49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。
49:14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
49:16 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」
「母の日」おめでとうございます。「母の日」は1907年、アナ・ジャービスさんが、2年前に亡くなった母親の記念礼拝をヴァージニアのグラフトンにある教会で行ったことから始まりまりました。「母の日」には家族そろって教会に行き、こどもたちが母への感謝を書いた手紙を渡すというのが、伝統的な「母の日」の祝い方でした。ところが「母の日」がポピュラーになるにつれて、それが商業化されていきました。アナ・ジャービスさんが、「母の日」の商業化に反対するデモに参加して逮捕されるという事件が起こっています。
「母の日」の創設者ともいえるアナさんの存命中にさえ、「母の日」がすでに商業化していたとしたら、今は、もっとそうでしょう。教会からはじまった祝祭日が世の中に広まるのは良いことでしょうが、その祝日の本来の意味が忘れられ、薄められ、ゆがめられてしたものが教会に戻ってくるとしたら、それはとても残念なことです。教会からはじまったものは、本来の形でお祝いしたいものです。
一、神の約束
聖書では神は「父」と呼ばれます。そして、神の愛というと、私たちは、父の愛を連想します。あの放蕩息子の父のように、立ち返ってきた息子を赦し、受け入れる大きな愛を思い浮かべます。母の愛は、ときには強く、大胆にもなりますが、父の愛とくらべると、細やかな愛です。神は、「父」と呼ばれてはいても、神が母親が持つような愛を持っておられないわけではありません。きょうの箇所では、神が、母親のような愛情をもって、こう言っておられす。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(15節)神は、母親が子どもを愛するような細やかな愛情をも持っておられ、子どもをいつくしむ母親の心をよく知っておられるのです。父の愛だけでなく、母の愛も、神の愛にそのみなもとがあるからです。
最近、日本で、まだ数ヶ月の赤ちゃんや二、三歳の幼児が虐待を受けて死んでいくという痛ましい事件が起こっています。しかも、子どもを虐待しているのが、実の父親、実の母親だというのです。そんなことは、かつは考えられないことでした。私の子どもの頃、誰もがみな貧しい生活をし、いつもお腹を空かしていました。それでも、どの親も、自分は十分に食べなくても、子どもにはたくさん食べさせようとしました。親が子どもをいじめたり、虐待したりすることは、めったにありませんでした。どの親も、何かあれば子どもをかばったものです。
しかし、「捨て子」はあったようで、そうした話はよく聞きました。親が子どもを育てられなくなって捨てることは今もあります。そんな子どもの命を救い、守るため、ドイツで Babyklappe というものが設けられました。自分で育てられなくなった赤ちゃんを預けておく場所です。それをモデルにしたのが、日本の「こうのとりのゆりかご」(通称「赤ちゃんポスト」)です。全国でただ一箇所、熊本のカトリック系の慈恵病院にあります。
テキサスでは、かつて年間百人もの赤ちゃんが捨てられ、そのうちの何割かの赤ちゃんが亡くなっていました。トイレやゴミ箱で発見されることもあったそうです。そうした赤ちゃんを救うために Baby Moses Law というものがつくられました。川に捨てられた赤ちゃんのモーセがエジプトの王女に救われたことから名付けられた法律です。これは、親がどうしても育てられない場合、生後2ヶ月までの赤ちゃんを引き取って育てるという制度です。テキサスから始まって、今はアメリカのほとんどの州に同じようなものができました。
どの親も、子どもを捨てたくて捨てるわけではありません。そうせざるを得ないさまざまな理由があるのだと思います。母親が子どもを捨てるといったことが起こらないように、根本から問題を解決していかなくてはなりません。そのためにさまざまな取り組みがなされていますが、捨て子を防ぐことができない悲しい現実があります。子どもは父の愛、母の愛を受けてこそ健全に育ちます。母親から捨てられた子どもや母親の愛を十分に受けられなかった子どもには、大人になっても、心の傷が残ります。低いセルフエスティームしか持てない、健全な物の考え方ができない、人との関わり方が分からないなどといったことが起こります。希望や確信を持って人生を送ることができなくなるのです。
けれども、神は言われます。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」この言葉は、「主は私を見捨てた」と言って、嘆いている人たちや「主は私を忘れた」と言って、不満を訴えている人たちへの答えです。神は「わたしは決してあなたを捨てない、忘れない」と答えておられるのです。
さまざまな理由で、子どものころ母親の愛を十分に受けられなかったとしても、この神の愛を知り、信じる者は、父の愛、母の愛にまさる愛、それらの愛のみなもとである神の愛によって、足らなかったものを補ってあまりあるものを受けることができます。心の傷が癒やされ、健全な生活を取り戻すことができます。神を信じる者、神に頼る者は、「私は決して見捨てられない、忘れられることはない」との確信を持つことができます。詩篇27:10にあるように、「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」と言うことができるのです。
二、イエスによる実現
