っておられます。ヨブ記25:2に「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」とあり、詩篇145:5では「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。」と歌われています。神を信じる者たちはみな、神の主権を信じ、神の主権を賛美し、神の主権に従ってきました。

 ダニエル6:26で、ダリヨス王は、「私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。」と言っています。どんなに栄えた国もやがては滅び、力を失っていきます。ネブカドネザルの時、繁栄の頂点にあったあのバビロン帝国は、ネブカドネザルの子、ベルシャツァルの時代に一夜にして滅んでいます。バビロンを滅ぼしたペルシャはアレクサンダー大王によって滅び、アレクサンダーの作った帝国はローマによって滅ぼされ、ローマ帝国もまた滅びていきました。無敵艦隊といわれたスペインの海軍はイギリスの海軍によって打撃を受け、イギリスは、日の沈むところのない国と言われるほど、世界中に植民地を持つ大英帝国となりましたが、今は、そのような勢力を持っていません。ソビエト連邦もまた、突然のようにしてなくなり、もとのロシアに戻りました。

 しかし、神の主権は、世界のすべて、いいえ、宇宙のすべてに及ぶだけでなく、また、それは一時的なものではなく、永遠のものであるというです。もし、神の主権が一時的なものであるなら、私たちが神の主権に信頼したとしても、そこには何の保証もないのです。トム・ハンクス主演の「エアーポート」という映画は、革命が起こって自分の帰るべき国を失ってしまった人がどこへもいけなくてエアポートで生活を始めるという物語ですが、もし、神の主権に限りがあるとしたら、この映画のように天国がなくなってしまうかもしれないのです。天国を失ったなら、私たちの魂は永遠にさまよい続けることになってしまいます。神の主権が永遠でなければ、神の主権に頼り、永遠を神の手にまかせても無駄だということになってしまいます。しかし、実際は、神の主権は永遠の主権であり、私たちは安心して自分の魂を神の手に任せることができるのです。テモテ第一6:15-16に「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。」とあります。これを書いた使徒パウロは、この言葉のあとに「アーメン」(ほんとうにそのとおりです)という言葉を付け加えていますが、神の主権を信じる私たちも「ほんとうにそのとおりです。アーメン。」と唱えずにはおれなくなります。

 二、神の主権と世の悪

 神の主権がすべてのものに及び、それは永遠にまで至ることを、私たちは信じていますが、同時に多くの人は「神がこの世界に主権を持っておられるなら、なぜ悪を許しておられるのか。」という疑問を持っています。神がおられるなら、なぜこの世に悪があるのかという疑問は、いろんな場面で出てくるもので、聖書も多くの箇所でこの疑問に触れています。世の中に悪があるのは、神が正しいお方でないからでしょうか。いいえ、神は聖く正しいお方です。正義がなければ不義はなく、善がなければ悪は存在しません。不正や偽りは、正しいものに反対し、真理にさからうことから生まれてくるからです。神は不義を憎み、不正を退けるお方であって、決して悪と妥協されるお方ではありません。

 では、神はほんとうは悪を斥けたいのだけれども、神には悪を防ぐ力がないのでしょうか。善の神と、悪の神とが戦っていて、悪の神のほうが強いので、善の神を信じる者は、善の神を応援して、助けてあげなければならないと、ある宗教では教えていますが、私たちの信じる神は、悪に対して力の足らないお方なのでしょうか。決してそうではありません。神は、たちどころにして悪を処罰することがおできになるのです。神がそうなさらないのは、実は、神の私たちに対するあわれみなのです。神は罪びとがひとりも滅びることを望ます、罪と悪に対するさばきを世の終わりまで引きのばしておられるのです。ペテロ第二3:9に「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」とある通りです。

 罪や悪は、人間の自由意志から生まれます。神は、人間に自由を与えました。人間はその自由を用いて、神に従うこともできれば、神に逆らうこともできます。人間に神に逆らうかもしれない自由を与えるのは、神にとって危険なことでした。もし、人間がロボットのように造られていたなら、神のおこころに決してさからうことなく、どんな場合にも神の主権に服従したでしょう。そこには罪はなく、悪も存在しません。しかし、そこには愛は存在することはないのです。愛は自由から生まれてくるもので、強制されたり、コントロールされたりするところに愛は成立しないのです。さまざまな選択の余地のある中で神に従うことを選ぶことによって、神への愛が生まれてくるのです。神は、人間が誤った選択をして、神に逆らった後も、人間から自由を、選択する能力を奪い去りませんでした。人間から自由を奪うことは、人間がその価値を失い、人間が人間でなくなることを意味するからです。この世に罪があり、悪があるのは、決して神のせいではありません。それは人間の問題なのです。私たちは、悪の存在のゆえに神を非難することはできませし、神の主権を否定することはできないのです。

