創造の神、救いの神

〜夏期修養会聖書講義〜

イザヤ書40:21-31

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40:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
40:23 君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。
40:24 彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。
40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 イザヤ書は全体で66章あり、1-39章と40-66章のふたつに分けることができます。聖書全体が66巻あり、最初の39巻が旧約で、残りの27巻が新約であるのと呼応しています。昨日はイザヤ書の前半、第11章から学びましたが、今朝は後半から、第40章を学びます。主題は「創造の神、救いの神」です。

 一、創造の神

 日本から、あまり明るいニュースがない中で、ひとつ良いニュースがありました。6月13日に小惑星探索船はやぶさが7年間、10億キロメートルの宇宙の旅を終えて、無事に小惑星イトカワからのサンプルを運んで、地球に戻ってきたということでした。イトカワという小惑星は地球と火星の間を回っている小さな星です。はやぶさが世界ではじめて小惑星に着陸し、オーストラリアの砂漠地帯の予定された場所にちゃんとカプセルを落としたのはみごとでした。日本人の技術はすごいと思うのですが、私は、それよりも神の創造のみわざのすごさを感じました。イトカワのような小惑星は地球の軌道に近いところにたくさんあって、すこし軌道が狂えば地球に衝突するかもしれないのです。1998年の Deep Impact という映画では、小さな星が地球と衝突することが分かり、それが地球を直撃する前に、それを破壊するためにそこに宇宙船を送り込むという場面がでてきます。しかし、現代の科学では、こうした小惑星が地球に衝突することがあっても、それを破壊したり、軌道をそらせたりすることはできません。人類がこの地球で無事にいられるのは、この大宇宙を造られ、それを支配しておられる神が、人間を愛して、この地球をあらゆるものから守っていてくださるからなのです。神の法則が完璧だからこそ、人間の計算さえ間違わなければ、ロケットを目的の小惑星に着陸させることも出来、またそこから地球に戻すこともできるのです。神の造られた世界を見るとき、神の力をひしひしと感じます。

 地球が太陽からほどよい位置で自転しながら公転していることによって、地上のすべてに光と熱が行き渡り、地球にいのちが育っています。地球はその内部に鉱質を持っていますので、自転により電磁波がおこり、それが太陽から来る有害な宇宙線を防ぎ、いのちを守っているのです。また、地軸が23.4度傾いていることによって、春、夏、秋、冬の季節の変化が起こり、地球は美しく飾られます。それに地球自体が「月」という惑星を持つことにより、海に潮の満ち干が起こり、地球の三分の二を占める海の水が腐らずにすんでいるのです。月は月見をするためだけにあるのではないのですね。神の創造を信じようとしない人々が多くいますが、この世界が偶然の産物であると信じるほうが、じつはもっと信じ難いことではないでしょうか。

 神の創造の力は天体ばかりでなく、私たちの肉体によっても知ることができます。私は何年か前にインプラントの手術を受けました。二本いちどにやればディスカウントをあげると言われて、二本いちどにしましたが、ずっと口を開けているのがとても苦痛でした。顎の骨に穴をあけてそこにボルトを埋め込みました。数ヶ月すると、骨が成長し、穴を塞ぎ、ボルトを骨の一部にしてしまいました。このときも、インプラントの技術のすごさとともに、神が造られた人間のからだの不思議さを思いました。人間のからだには他のものが入ってくるとそれをはじき出そうとする働きがあるのに、骨だけはそれを取り込み、馴染み、自分の一部にしてしまうという性質があるのです。医学といえども、神が人間のからだに与えた性質を利用しているだけであり、ほんとうに偉大なのは創造者である神なのだということがよくわかります。

 最近「エコロジー」ということが盛んに言われるようになりました。エコロジーというのはもともとは「生態学」のことでした。生態学によるとこの自然には不要なものは何一つなくそれぞれが絶妙のバランスを保っていることがわかります。植物は二酸化炭素(CO2)を材料にして、酸素(O2)と炭水化物を作ります。動物は植物が作りだした酸素(O2)を吸い、二酸化炭素(CO2)を吐き出します。自然界にはこうしたリサイクル活動があって、人間や動物は酸素に不足することがなくいのちが保たれるのです。こうした生態系を壊さないようにという運動がエコロジーと呼ばれるようになり、それは政治の世界にまで影響を及ぼすようになりました。この世界には定められた秩序があって、それに従うなら人類は生存を守ることができるが、それに逆らうなら破滅がやってくるということに人々はやっと気づきはじめたのです。しかし、聖書ではそうしたことはとうの昔から教えられていました。神はこの世界に自然の法則を与え、人間に霊的な法則を与えました。神は、私たちが霊的な法則に従うなら、地の豊かな実りが与えられ、それに背くなら飢饉がやってくると言われました。聖書に神のことばに聞き従うなら「あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。」聞き従わないなら「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごもこね鉢ものろわれる。」(申命記28:1-19)とある通りです。神と人と自然は深いつながりを持っています。人が自然を破壊するなら、当然、自然は人に対して報復します。しかし、そればかりでなく、神と人との関係が正しくなければ、人と自然との関係も壊されてしまいます。本当のエコロジーは、人と自然との関係だけでなく、人と自然を造られた神との関係を正していくことにあるのです。

