6:1 さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。
6:2 主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。
6:3 私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。
一、第一次大覚醒
アメリカの歴史には “Great Awakening”(大覚醒)という時代があります。「大覚醒」はリバイバルとも呼ばれます。これは、アメリカがまだイギリスの植民地だったとき、1739年、イギリスからやってきた若い説教者ジョージ・ホウィットフィールドの野外伝道によって始まりました。
ホウィットフィールドは、2歳のとき父を亡くし、15歳で学校を辞め、母がやっていた旅館の手伝いをしていましたが、オックスフォード大学に特別給費生として入学を許されました。「特別給費生」などというと聞こえはいいのですが、実際は授業料を免除してもらう代わりに、金持ちの子弟の召使いとして働かされました。彼は子どものころ、あまり良い子ではなく、教会にも行かなかったのですが、大学に入ってから、ジョン・ウェスレーやチャールズ・ウェスレーと親しくなり、イエス・キリストの恵みを体験し、信仰による救いを確信するようになりました。彼は、聖職者になれる年齢に達していませんでしたが、特別に22歳で聖職者としての任命を受けました。1736年のことでした。
ホウィットフィールドは、その翌年、1737年にアメリカに渡り、途中イギリスと行き来することもありましたが、1740年、ニューヨークからチャールストンまで、馬に乗って伝道旅行をしました。この伝道旅行によって、ホウィットフィールドは、北アメリカで一番長い旅行をしたはじめての白人となりました。ホウィットフィールドはまれに見る雄弁家であり、よく透る声を持っていました。当時多くの人々は、“Christian In Name Only”(名前だけのクリスチャン)でした。キリストの恵みを知らず、聖霊による生まれ変わりを体験しておらず、明確な信仰を持っていませんでした。ホウィットフィールドは聖書を説き、自らと人々の回心の体験を語り、人々を信仰に招きました。どの町でも大勢の人々が涙ながらに罪を悔い改め、キリストへの信仰を告白しました。一つの町で語られた説教はすぐに印刷され、次の町に伝えられ、人々はホウィットフィールドが説教する場所に馬を走らせて向かいました。その場所はホウィットフィールドが到着する何時間も前から、馬が立てる砂埃で暗くなるほどだったといわれています。
ホウィットフィールドは、大衆にとって、当時の「スター」でしたが、彼ひとりでリバイバルが起こり、続いたわけではありません。神は、ホウィットフィールドよりも11歳年上の牧師で、後に「アメリカ最初の神学者」として尊敬されるようになるジョナサン・エドワーズを立ててくださいました。エドワーズはリバイバルのメッセージに学問的な根拠を与えました。彼は静かに聖書を説きましたが、悔い改め、信仰を回復する人々が起こされました。ただ残念なことは、エドワーズが1758年、プリンストン大学の学長になってすぐ、病気のため54歳で亡くなったことです。
ホウィットフィールドとエドワーズに導かれた大覚醒運動は、アメリカの教会を、本国イギリスの教会以上に生き生きとしたものにしました。また、当時ばらばらだった植民地に一体感を与えました。なによりも、内面の信仰が大切にされることになりました。やがて憲法に書き加えられることになる「信教の自由」、「言論の自由」、「集会の自由」の基礎がこのときできたのです。
二、第二次大覚醒
1740年の第一次大覚醒のあと、1776年、イギリスの13の植民地は「独立宣言」を採択しました。アメリカは、長い独立戦争を戦い抜き、1783年のパリ講和条約によって、国家として認められるようになりました。アメリカの独立戦争はひとつの「革命」でしたが、フランス革命のような暴力や混乱はなく、イギリス国王に忠誠を誓う人たちは独立後のアメリカを安全に平和的に去り本国に帰ることができました。この秩序ある「革命」は、アメリカの社会に信仰が生きていたためと思います。
1787年、憲法が定められ、1789年、ジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれ、アメリカは国家として機能しはじめ、領土も広がりました。農業、生産業、通商が盛んになり、他の国々と肩を並べるまでになりました。1800年代、19世紀は産業革命、ダーウィンの進化論、理性主義、合理主義の時代でした。聖書の本来の教えが否定され、理性に合わないところはすべて合理的に解釈されるようになりました。アメリカが経済的に豊かになるにつれ、人々は信仰から離れ、物質主義に向かいました。そんなとき、第二の「大覚醒」が起こりました。
