46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。
46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
今年も、多くのご高齢の方々をお迎えして、敬老礼拝を守ることができ、心から感謝します。みなさんがお元気で生活しておられることはもちろんのことですが、なによりも、こうしてともに礼拝できることをうれしく思います。主イエスが「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)と言われたように、礼拝で大切なのは、礼拝堂や礼拝のプログラムといった目に見えるものだけでなく、礼拝堂を満たし、礼拝のプログラムのひとつひとつを満たす霊的なものであることは、誰もが認めるところですね。では、どうしたら、この「霊的なもの」が生み出されるのでしょうか。それは、聖霊のお働きと共に、霊なる神を求め、神のことばに霊をもって答えていく人々の信仰によってです。長い年月、神に従い、仕えてきた方々を迎えての礼拝では、そこに、霊的な深み、厚みを感じることができます。以前もお話ししたことですが、サンディエゴの教会に、二世の娘さんふたりに連れられて礼拝においでになっていた一世の姉妹がいました。彼女はひとりでは礼拝に来ることができませんので、礼拝に来るたびに「私は、何にも出来なくて、娘たちや皆さんの迷惑ばかりかけています。」と言っていました。私たちはそのたびに「いいえ、そんなことはないですよ。こうして、礼拝に来てくださるだけで、礼拝が祝福されるんですよ。」と話していました。実際、この姉妹が礼拝に来てくださると、温かい雰囲気が教会ただよって来るのを、みんなが体験しました。
この姉妹も、二世のかたがたも、牧師家族のためによく祈り、ほんとうに良くしてくださいました。家内はこうしたご高齢の方々とのまじわりの中で「老信徒」という題の詩を書きましたので、紹介させていただきます。
老信徒
お年を召した方々が
長い年月信仰のため
教会のために苦労した
老信徒の方々が
天に帰ったその時に
「私の属していた教会は
とてもよかった」と報告したら
神さまも天使たちも
喜んでくれるでしょうと思いながら
自分たちの教会が
そんな所であってほしいと
願いながら
その方々と手を取りあって
み栄えのために励みたいと
私は思っているのです
長い人生の経験の中で、霊とまことをもって礼拝することを学んでこられた方々と共に守る礼拝は、ほんとうに大きな祝福になります。ご高齢の方々が、健康の許される限り、毎週の礼拝に参加してくださり、この礼拝をさらに、霊とまことに満ちたものにしていただきたいと、心から願っています。今日の礼拝はご高齢の方々への祝福を祈る礼拝ですが、毎週の礼拝がご高齢の方々によって祝福されるという意味での「敬老礼拝」であってほしいと思っています。
一、近づいてくださる神
さて、今年はホセア6:3から「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」という標語を掲げ、神をさらに深く知ることを求めてきました。私たちは、神がこの世界と私たちを造られたお方であり、すべてのものを治め、私たちの人生を導いておられるお方であることを知りました。神の知恵、知識、力には限りがありません。神は、きよく、正しく、完全なお方です。神は私たちよりもはるかに偉大なお方です。神は、ご自分を「わたしは有って有る者」と呼ばれましたが、この神の前には、私たちは「有って無きがごとき者」です。神を知れば知るほど、私たちは、神の栄光や、きよさに圧倒され、自分の小ささ、無力さ、罪深さが分かり、聖なるお方の前にへりくだり、ひれ伏すようになります。それが、礼拝です。礼拝とは、神をいと高き方としてあがめることです。しかし、ひとたび神を礼拝する者とされると、不思議なことに、神を身近に感じるようになります。偉大な神とちっぽけな私、全能のお方と無力な私、聖なる主と罪深い私。ほんとうは、神を知れば知るほど、神と私との距離を感じて当然なのですが、それにもかかわらず、私たちは神を身近に感じていきます。礼拝で神との親しいまじわりを体験するようになるのです。どうしてでしょうか。それは、神が、聖なるお方でありながら、同時に恵みとあわれみに富んだお方であり、すすんで私たち人間に近づいてくださるお方だからです。イザヤ57:15には
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、とあります。聖なる神は、たとえその罪がどんなに深くても、自分の罪を悔い改めて、へりくだる者とともに住んでくださるというのです。ここには、私たちが神の前にへりくだるべきことが教えられていますが、同時に、神のへりくだりも描かれていると思います。神ご自身がへりくだり、まるで腰をかがめるようにして、私たちのところに来てくださるのです。私たちの神は、私たちが神を求める前から、私たちに近づいてくださっているお方です。
その名を聖ととなえられる方が、
こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、
砕かれた人の心を生かすためである。」
二、手を差し伸べる神