 イザヤ書40章は26節で「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。」と言っています。イザヤ書は、神を創造の神として描いています。12節から14節まで「だれが」ということばがくりかえされています。これは18節から25節に言われているように、まことの神を偶像の神、この世の君と比べていることばです。まことの神と比べられる者はこの世にはだれもいないのです。イザヤ書40章は国を滅ぼされ、捕虜となってバビロンに連れていかれたイスラエルの人々と、イスラエルのまわりの国々にあてて書かれたものです。古代の人々は、国と国とが戦争をしてある国が別の国に負けたとしたら、それは負けた国の神が勝った国の神より弱かったからだと考えられました。では、イスラエルの神がバビロンの神より弱かったので、イスラエルはバビロンに負けたのでしょうか。決してそうではありません。イスラエルの神はエジプトの神々やバビロンの神々などとは違います。それらは人間のイマジネーションにより、人の手によって作り出された特定の民族や地域の神々にすぎません。しかし、イスラエルの神はこの大宇宙と人間の住む世界を造られたクリエーションの神です。神は「イスラエルの神」と呼ばれていますが、それは神が一民族の神という意味ではありません。神がイスラエルをご自分の民とされたという意味です。神はすべての民族、すべての国の神です。イスラエルがバビロンによって滅ぼされたのは、「イスラエルの神」であるお方がバビロンの神より弱かったからではありません。イスラエルは神のの民であるのにまことの神を捨て、偶像に頼ったため、神がイスラエルを裁くためにバビロンの手に渡されたからなのです。

 聖書が神の創造の記事から始まっているように、神を信じることは、神を天地の創造者と信じることから始まります。日本の著名なキリスト者の多くは、聖書を通して創造の神に出会いました。新島 襄は漢語の聖書で創世記を読んで、宇宙が偶然できたものではなく、神の見えない手によって形作られたことを悟ったと言っています。多くの日本の先輩クリスチャンが創造の神を知って、神への信仰を与えられています。創造の神を信じることは信仰の基礎です。けれども、それは忘れてしまってよい信仰の初歩の段階というのではありません。神を創造の神として信じるのは、信仰の土台であり、この上に神についての真理が立てられていくのです。神が創造の神でなければ、救いの神ではありえないからです。

 「目を高く上げる」というのは信仰の行為です。神は天におられるのですから、私たちは天をあおぐべきです。「信仰」という言葉は漢字で「信じて仰ぐ」と書きますが、神を仰ぎ見る生き方が信仰の歩みです。もちろん、天を見上げるといっても、それは問題を見て見ぬふりをするということでも、自分の真実な姿から目をそらすことではありません。しかし、時として私たちは自分で自分をかわいそうに思う、そういう目でだけで自分を見つめてしまうことがありますので、注意をしなければなりません。そういうのを「自己憐憫」というのですが、そういう目で自分を見ることと、自分の真実な姿をまっすぐに見ることとは違います。自己憐憫で自分を見る人はいつでも自分が被害者でまわりの人々がすべて悪いと思いこんでしまっているので、自分自身の問題に気づかないために問題が解決しないのです。

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 自分から目を離して神を見上げるのに、神が造られた自然に親しむのは良いことです。自然は神の存在、知恵と力を証ししているからです。もちろん、聖書は自然を通してだけでは知りえないことを教えてくれ、より明瞭に神と神のみこころを教えてくれます。しかし、だからといって自然からの語りかけがいらなくなったわけではありません。神は聖書で示した真理を自然を通してより具体的に示してくださるのです。たとえば神がアブラハムに「あなたの子孫を空の星のように増やす。」と言われたとき、神は実際にアブラハムを夜中に目覚めさせ、満天に散らばり輝く星を見せておられます。イエスも「空の鳥を見よ。野の花を見よ。」と教えました。

