キリストの受難

イザヤ53:1-5

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53:1 だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

 一、受難の預言

 イザヤ書はとても不思議な書物です。聖書全体が66巻から成り立っているように、イザヤ書も66章から成り立っています。聖書の最初の39巻が「旧約」で、残りの27が「新約」ですが、イザヤ書の第1章から39章は、いわば旧約的な内容で、40章からは、それまでとは違った新しい主題が語られます。つまり、40章から66章までの27章はとても新約的なのです。聖書全体とイザヤ書には不思議な調和があるのです。

 イザヤ書の第1章から39章に「贖う」という言葉が出てこないわけではありませんが、ほんの少しです。ところが、40章以降には「贖う」という言葉が繰り返し出てきます。イザヤ書では、「贖い」は、直接的には、ユダヤの人々がバビロン捕囚から解放され、祖国に帰ってくることを表わしていますが、それは同時にイエス・キリストの十字架の贖いの預言となっています。イザヤ書の後半、40章以降は、新約聖書と同じように、救い主による贖いを主題としているのです。

 きょうは、イザヤ書にある、キリストの贖いの預言について、ご一緒に学ぼうとしていますが、イザヤ書には、受難の預言以外にも、イエス・キリストについての重要な預言が数多くあります。イエスが処女から生まれること(7:14)、ダビデの王座を継ぐこと(9:7)、バプテスマのヨハネが道備えをすること(40:3-5)、心砕かれた者をいやすこと(61:1-2)などです。しかし、イザヤ書が最も詳しく預言しているのは、イエス・キリストの受難です。イザヤ50:6には「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった」とあって、イエスが大祭司による審問のときにほおを打たれ、ピラトによる裁判の後、ローマ兵からその背に鞭打たれたことが、あらかじめ預言されています。

 そして、イザヤ53章では、イエスのご受難が、さらに詳しく描かれています。

 1節に「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか」とあります。イエスは約束された救い主として、ご自分の民のところに来られたのに、人々はイエスを信じ、受け入れようとはしませんでした。

 2節の「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」という言葉はイエスが貧しさの中に生まれ、育たれたことを言っています。

 3節と4節の「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」という部分はマタイ8:17に引用され、イエスの宣教を描いています。

 7節の「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」はペテロ第一2:22-23に引用されています。イエスは、裁判の時、人々が次々と責め、罵るとき、それに反論することなく、黙って耐えられました。十字架の上では、ご自分を罵り、苦しめる人々のためにさえ、神に赦しを願い求められました。

 8節の「彼は暴虐なさばきによって取り去られた」というのは、総督ピラトがイエスに罪を認めなかったのに、彼が群衆の声に負けてイエスを十字架に引き渡したことを指しています。ローマ帝国は、軍事力だけではなく、法の支配によってその勢力を広げていきました。今日の様々な法律は「ローマ法」に基礎を置いています。ローマ兵は任務に忠実で規律正しいことで知られていました。ところが、イエスの裁判では、その法が破られました。ローマ兵は、普段は処刑される者に同情して、できるだけ楽に死ねるように計らったのですが、イエスに対しては、その規律を破って、さんざん痛めつけ、嘲り、罵ったのです。「暴虐なさばきによって取り去られた」というのは、まさに、その通りです。

 9節は、新改訳聖書では「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた」とあります。墓が「悪しき者」とともにあると言われているのに、葬られたのは「富む者」とともにであったと言うのです。どういうことでしょうか。それは、イエスが二人の犯罪人と共に、犯罪人のひとりとして死なれましたが、その遺体は裕福なアリマタヤのヨセフの墓に葬られたことを言っているのです。この不思議な言葉は、そのようにして成就しました。

 今は、聖書研究の時間ではありませんので、これ以上に詳しいことはお話ししませんが、イザヤ書53章だけで一冊の本が書かれているほど、多くの内容を持っています。わたしは、イザヤ53章を読むたびに、「ゾクッ」とします。「ゾクッ」とすると言ったのは、聖書の預言が、細かい部分にいたるまで、正確に成就していて、怖いぐらいだという意味です。皆さんも、聖書を学んでいて、人間の思いを超えた神の言葉の真理に出会い、聖なる畏れを感じたことがあると思います。聖書なのだから当然だと言えばそれまでですが、イエスの十字架から800年前に、こんなにも正確にキリストの苦難を描かれていることに、聖なる畏れを感じずにはおられません。

