42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
42:2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
42:3 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。
42:4 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」
先週、イザヤ書の1章から39章までは「旧約39巻」のことが書かれ、40章から66章までの27章には「新約27冊」のことが書かれていると言いました。旧約は羊の皮をなめして巻物にしたものに書かれましたので、「39巻」と言いましたが、新約は「パピルス」に書かれ、冊子として綴じられましたので「27冊」と言ったわけです。
「パピルス」はエジプトで発明されました。カヤツリ草の内部を平らにし、それをつなぎあわせ、9インチから12インチの四角いシートを作ります。それからその上に、向きが交差するように別の繊維を重ね、圧着して作ります。「パピルス」という言葉から「ペーパー」という言葉が生まれました。「パピルス」は、紙のように「漉く」という作業がないので、厳密には「紙」ではないと言われますが、「古代の紙」といってよいでしょう。
このパピルスは、現在のレバノンにある「ビブロス」という港からギリシャに向けて出荷されましたので、「ビブロス」は「本」を意味するようになりました。「聖書」が「バイブル」と呼ばれるようになったのは、ここから来ています。
それはともかくとして、66章のイザヤ書には、66巻の全聖書の内容が含まれており、当然、そこには、イエス・キリストのことが書かれています。では、イエスはイザヤ書で、どのようなお方として描かれているのでしょうか。
一、神であるイエス
まず、イエスは「処女」から生まれたお方であると言われています。イザヤ7:14にこうあります。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」
ヘレン・ケラーは「奇跡の人」と呼ばれました。目が見えず、耳が聞こえず、口がきけない三重苦を乗り越え、多くの人々に感化を与えたからです。ヘレン・ケラーのようにその生涯が奇跡的な出来事で導かれてきた人は、他にも大勢いることでしょう。けれども、本当の「奇跡の人」はイエスです。イエスは、旧約の預言どおり、「処女降誕」という奇跡によってお生まれになったからです。
もし、イエスが人と人との間に生まれたなら、イエスは、どんなに優れた人であったとしても神ではありません。人は人を救うことはできませんから、イエスは救い主にはなれなかったのです。また、イエスが一時的に人間の姿をまとって天から降りてこられただけなら、イエスはほんとうの意味では人ではありません。イエスは、人を母としてお生まれになることによって、神の御子でありながら、同時に人の子となられました。処女降誕は、救い主が来られるために必要な奇跡でした。それは、イエスが人に対しては父なる神を現わし、父なる神に対しては人類を代表するためでした。イエスは、それによって神と人との仲介者となって、人を救い、神と人とを結びつけてくださったのです。テモテ第一2:5に「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです」とある通りです。
二、王であるイエス
次に、イザヤ9:6-7では、イエスは王であると言われています。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」ベツレヘムで生まれた赤ん坊は、やがてダビデの王座に就き、ユダヤの国だけでなく、世界を治めるというのです。そして、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。この世のどの王も及ばない者となると言われています。
最初の名、「不思議な助言者」というのは、この王の知恵を表します。どの時代のどの国家の代表者も、一人ですべての事を行うことはできません。助言する人、補佐する人が必要です。アメリカであれば、大統領補佐官のような人です。ここで「不思議」とあるのは、あらゆることに通じ、先の先まで読むことができる能力を指します。ダビデの息子の一人アブサロムは、ダビデに謀反を企てたとき、参謀として、アヒトフェルを迎えました。聖書には「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はすべて、ダビデにもアブサロムにもそのように思われた」(サムエル記第二16:23)とあります。「不思議な助言者」というのは、アヒトフェルのような人、『三国志』でいえば諸葛亮孔明のような人を言うのでしょう。ところが、ここでは王自身が「不思議な助言者」と呼ばれています。言い換えれば、この王は助言者を必要としないほどの知恵を持っておられ、その知恵で世界を治めるのです。
次の「力ある神」は、この王が、全能の力で悪を砕き、不正や不義を一掃し、世界を正しく治めることを言っています。「永遠の父」とは、王の国民に対する慈愛を表します。アメリカでも独立宣言に名を連ねた人たちは「建国の父たち」と呼ばれます。彼らは、アメリカが自由で、平等で、繁栄した国になるようにと、国を愛し、国民を愛し、民主主義を残してくれました。「平和の君」は、この王が国際関係において果たす役割を表しています。どの国も、民族も、互いに互いを脅かすことなく、調和をもって、共に繁栄していく、そんな世界をつくりだしてくれるのです。
イエスがお生まれになったとき、東方の賢者たちがエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました」(マタイ2:2)と言いました。彼らがイエスを訪ねた日、1月6日は、カレンダーには〝Three Kings Day〟とありました。東方の賢者たちはそれぞれが小さな国の王でもあったのでしょう。彼らは全世界の国々の王たちを代表して、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」であるイエスを礼拝したのです。