神が私たちに近づいてくださる姿は「手を差し伸ばす」ということばでも表わされています。イザヤ41:13に「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから。」とあります。年をとりますと、ちょっとしたことで足下がふらつくことがあります。若いころは、何の苦労もなく駆け上った階段も、手すりにつかまりながら、一歩一歩注意して上り降りしなければならなくなります。そんな時、誰かが手をとってくれたら、安心ですね。そのように、神は、人生の歩みの中で、私たちの足下がふらつくような時、私たちに手を差し伸ばしてくださるのです。イザヤ41:13に「あなたの右の手」とありますが、「右の手」というのは、聖書では「力のある手」を表わします。神の「右の手」は神の全能の力を表わします。握手をする時右手に対して左手を差し出したら、相手も右手を差し出してくれます。右手と右手で手を握ります。ですから神が私の右の手を握ってくださるということは、神も私に右の手を差し出してくださっているということになります。私の「右の手」、つまり私の力が弱まる時、神は、神の「右の手」、全能の力で私を強めてくださるというのです。イザヤ42:6にも「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。」ということばがあります。神は、差し伸ばしてくださったその手で、私たちの弱いところを支え、私たちの傷に触れていやしてくださいます。
私は、はじめて聖書を読んだ時、マタイの福音書の五章から七章にある「山上の説教」にとても感動しました。当時、高校生だった私に、そこで教えていること全部が理解できたわけではありませんが、イエスの教えは、私の今までの常識を覆すもので、私はここに真理があると思いました。しかし、私がもっと感動したのは、イエスが、山上の教えを説かれた後、らい病の人にさわって、きよめられたということでした。当時らい病は宗教的に汚れたものであるとされ、らい病人に触れることはもちろろん、近づくことも、自分に汚れをもたらすと考えられていました。らい病人は、人々から隔離されて暮らしており、人里に近づく時には「汚れた者です。汚れた者です。」と言わなければなりませんでした。人々から施しを受ける時には、長い「ひしゃく」のようなものを差し出し、その中に食べ物などを入れてもらいました。らい病人に直接物を手渡すということはありませんでした。ところがイエスは、らい病人に「手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた」(マタイ8:3)のです。イエスには「きよくなれ。」と命じるだけでらい病をきよめる力がありました。しかし、イエスはらい病人に手を伸ばし、彼に手を置いてその人をきよめました。当時社会から見離されていたらい病人に、ご自分から手を差し伸ばしてくださったイエスの愛に、私は大きな感動を覚えたのです。
私は、教会に行くようになって、他の人たちと聖書を学ぶようになりましたが、多くの人は、イエスの教えはすばらしく、信じられるが、イエスが奇蹟を行ったというのは、簡単には信じることはできないと言うのを聞きました。「聖書に奇蹟が書いていなければ信じるのだが…。」と言うのです。でも、私は「イエスが奇蹟を行ったからこそ、イエスを信じられる。」と思いました。どんなに立派な教えを語ることができても、らい病をきよめることができなかったとしたら、イエスはどうやって私を罪からきよめてくださるのでしょうか。たとえイエスがらい病をきよめる力を持っておられても、らい病人に手を差し伸ばすほどの愛を持っておられなかったら、私は決してあわれみを受けなかったでしょう。
イエスは熱を出して苦しんでいたペテロのしゅうとめの手に「さわって」、彼女の病気を治しています(マタイ8:15)。盲人の目を開ける時も、耳が聞こえず、ものが言えない人をいやす時も、イエスは、その目にさわり、耳にさわり、舌にさわりました(マルコ7:33、8:22)。全身できものだらけの人が連れてこられた時に、イエスは、その人を抱いて直しました(ルカ14:4)。私は、このイエスが私にも触れて私をきよめ、私をいやしてくださるということが分かり、イエス・キリストを信じるようになりました。
神は、このように私たちの汚れに手を伸ばしてそれをきよめ、私たちのからだと心の傷に手を触れて、それをいやしてくださいます。イザヤ59:1に「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。」とあります。もし私たちが神の愛や力を体験できないでいるとしたら、それは神の手が短くて私たちに届かないから、弱くて私たちを支えきれないから、あるいは、神が私たちに無関心で、その手をふところにしまったままにしておられるからではないのです。主の手はすぐそこまで来ているのです。私たちも自分の手を差し出せば良いのです。私たちに手を差し伸ばしていてくださる神に、私たちも信仰の手を差し出したいと思います。
三、背負う神
神は、近づいてくださる神、手を差し伸べてくださる神、そして私たちを背負ってくださる神です。神は、イザヤ46:4で「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」と言っておられます。
