私を背負う方

イザヤ46:1-4

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46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる。
46:2 彼らはともにかがみ、ひざまずく。重荷を解くこともできず、自分自身も捕らわれの身となって行く。
46:3 ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。

 「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。」(ヨシュア記1:9)私たちは新年をこの御言葉で始めました。しかし、この言葉は、自分で自分を励ますための言葉ではありません。神が、私たちを励ましてくださっている言葉です。ヨシュア記1:9は「わたしは…」という言葉で始まり、「あなたの神、主があなたとともにいるのだから」との言葉で終わっています。「わたしは…あなたの神、主…。」これが大切です。ここが聖書の言葉と他の言葉と違うところです。聖書は、たんなる教訓や励ましの言葉ではありません。聖書は「神の言葉」です。それは、過去に「神が与えた言葉」というだけでなく、今も「神が語っておられる言葉」なのです。神ご自身が、聖書によって、「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたと共にいる。あなたと共にいて、あなたのためにこのことをする」と約束しておられるのです。

 私たちは、「こんなとき、どうしたらいいのか」と迷います。そして、問題を解決する「処方箋」のようなものを聖書に求めることがあります。もちろん、聖書には、そうした具体的な教えが数多くあり、それを見つけて役立てることができます。しかし、「私が何をしなければならないか」を考える前に、神が私のために何をしてくださったのか、何をしょうとしておられるのかを知ることはとても大切です。そして、それを知るときに、神が教えてくださることを実行する力が与えられるのです。

 一、近づいてくださる神

 さて、きょうは、イザヤ書から学ぶのですが、イザヤ書については、大変興味深いことがあります。聖書は、旧約の39の書物と新約の27の書物、両方で66の書物から成り立っていますが、イザヤ書も、それと同じ66の章から成り立っています。しかも、その内容も、イザヤ書の1章から39章は旧約39巻と一致し、イザヤ書の40章から66章は、新約の27冊に一致するのです。

 イザヤ書40章は、1節で「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と言って、イエス・キリストによる救いのときが来たことを告げています。3節には「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。』」とあって、バプテスマのヨハネのことが書かれています。9節には「シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。『見よ、あなたがたの神を。』」とあって、神の御子が人々の前にご自分を現し、福音を宣べ伝えることを言っています。イザヤ書40章以降には、神が私たちに近づき、私たちのところに来てくださり、私たちと共におられることが書かれているのです。

 イザヤ書6章では、神は、「聖なる、聖なる、聖なる」お方、最高に聖いお方であるとありましたが、イザヤ57:15には、その聖なるお方が、罪に苦しむ者たちを救うために、この世に降りてきてくださったことが書かれています。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。』」この言葉は、イエスが、当時「罪人」(つみびと)と呼ばれた人々に近づき、彼らの「友」となられたことによって成就しています。

 イエスは、神が、罪ある者の悔い改めをどんなに喜んでくださるかを教えるため、ルカ15章の放蕩息子の譬えを話されました。その20節に「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」とありますが、マルチン・ルターはこれを解説してこう言いました。「昔、身分のある人は、その裾が地面に触れるほどの長い服を着て、決して走ったりはしなかった。ところが、この放蕩息子の父親は、息子が帰ってきたのを見ると、服の裾を持ち上げ、息子のほうに向かって走り出した。この父親の姿は、私たちの天の父の姿を描いている。父なる神は罪人がご自分のもとに返ってくるのを待ちきれず、ご自分の方から近づいてくださるのだ。」イザヤ書は、神が、ご自分の方から私たちのところに近づいて来られるお方であることを明らかにしています。、私たちも、神に向かって歩み出し、父なる神の愛のふところに飛び込みましょう。神は、大きな愛で私たちを受け入れてくださいます。

 二、手を差し伸べる神

 次に、神は私たちに手を差し伸ばしてくださる方です。イザヤ41:13にこうあります。「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。」足元がおぼつかないとき、誰かが手をとってくれれば安心です。この言葉は、私たちが人生の歩みの中で不安を覚えたり、恐れを感じたりするとき、主が私たちに手を差し伸ばし、私たちを強めてくださることを言っています。「あなたの右の手」とありますが、「右の手」というのは、聖書では「力のある手」を表わします。私たちは自分の「右の手」の力を失うとき、その手を、祈りの手として神に差し伸ばします。すると神はご自分の「右の手」、力ある手、全能の手で、私たちを強めてくださるのです。