黙示録には、父なる神の右の王座に就き、世を治め、天の御使いたちと聖徒たちによって賛美を受けておられるイエスの姿が描かれています。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」(黙示録5:12)とあるように、イエスは、イザヤが預言した知恵と力、いつくしみにあふれた「平和の君」なのです。今の時代ほど、このような「平和の君」が必要な時代はありません。まず、このお方を私たちの心に王として迎え、神との平和をいただきましょう。人々の心に平安が与えられ、国と国の間、民族と民族の間に平和が生み出されるよう祈りましょう。そして、やがて、イエスが世界に完全な平和をもたらしてくださる日を待ち望みたいと思います。
三、しもべであるイエス
さて、きょうの箇所、イザヤ42:1には、「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う」とあります。イエスは「神」であり「王」であるのに、どうして「しもべ」と呼ばれるのでしょうか。
きょうの箇所は、マタイの福音書12章に引用されています。そこを開いてみましょう。マタイ12:1には、「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた」とあります。弟子たちは人の畑の麦の穂を摘んで食べたというのですが、それは、ユダヤでは許されていたことでした。畑の中まで入りこんで作物を持っていくのは犯罪ですが、道沿いの作物や収穫のあと取り残したものは、貧しい人々や食べ物の持ち合わせのない旅人のために提供されていたのです。問題は、弟子たちが安息日にそれをしたことでした。麦の籾殻をほぐすことは、安息日にしてはならない「脱穀」という労働であると言って、パリサイ人は、イエスを非難したのです。しかし、そうした非難が的外れなものでした。イエスは、そのことを聖書の言葉を引いて教えてから、言われました。「人の子は安息日の主です。」(マタイ12:8)「安息日の主」とはどう意味でしょうか。「安息日を定められた方」、「安息日にあがめられるお方」という意味です。イエスは、そう言われることによって、ご自分が神であり、主であることを、はっきりと宣言なさったのです。
イエスが会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がいました。パリサイ人たちは、「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と言って、イエスにしつこく言い寄りました。彼らには、手の不自由な人への同情など一つもありませんでした。イエスを攻撃することしか考えていなかったのです。イエスはそんなパリサイ人に、「安息日にこそ、人は身も心も安息を受けるべきだ」と言われ、片手の萎えた人をその場で癒やされました。それを見たパリサイ人たちはイエスを殺してしまおうと計画を練り始めたのです。
しかし、人々はパリサイ人たちに従わず、イエスについていきました。イエスはその日、自分についてきた人々の中で病気の人をことごとく癒やされました。会堂に入る前、弟子たちは空腹だったというのですから、イエスもまた空腹だったでしょう。ところがイエスはご自分の空腹も疲れも忘れて、人々の癒やしのために働き続けられたのです。安息日は、神が人に心身を休め、癒やされ、新しい力を受けるようにと命じ、与えてくださった恵みの日ですが、神にとっては、休みの日ではありません。神は安息日にも、いや安息日にはもっと、私たちのために働き続けられるのです。
マタイは、こうしたことを書いてから、「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった」(マタイ12:17)と言って、イザヤ書の言葉を引用し、イエスを「神のしもべ」として紹介しました。確かにイエスは、ご自分を「安息日の主」と呼んで、ご自分の権威を示されました。しかし、それはパリサイ人の偽善に対してであって、父なる神に対してはつねに、その「しもべ」となって服従されました。イエスは王であり、主であるのに、人々からそれにふさわしく扱われることを求めませんでした。いつでも、父なる神がほめたたえられるようにしむけられました。パリサイ人から命を狙われるようになっても、それにひるみませんでした。父なる神がご自分に授けられた使命を果たすために、黙々とご自分の道を歩まれたのです。
イエスは、父なる神に仕えただけでなく、人々にも仕えられました。イエスの周りに集まった人たちの中には、パリサイ人からは「無学な者」とさげすまれた漁師たちであったり、「罪びと」と呼ばれた「取税人」もいました。多くは、ごく普通の人々でした。いや、イザヤ書にあるように「傷んだ葦」や「くすぶる灯芯」のような人々だったでしょう。川辺に生えている葦などの雑草は、そこを通る人々によってなぎ倒され、踏みつけられます。そんな雑草を気にかける人などいません。「傷んだ葦」は、当時は権力者たちから苦しめられている弱い立場の人々、現代では、様々な苦しみや圧迫によって、もう立ち上がれないと絶望している人々のことでしょう。「くすぶる灯芯」は、油がないためにそれ自体を燃やし、燃え尽きようとしているともしび皿や燭台の芯のことです。これも、富を独占している者たちから絞りとられるだけ絞りとられ、身を焼くようにして生きている人たちのことだったでしょう。現代では、生きる力を失い、自らを滅ぼしている人たちのことかもしれません。イエスは、神であり、王であるのに、そうした人々の「しもべ」となって、痛められ、踏みつけられた人を癒やし、強め、立たせてくださるのです。身も心もボロボロになっている人たちに祝福の油を注ぎ、再び輝かせてくださるのです。
私たちに必要なのは、イザヤが、イエスが来られる800年も前から預言し、新約聖書がその成就を告げている、このような救い主です。神であり人である救い主、王でありしもべである救い主です。それがイエスです。この救い主いイエスを今日も、心に迎え、イエスとともにこの週の一日一日を歩みましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちは、救い主が神であり人であること、王でありしもべであることを学びました。そのようなお方はイエスの他ありません。この救い主の知恵と力、愛といつくしみをいつも求め、それに信頼して歩む私たちとしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/2/2025