 二、受難の目的

 しかし、聖書がこんなにも詳しくキリストの受難を預言しているのはなぜでしょうか。それは、キリストの受難こそが、わたしたちを救うものであり、聖書の主題だからです。

 さきほど見たように、イザヤ書の預言は、イエスのご受難を見事に描いていて、それは新約と一致しています。しかも、その一致は、イエスのご受難についての見える部分だけの一致ではありません。イエスのご受難の意味や意義についての一致です。預言の言葉は、一貫して、救い主が、人の罪を背負って、その身代わりとなって苦しみを受けられると言っています。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」(4節)「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(5節)「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」(6節)「彼が自分を、とがの供え物となす」(10節)「義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」(11節)「しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(12節)

 これらは、イエスご自身が「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:45)と言われたのと同じです。ペテロ第一の手紙2:24には「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」と、イザヤ書の言葉がそのまま引用されいます。イザヤ書は、イエスのご受難が罪人のための身代わりであること、人は、イエスの苦しみと死によって救われることをあらかじめ語り伝えているのです。

 わたしたちは毎年、イースターにむけて、レントの四十日にイエスのご受難を深く覚えようとします。それは、これこそが聖書の主題であり、ここにこそわたしたちの救いがあるからです。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書も、その三分の一を、主イエスのご生涯の最後の一週間を描くのに費やし、主イエスの復活を告げ知らせて締めくくっています。初代教会は、イエス・キリストの十字架を語り、キリストの復活を証ししました。これこそが、聖書の主題であり、聖書の他のどんな教えにもまさって大切なものだからです。すべての人は、イエスの身代わりの死によってはじめて罪の赦しを得、イエスの復活によって、新しいいのちに生きることができる、人は、ほんとうの意味で、生かされるからです。人生の根本問題が解決されるのです。

 聖書は「人生の問題」を扱っています。聖書は、わたしたちに生きる知恵を与えます。実際、カーネギーの『道は開ける』やコーヴィーの『七つの習慣』など、自己啓発の書物はほとんどが聖書に基づいて書かれています。しかし、聖書が「人生の問題」というときには、もっと基本的なこと、わたしたちの、「生きる」か「死ぬか」、「生死」の問題を扱っています。

 人生の問題というと、どの学校に行くか、どんな仕事をするか、どの会社に就職するか、誰と結婚するか、どんな家庭を築くのか、どのように社会に貢献するのかなどを、ふつうは、考えます。どれも大切なことです。しかし、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たせられた時には、そんなことよりも、まず生きること、生きる力を得ることを願います。子どもが病気になった時には、親は「勉強しなさい」「いい子になりなさい」とは言いません。まずは病気がよくなって、元気になるようにと願います。そのように、聖書は、人生の問題を、「生きる」とはどういうことなのか。人は、なぜ、何のために「生きる」のか、生きる力、命はどこから来るのかという根本的な問題の解決からはじめています。それが解決されなければ、「どのように」生きるかということも定まらないからです。聖書の主題は、イエス・キリストの十字架と復活は、文字通り、イエスの「生死」の問題を扱っているのですが、このイエス・キリストの、十字架の死と復活が、私たちを本当の意味で生かし、人生の問題に根本的な解決を与えるのです。

 「なるほど」と思わせる話を聞くとわたしたちはそれに頷きます。感動的な話を聞くと涙を流すかもしれません。しかし、そうした知的な興奮や感動は時間とともに消えていきます。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の知らせは、どんなに時間が経っても、時代がかわっても、消えていくもの、薄れていくものではありません。ファニー・クロスビーが書いた「われにきかしめよ」という賛美は聖歌の訳では「十字架にかかりて われらの罪を 贖いたまいし 主の物語 聞くたび読むたび 心とけゆき 感激の涙に 目はくもるなり」と歌っています。この歌詞のように、何度聞いても、読んでも、主イエスの十字架と復活の知らせは、わたしたちの心をゆさぶります。それは信じる者の生きる力、いのちそのものだからです。このキリストの死と復活の物語、「福音」によって、人は、はじめて、生かされるからです。

 きょうは、イエスのご受難の預言の言葉から、十字架の物語を聞きました。イザヤ53章を心静かに読み、黙想してみてください。そこにイエス・キリストのお姿が浮かび上がってきます。この預言の言葉を味わってください。そして、「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらせたのである」(ローマ4:25)との真理を確信したいと思います。おひとりひとりが、ローマ4:25の言葉の「わたしたち」を「わたし」に置き換え、「主は、わたしの罪過のために死に渡され、わたしが義とされるために、よみがえらせた」と言い表わして、神をあがめたいと思います。

 (祈り)

 神さま、あなたは、長い旧約の歴史の中にイエス・キリストの受難を事細かに預言され、その預言と約束の通り、救い主を与えてくださいました。あなたは、旧約の預言と新約の証言のふたつによって、わたしたちを救いの真理へ、それを信じる信仰に導いてくださいます。わたしたちひとりひとりの心を開いて、あなたの真理を受け入れ、それによって生かされて、人生を歩む者としてください。イエス・キリストによって祈ります。

3/26/2017