この神の愛は、イエス・キリストによって、よりいっそう確かなものとなりました。イエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と約束されました。まるで、母親が四六時中子どもから目を離さず、どんなことがあっても子どもを見放さないように、イエス・キリストは信じる者と一緒にいてくださるのです。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」との約束は、第一に、復活によって実現しました。イエスが「わたしはあなたを捨てない」と言われたのは、最後の晩餐を終え、十字架を前にしてのことでした。イエスは世を去ろうとしておられ、この後十数時間のうちに、主は十字架の上で息絶えられたのです。しかし、いのちの主が死んだままであるはずがありません。主は予告されたとおり、三日の後、復活されました。イエスが十字架にかかられたとき、弟子たちは主を見捨てましたが、主は決して弟子たちをお見捨てにはなりませんでした。復活して、そのお言葉どおり、弟子たちのところに戻ってこられました。
第二は、聖霊によってです。復活されたイエスは、四十日ののち、天にお帰りになりましたが、天から、もうひとりの助け主、聖霊を与えてくださいました。主イエスが天に帰られるかわりに、天から聖霊が来られたのです。この聖霊は、信じる者の内に住んでくださり、キリストは聖霊によってわたしたちと共にいてくださるのです。聖書で神は「父」、主イエスは「息子」と呼ばれ、どちらも男性のイメージがあるのですが、聖霊には「母親」のイメージがあります。信じる者は神の子どもとされるのですが、信じる者を神の子どもとして生んでくださるのは聖霊です。聖霊は新しく生まれた神の子どもたちを育て、導き、養い、教え、慰めてくださるお方です。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけません」という言葉があります。私たちが罪を犯すとき、聖霊がそれを悲しまれるというのですが、それは、子どもが良いことをしたときに喜び、悪いことをしたときにそれを悲しむ母親のような気持ちを表しています。「たとい母親がその子を忘れるようなことがあっても、わたしは忘れない。見放さない」と言われた神の愛や、イエスが「わたしはあなたを捨てない」と言われたイエスの恵みを、聖霊は、私たちに体験させてくださるのです。
第三に、主の言葉は、主の再臨によって実現します。主イエスが天に帰られた後も、聖霊が共にいてくださいますから、わたしたちは決して地上にとり残されているわけではありません。けれども、やがて、イエスが、もういちど地上に来られ、私たちが天にあげられるとき、私たちは、天にイエスが備えてくださった場所に迎えられ、イエスと共に住むようになるのです。主とともに、永遠にです。これは、今、地上では想像もできないような次元のことですが、そのことはかならず実現するのです。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」この言葉をもとに Ludie Day Pickett さんがひとつの詩を書きました。それには "No, Never Alone" という題がつけられ、賛美となって多くの人に歌われるようになりました。日本語では「主は捨てたまわじ」というタイトルで新聖歌205番に収められています。英語の歌詞の4節目を、そのまま日本語にするとこうなります。
主はあの丘でわたしのために死なれた
わたしのためその脇腹を刺し通された
わたしのためその泉を開かれた
それは真っ赤な、きよめの血潮
わたしのため、主は栄光のうちに待っておられる
その王座に着いて
主はわたしを捨てないと約束された
けっしてわたしをひとりにしないと
ひとりにしない ひとりにしない
主はわたしを捨てないと約束された
決してわたしをひとりにしないと
ここにはイエスが、私たちをひとりにしないため、また、私たちを天に受け入れるため、十字架でそのいのち投げ出してくださったことが歌われています。きょうの箇所の16節に、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ」とありましたが、イエスの両手にある十字架の釘跡は、まさに私たちがそこに刻まれているところだと思います。イエスの受けた傷は、私たちの罪のためのもので、私たちはその傷によって罪を赦され、たましいが癒やされます。イエスは私たちを、赦された者、癒やされた者として、ご自分の手のひらに刻んでいてくさるのです。私たちが天のふるさとに帰るとき、主はその両手をひろげて、私たちを迎えてくださるでしょう。そのとき、きっと、私たちは手のひらの傷跡を見ることでしょう。父なる神と御子イエスは言われます。「わたしはあなたを忘れない。…わたしは手のひらにあなたを刻んだ。…わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」と約束しておられます。“No, never alone!” 「あなたをひとりにはしない。」この力強い言葉に感謝し、信頼しましょう。
私たちは、きょうの「母の日礼拝」で、父なる神の大きな愛とイエスの尊い愛、そして、聖霊の計り知れない愛を学びました。父、御子、聖霊の神の愛こそ、母の愛のみなもとです。すべての愛を根源です。この愛を受け、この愛によって神と人とを愛する人生を歩みたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは私たちを母の胎内で形造り、この世に生まれさせてくださり、母の愛によって育ててくださいました。母にその愛を与えてくださったのは、あなたです。子どもを導き育てることで悩んでいる母親が大勢います。また、母親の愛を十分に受けることができなかったため心に傷を持っている人も大勢います。誰もあなたの愛を受けることなく、他を愛することはできません。どうぞ、私たちをあなたの愛で満たし、母が子を愛し、子が母を愛し、私たちが互いに愛し合うことができるようにしてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/8/2022