 毎日フリーウェーを車で行き来し、オフィスや工場、実験室で働くだけの生活だけでなく、自然の中をゆっくりと歩いてみませんか。鳥のさえずりに神への賛美を、木の葉の一枚一枚に創造の確かさを、みごとな花の美しさに神の恵みを感じることができます。何年か前のことですが、あるリトリートに参加した時、私は山道をひとりで散歩に出かけました。その時、せせらぎで泳いでいるアメンボウを見つめながら、神の存在を強く感じたことがあります。神が存在される。だから私も存在しているということが、私の心に写真のように刷り込まれたのです。そして、神が存在しておられるというだけでなく、神が私とともにいてくださるという「臨在」の恵みへと導かれました。皆さんも、こうした修養会の機会に目を高く上げてみませんか。すでに神のことばを知っている皆さんですから、神の創造のみわざに目をとめるならより神を見出すことができるはずです。この世界を造り、導いておられる神が、私を救ってくださる、私とともにおられる、私の神であるということを知るのは大きな感動です。

 二、救いの神

 イザヤ書40章は、この天地を造られた神が、イスラエルを救うと宣言しています。それは、イザヤ書40章のはじめの「慰めよ。慰めよ。」ということばに表れています。「慰め」、とても響きの良いことばです。誰しも「慰め」を求めています。ストレスの多い社会で、男性たちが仕事帰りに一杯呑んで帰るのも、その店のおかみさんなり、おやじさんなりから慰めのことばを聞きたいためなのでしょう。それが解決にならないことが分かっていても人は辛い時、苦しい時は気を紛らわせる場所が欲しいのです。たとてお世辞でも人の優しいことばや耳を傾けてくれる人を求めています。教会と呑み屋と一緒にすることはできませんが、クリスチャンが教会に来るのも、誰かから同情してもらいたい、慰めてもらいたいという場合が多いと思います。落ち込んだときには、慰めを求めるのですが、それが得られないと余計に落ち込んでしまうということがあります。だったら、慰めなど求めないほうがいいのだと、自分に言い聞かせ、強がって生きていこうとすることがあるかもしれません。しかし、それで自分を納得させることは誰にもできません。強がっている人ほど、どこかでポキンと折れてしまうものです。もし、どんな慰めを受けることも拒み続けるなら、その人は人の心を失ってしまうことでしょう。自分も慰められ、他の人にも慰めを与えながら生きるところに人としての本当の生き方があるのです。

 しかし、ほんとうの慰めはどこにあるのでしょうか。イザヤ書が「慰めよ。慰めよ。」と言っているのは、バビロンに捕囚になったイスラエルの人々に対してです。彼らは国を失い他国に捕虜となって連れていかれました。しかも、イスラエルの人々がそのような目に遇ったのは、神の民でありながら、神を捨て、偶像に走った結果でした。神とイスラエルの間に立てられた契約は「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」という契約でした。契約というものは、どれも相互のものです。一方が条件を守っても、他方がそれを破れば、契約は解消されます。イスラエルが神の民でなくなったということは、神がイスラエルの神でなくなったということを意味します。イスラエルはその罪によって「神無きもの」となったのです。ここに罪の深さがあります。罪の闇があります。人間の慰めはこの罪の闇を解決することはできません。人間の慰めはそれがどんなに真実なものであったとしても、そこには限界があります。それができるのは神からの慰めだけです。

 神の民が神を捨てて神の民で無くなる。これ以上の罪はありません。神もまたイスラエルの神でなくなり、イスラエルは裁かれて終わるはずでした。しかし、神は、イスラエルが破った契約を、その大きな愛とあわれみによって修復してくださったのです。神はしばらくの間イスラエルを捨てましたが、再び拾い上げて、囚われていったバビロンから再び約束の地に連れ戻してくださるのです。ですからイザヤ書は「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」と言い、「あなたがたの神は仰せられる。」と言うのです。神はイスラエルをもういちど「わたしの民」と呼び、ご自分を「あなたがたの神」と言ってくださるのです。神は「あなたはわたしの民、わたしはあなたの民」という契約をもう一度新しくしてくださったのです。「慰めよ。慰めよ。」と重ねて語られているのは神の情熱的な愛を示しています。