 最近、こんな話を聞きました。ひとりのクリスチャンが、長い髪をさっぱりしたスポーツ刈にしてもらいたいと思い床屋さんに行きました。床屋さんには話好きの人が多く、しかも、たいていはお客さんに話を合わせるものなのですが、この床屋は無神論者でクリスチャンのお客さんと口論のようになってしまいました。床屋は「お客さんは、神はいると言うが、私は信じませんね。お客さんが一歩私の店から出たとたん、お客さんは、お金のない人、病気の人、悩んでいる人、またとんでもない悪人に出会うに決まっていますよ。神がいるんなら、どうして、世の中こうも不公平なんでしょうかね。この世に神なんているわけがありませんよ。」と言いました。クリスチャンのお客さんは、そのことにすぐには答えられず、床屋の質問にどう答えたらようかわからないまま、お金を払って店を出ました。ところが、道を歩いている人々を見て、すぐにどう答えたら良いかが分かったのです。彼は床屋にとって返し、こう言いました。「この世に床屋なんかいなさ!」床屋は目を丸くして言いました。「私は床屋ですよ!いましがた、あなたの髪の毛を刈ってあげたじゃないですか。ここに床屋がいるじゃないですか。」クリスチャンは言いました。「いや、私は、床屋がこの世にいるなんで信じないね。ほら、外を見てごらん。あんなに長く髪の毛を伸ばした人がいっぱいいるじゃないか。」床屋は言いました。「冗談じゃないですよ。あの人たちは床屋に行かないだけで、だからと言って床屋がいないわけじゃありませんよ。私のところに来たら、その人たちの髪の毛もきれいになりますよ。」それに答えてクリスチャンが言いました。「私たちは、神のもとに行かないから神の存在がわからないのだじゃないでしょうか。世の中に悪があるからと行って、それで神がおられないと結論づけることはできないと思いますよ。」この話の言おうとしていることがお分かりですね。この話のとおり、世の中に悪があるからといって、それが神の主権を否定するものではないのです。

 三、神の主権と神の愛

 神の主権について、また、神の主権とこの世の悪について考えましたが、最後に神の主権と神の愛についてふれておきましょう。最初に学んだように、神の主権は、絶対的なものです。神は、ご自分の願うことを何でも出来る方です。もし、この神が愛のひとかけらもない神であったとしたら、神の主権という概念ほど恐ろしいものはありません。神はバビロンのネブカドネザルのような専制君主、ローマのネロ皇帝のような暴君、ナチス・ドイツのヒットラーのような独裁者ということになってしまいます。しかし、聖書が最も大切なこととして教え、私たちが信じていることは、「神は愛である」(ヨハネ第一4:16)ということです。神は、どんな場合でも、その主権を、私たちへの愛のゆえに用いてくださるのです。

 紀元前722年イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、ユダは紀元前586年にバビロンに滅ぼされました。イスラエルの人々、ユダの人々は、それらの国に連れて行かれ、国土は荒れ果ててしまいました。イザヤ55章は、外国に連れて行かれた人々がもう一度戻ってきて、荒れ果てた国土が緑豊かな土地に変わり、人々が平和のうち住み、繁栄を楽しむということを、あらかじめ預言し、約束したものです。しかし、人々は、あまりにも落胆していて、そんなことがどうして起こるのかと、不信仰になっていました。それで、神は、自然界を例にとって、こう言われました。「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。」(イザヤ55:10)確かに、天からの雨は、無駄には降りません。土地を潤し、植物を成長させ、生き物を養います。冬に降る雪は、どんなダムも貯水池も貯めておくことのできない大量の水を蓄えてくれ、春と共に雪解けの水が谷を流れ、土地を潤します。聖書では、しばしば、神のことばは、「水」にたとえられますが、そのように神の口から出ることばは、必ず結果をもたらすのです。イザヤ55:11に「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあります。イスラエルもユダも、国家の崩壊によって主権を失ってしまい、大帝国の属国となってしまいました。しかし、神の主権は失われてはいません。神はその主権によって、ご自分の民の主権を回復してくださるのです。

 神がイザヤ55:11で、「わたしの望む事」と言っておられること、ここで神が望んでおらることとは何でしょうか。それは、神の民の回復です。神が、ご自分のこと、ご自分の栄光のことだけを願い、望まれたとしても、神は主権者なのですから、誰も神に対して不平を述べることはできません。しかし、私たちは、神の心の中に、神の民に対する深い愛があり、その平和、繁栄、喜びを願う思いがあることを知っています。神の「望む事」の中には、神の民が長年にわたって願い、待ち望んできたことがちゃんと織り込まれているのです。神は好き勝手に思いどおりのことをなさるお方ではなく、神を信じる者たちの願いを成就し、その祈りに答えてくださるために、その主権を働かせてくださるお方なのです。神はその主権を、私たちへの愛によって働かせておられます。神の愛と真実は、時を経ても変わりません。それで、神の主権も、力も、目的も変わることはないのです。神は、イスラエルの人々が、自分たちの回復をあきらめていた時にも、決してあきらめることなく、イスラエルのために、ご自分の目的を成し遂げてくださいました。神の主権は、神の愛と真実で支えられた主権です。

 神は、今も、イエス・キリストを信じる者たちに、その主権を、愛をもって働かせておられます。ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。神の主権が愛の主権であるというのは、なんと幸いなことでしょう。そして、そのことを「私たちは知っています。」と言うことができるのは、なんという特権でしょうか。さまざまなことで思い煩いやすい私たち、小さなことでくじけやすい私たちですが、そんな時、愛の主権者である神を見上げ、このお方に、ひとつひとつの課題をお任せして、前進していこうではありませんか。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは「光よ。あれ。」と言われ、光を造られました。また、「大空よ。水の間にあれ。」と言われ、大空を造り、海を造られました。あなたのことばによってすべてのものは造られました。そして「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われたあなたは、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださいました。(コリント第二4:6)あなたのおことばは決して地に落ちることなく、あなたのみこころを成就してきました。あなたのみことばを聴いている私たちに、あなたの主権を示してください。日常の中にあなたの主権を認め、それに信頼する者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/25/2005