さきほど、イエスのうちに、私たちに手を差し伸ばしてくださる神のお姿を見ましたが、私たちを背負ってくださる神のお姿もまた、イエスのうちに見ることができます。イエスは「また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」(マタイ23:4)と言って当時の宗教家たちを非難されました。イエスは、人々に重荷を追わせるだけで、それに指一本さわろうとしなかった宗教家たちとは違って、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言って、私たちの罪の重荷を引き受けてくださったお方です。マタイは、大勢の病人のひとりびとりに手をおいて、夜通しかかって彼らの病気を直していかれたイエスのお姿を描いた後で、「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(イザヤ53:4)というイザヤ書のみことばを引いています。イエスは私たちの病だけでなく、私たちの罪の重荷を引き受けて、それを背負ってくださいました。もっと正確に言えば、罪の重荷を背負って苦しんでいる私たちを、私たちの背負っている重荷ごとご自分の身に背負ってくださったのです。イエスが背負われた十字架は、まさに私たちの罪の重荷であり、また罪の汚れにまみれた私たちそのものだったのです。イザヤ53:6には「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。神は、口先だけで「わたしは背負う。」と言われるお方ではありません。イエス・キリストによって、私たちの罪をも背負ってくださった神は、ほんとうに、私たちを背負ってくださるお方です。
イザヤ46:1に「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。」とあります。「ベル」はバビロンの主神マルドゥク、「ネボ」はマルドゥクの子で文学と科学の神のことです。これらの神々はバビロンで尊ばれ、恐れられていました。そのころ、イスラエルはバビロンの支配のもとにあり、バビロンの人々は自分たちはイスラエルに勝ったのだから、ベルやネボの方がイスラエルの神より強いのだと思っていました。しかし、実際は、そうではありません。イスラエルの神は、すべてのものの神であり、この神がその深いご計画によって、バビロンにイスラエルを征服することを許されのです。ベルやネボは人の手によって作られた偶像に過ぎません。自分では歩くこともできず、車に載せられ、家畜に運ばれなければならなかったのです。偶像は人間によって背負われ、運ばれます。しかし、まことの神は、人間を背負い、私たちを持ち運んでくださいます。イザヤ書には人手によって作られ運ばれる偶像と、私たちを造り、私たちを背負ってくださる神との比較がさまざまに箇所にあります。私たちは、年老い、そして、弱くなりますが、神は、永遠に変わらず、決して衰えることのないお方です。ですから、神は、どんな時でも、私たちを背負い、持ち運んでくださることができるのです。
神が、変わることがないお方だというのは、決して神が心を持たないお方であるという意味ではありません。神は、私たちの苦しみを共に苦しんでくださるお方です。イザヤ63:9に「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。神は、私たちの苦しみの日々にこそ、私たちを背負い、苦しみの中を通り抜けさせてくださるのです。Margaret F. Powers の詩にこうあります。
ある夜ある人が夢を見た
夢の中で主と共に海辺を歩いていた
そこには、彼の人生の光景が写し出されていた
どの人生の光景にも砂の上には二組の足跡があった
彼の足跡と主の足跡
最後の光景が写しだされ
その足跡を見ると
あるところはだだ一組だけの足跡しかなかった
それは人生の最も暗く悲しい時だった
彼は主に尋ねた
「私があなたに従い始めた時
あなたは私と共に歩んでくださると言ったではありませんか
でも私が最も困難な時には一組の足跡しかありません
主よあなたを最も必要としていた時
なぜあなたは私から去っていかれたのですか」
すると主は答えられた
「わが子よ いとしい子よ
私がどうしておまえを忘れることがあろうか
あなたの試練の時苦しみの日に
一組の足跡しか見なかったのは
私があなたを背負って歩いていたからだったのだ」
ご高齢の皆さんの多くは、今では、平安な生活を楽しんでおられますが、そこに至るまでにさまざまな苦しみを通ってこられたと思います。しかしその中で、主がおひとりびとりを背負って歩いてくださったことを数多く体験してこられたことでしょう。ですから、この詩の意味がよくお分かりかと思います。年老いて平安な日々を持ちたいと願ってはいても、病気になったり、肉親を失ったり、思わぬことで大変な目に遭わないともかぎりません。しかし、そのような時こそ「あなたがたが年をとっても、…あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。…わたしは背負って、救い出そう。」と約束してくださっている主に頼ろうではありませんか。若い方々も同じように、私たちを背負ってくださる神に、人生の重荷を委ねながら歩んでいこうではありませんか。
(祈り)
主なる神さま、あなたが、私たちから遠く離れたお方でなく、私たちの側近くにいてくださるお方、私たちに手をさし伸ばしていてくださるお方、そして、私たちを背負ってくださるお方であることを、心から感謝いたします。私たちも、今、信仰の手を差し伸ばします。イエス・キリストが私たちの罪の重荷、人生の重荷のすべてを背負ってくださることを信じます。私たちの心の傷にも、肉体の傷にも触れて、それをいやしてください。あなたによって、この人生を力強く歩ませてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/16/2005