 「あなたは私の民、わたしはあなたの神」という関係は、神とイスラエルだけの関係ではありません。イスラエルと縁もゆかりもなかった私たちにもまた、神は「あなたはわたしの民、わたしはあなたの神」と宣言してくださるのです。イザヤ書は、すべての人がその罪を贖われて、神の慰めを受けると預言しています。3節から11節は、バプテスマのヨハネのこと、イエス・キリストとその福音の宣教の預言として新約聖書に引用されている箇所です。イエスは人を罪から救うお方としておいでになりました。イエスは人を心理学的に心地よくする方法を説く知恵者として、あるいは、差別を撤廃し、社会正義を確立するための運動家として世においでになったのではありません。バプテスマのヨハネがいみじくも言ったように「神の子羊」として、人間の罪のための犠牲としておいでになりました。確かに福音がもたらす結果として私たちの心が解放され、差別が除かれ、社会に秩序が回復していくということがあるでしょう。しかし、それは救いがもたらす恵みのひとつではあっても、救いそのものではありません。キリストの贖いのメッセージ、罪のゆるしの福音の他にどんな救いも慰めもありません。天地を創造された神が、罪のゆるしの恵みによって私の神となってくださる、きよめの恵みによって私が神の民として生きていくことができる、これこそが、この世が決して与えることのできない、本物の慰めなのです。

 ハイデルベルク信仰問答はこの慰めについて、こう言っています。問い「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守って下さいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることができるように、して下さるのであります。」

 困ったとき誰かから助けてもらう、いやな目にあったとき優しくしてもらう、疲れたときに力づけてもらう、どれも、私たちに必要な「慰め」です。そうしたものが私たちにいらないわけではありません。しかし、そうした「慰め」は、罪を持ち、神を持たなくなっているもの人を十分に慰めることはできません。人のたましいの深い求めを満たすことはできないのです。皆さんは、人間的な慰めを求めていたときは、それによっては満たされることがなく、いつもフラストレーションを感じていたということがありませんでしたか。どんな人間の慰めによってもいやされることがなかったものが、神のもとで、イエス・キリストの側で、はじめて深い慰めを得たのではなかったでしょうか。神が私の罪をゆるし、私を神の民として受け入れてくださる。神が私の神となり、私とともにいてくださる。これこそがあらゆる慰めのみなもとです。罪に苦しみ、神のおられない暗闇に恐れおののく人間にとって「その労苦は終わり、その咎は償われた。」ということばほど、大きな慰めのことばはありません。神は天地を創造された偉大な神ですが、同時に「慰めの神」です。創造の神と慰めの神とは一見結びつかないように思えるかもしれませんが、そうではありません。もし神が天地を創造された力ある神でなければ、神は問題をかかえて浮き沈みしている者、生きる気力を失っている者を助けることができません。28、29節にあるように、神は力あるお方だからこそ、私たちに、この深い慰めを与えることができるのです。

 31節は、この神の慰めに生きる人々の姿を描いています。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」ということばで言い表されています。最近日本ではよく「元気をもらう」ということばが使われるようです。ステージで歌ったり踊ったりしゃべったりするエンターテナーが、観客に向かってリップサービスで「みなさんから元気をもらいました」などというのだそうです。たしかに、大勢人が集まり、賑やかにしているところでは気分も高揚します。しかし、それも過ぎてしまえばなくなってしまうものです。聖書が教えているのは、人間の元気ではありません。全世界、全宇宙を造られた神が、私たちを新しい力で満たすのです。イザヤ書は鷲をその例としてあげています。鷲は、羽が古くなると抜け落ち、新しい羽に生えかわります。ですから、いつも若々しく見えるのです。また鷲はどんな鳥よりも高く飛ぶことができます。創造の神、救いの神を信じる者はわしのよに高く、力強く、生き生きとした歩みをすることができます。

 ここに「主を待ち望む」とありますが、これも神への信仰の表すことばです。「待つ」ということは現代の生活でしなくなったことのひとつです。母親がこどもに対していちばん多く使うことばは「早くしなさい」です。現代の社会は早いテンポで動いています。しかし、表面が動いているだけで、何も変わっていません。鼠の競争のようにちいさな世界で競いあっているだけです。ある人が言いました。「ラットレースに勝っても、鼠は鼠のままだ。」耳の痛いことばです。鼠ではなく、鷲になりましょう。鷲は決してじたばたしません。風が動くまで待ちます。そして気流に乗って天高く飛びかけるのです。私たちも、神が働かれるときを、聖霊が動かれるときを待ちましょう。もちろん、主を待つことは、バスが来るのをぼんやりと待つこととは違います。熱意をもって、期待をもって、希望をもってするのです。そのようにして天地の創造主を私の救いの神としていきましょう。神の慰めの中に、天に向かって歩み続けましょう。

7/2/2010