 また、神の「右の手」は癒やしの手です。私が、はじめて聖書を読んで感動したのは、ツァラアトに冒された人がイエスの前にひれ伏して、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言ったとき、イエスが手を伸ばしてその人にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた箇所でした(マタイ8:2-3)。今日ではハンセン病は治る病気で感染力も強くはないことが知られていますが、古代ではそうではありませんでした。病気が進むと皮膚や骨が冒され、容姿が醜くなるため、患者は白い布でからだを覆い、「汚れた者です、汚れた者です」と言って人を避けなければなりませんでした。人々から施しを受ける時にも、長い「ひしゃく」のようなものを差し出し、その中に食べ物などを入れてもらっていました。ところがイエスは、ご自分のほうから「手を伸ばして、その人にさわり」、その人を癒やし、清められました。イエスは「きよくなれ」と命じるだけで、その人を清めることができたのですが、あえて、彼に手を差し伸べられたのです。イエスが差し伸ばされた手は、病気を癒やすだけでなく、病気のために社会から見捨てられ、神からも見放されていると感じていた人に、神との交わり、社会への復帰を果たさせるものだったのです。私は、聖書を読んで、自分の心がなんて汚いんだろうと感じはじめていましたので、イエスがそんな私にも、手を差し伸ばしてくださることを知り、大きな感動を覚えました。

 イエスは熱を出して苦しんでいたペテロのしゅうとめの手に「さわって」、彼女の病気を治しています(マタイ8:15)。盲人の目を開ける時も、耳が聞こえず、ものが言えない人を癒やす時も、イエスは、その目にさわり、耳にさわり、舌にさわりました(マルコ7:33、8:22)。全身できものだらけの人が連れてこられた時に、イエスは、その人を抱いて治しました(ルカ14:4)。イエスの御手は、力あるだけでなく、なんと愛にあふれ、恵み深い手でしょう。このイエスが私にも触れて私を癒やし、清めてくださのです。そのことを知って、私は、イエス・キリストを信じるようになりました。

 イザヤ59:1に「見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない」とあります。もし私たちが神の愛や力を体験できないでいるとしたら、それは神の手が短くて私たちに届かないからではありません。神は、その手をふところにしまったままにしておられるお方ではありません。主は、すでに私たちに手を差し伸ばしておられます。主の手は、私たちが主に向かって手を差し伸ばせば、すぐに届くところにあるのです。主が差し出してくださる手、愛の手、恵みの手、癒やしの手、力の手に、私たちも手を差し伸ばしましょう。主は、私たちが差し伸ばした手をしっかりと握り、不安や恐れ、問題や困難から、私たちを引き上げてくださいます。

 三、背負う神

 最後に、神は、私たちを背負ってくださるお方であることを学びましょう。

 まことの神、私たちの主だけが、私たちを背負うことができます。1節に、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの像は獣と家畜に載せられる。あなたがたの荷物は、疲れた動物の重荷となって運ばれる」とありますが、「ベル」はバビロンの主神マルドゥク、「ネボ」はマルドゥクの子で文学と科学の神のことです。これらの神々はバビロンで尊ばれ、恐れられていました。イザヤ書が書かれたころ、イスラエルはバビロンに脅かされていました。バビロンの人々は自分たちがイスラエルに勝ったのは、ベルやネボがイスラエルの神よりも強かったからだと考えていました。しかし、ベルやネボは人の手によって作られた偶像に過ぎません。自分では歩くこともできず、車に載せられ、家畜に運ばれなければ移動することができないのです。人を背負うどころか、人に背負われなければならないのです。

 しかし、主は言われます。「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」神は、母の胎内にあったときから、生涯の最後まで、私たちを背負い持ち運んで、支え救ってくださるお方なのです。

 私たちを背負ってくださる神のお姿もまた、イエスのうちに見ることができます。イエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と言われました。私たちが背負っているのは、罪の重荷です。イエスは、それを、私たちに代わって背負われました。イエスが「重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」と言われのは、言葉だけのことではありません。主は、実際に私たちの罪の重荷を十字架によって背負ってくださったのです。

 私たちは、つらい目に遭い、苦しい思いをするとき、「神は私を見放されたのだろうか」と不安になることがあるかもしれません。しかし、神は決して、私たちを遠ざけたり、私たちから遠ざかったりなさるお方ではありません。神の手も決して引っ込められることはありません。私たちが苦しむときこそ、「こんなつらい人生は、とても歩むことができない」と感じるときこそ、主は、私たちを背負い、持ち運んでくださるのです。イザヤ63:9はこう言っています。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」この主が、私たちの人生を最後まで支えてくださるのです。主の暖かい背中の温もりを感じながら、主にすがりつつ、歩みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、あなたは、重荷を負って苦しむ私たちに近づき、手を差し伸べ、私たちを、その重荷とともに背負うと、語りかけてくださいました。あなたからの語りかけを日々に聞きながら、あなたに信頼して歩む私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/26/2025