「第二次大覚醒」を代表する人物は、チャールズ・フィニーです。彼は家が貧しかったため大学に行くことができませんでしたが、ニューヨークの法律事務所で働き、1920年、28歳で弁護士資格を得ました。彼が法律を勉強した教科書の著者がクリスチャンで、そこに引用されていた聖書の言葉に触れ、フィニーは聖書を学ぶようになりました。1921年10月10日、彼は、エレミヤ29:12-14を読みました。そにはこう書かれています。「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される──主のことば──。」この言葉のとおりに祈ったとき、彼は神を見出し、回心を体験しました。フィニーはそのときのことを「愛の波のようなものが体と魂を突き抜けていく聖霊の強い印象を感じた」と言っています。それから3年後、1824年、32歳で長老教会の牧師になり、1835年にオハイオのオベリン大学に移るまで、ニューヨークで多くの人々に伝道しました。
このころ、人々は西部へと移住していましたが、そうした人々に福音を届けるため、メソジスト教会の監督フランシス・アズベリーは45年もの間、開拓地を訪ねて巡回伝道をしました。開拓地に点在する人たちが、数日間にわたって行われる野外集会に出席するためには遠くから来て、そこに宿泊しなければなりませんでしたが、数千人、ときには1万以上の人々が集まる集会は、開拓民の孤独を癒やし、信仰を励ますものとなり、そうしたところでもリバイバルが起こりました。こうしたリバイバルによってアメリカは物質主義、世俗主義から守られ、建国の父たちが目指した社会を作り上げていったのです。
三、その後のリバイバル
歴史家は、アメリカ建国前の「第一次大覚醒」と建国後の「第二次大覚醒」のことしか語りませんが、その後もリバイバルは続いています。
D. L. ムーディーは、靴のセールスをしていましたが、1855年、信仰を得てから、シカゴのスラム街で日曜学校を開いて伝道を始めました。1860年に南北戦争が始まると傷病兵の慰問活動などを行いました。彼は正式な神学教育を受けてはいませんでしたが、貧困階級や労働者のための礼拝を始め、その牧師として働きました。歌手のサンキーと出会い、二人で、アメリカ各地で伝道集会を開き、リバイバルを導きました。ムーディのリバイバルは「第三次大覚醒」と呼ばれることもあります。1872年、後にウェストミンスター・チャペルの牧師となったキャンベル・モルガンと一緒にムーディは英国伝道をしました。英国の大学で説教したとき、エリート学生たちから、「英語の文法が間違っている」などとからわれましたが、ムーディの説教によって多くの人たちが信仰に目覚め、イギリスでもリバイバルが起こりました。
ムーディーの後、ビリー・サンデーが現れました。彼は孤児院で育ちましたが、子どものころから運動が得意で、やがてナショナル・リーグの野球選手となりました。信仰を持ってから選手を引退し、1893年に当時影響力のあった伝道者のウィルバー・チャップマンの助手となり、1903年に長老教会の牧師となりました。彼はアメリカの大都市で伝道集会を開きました。彼自身が裕福であったので、富裕層や政治家たちとも関わりを持ちました。
第二次大戦後、神はもう一人のビリーを生んでくださいました。ビリー・グラハムです。彼は、歴史上、最も多くの人々に福音を語った人です。1950年、ビリー・グラハム伝道協会を設立し、2001年に伝道協会の総裁を長男のフランクリンに引き継ぐまでの50年間、世界各国で説教しました。そこには中国もロシアも含まれています。その伝道集会で信仰の決心をした人は数百万にのぼるとされており、歴代の大統領の霊的なアドバイザーでもありました。皆さんの中にはビリー・グラハムの伝道集会に参加したり、テレビで観た人がありますか。「いさおなきわれを」の賛美のうちに、信仰の決心をした人たちが、スタジアムのあちらこちらからステージの前に集まる光景はいつ観ても感動を覚えます。ビリー・グラハムを通じてのリバイバルを「第四次大覚醒」とする人もあります。
2018年、ビリー・グラハムが、100歳の長寿を全うして亡くなった後、それまで、アメリカで成長してきた福音的な教会は、世俗主義や、無神論教育、ジェンダーの混乱などに直面しました。コロナ禍で長い間シャットダウンを命じられ、そのときから弱まり、いまだに立ち直れないでいる教会も多くあります。クリスチャンが自分の信仰を感謝と喜びをもって言い表せない窮屈な社会になってしまいました。しかし、落胆してはなりません。神は私たちに約束しておられます。「…主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださる…主は…私たちを生き返らせ、…立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。…主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」(ホセア6:1-3)
ホセア書に「後の雨」といわれているのは、イスラエルで春に降る雨のことです。イスラエルでは4月から10月までは乾季で、ほとんど雨が降りません。10月の終わりごろから激しい雨が降り、乾季の間硬くなった地を柔らかくしてくれます。そに穀物の種を蒔くのです。この雨を「秋の雨」、または「先の雨」と呼びます。12月から2月にかけて雨が間欠的に降り、穀物を育てます。冬が過ぎ春の収穫時期が近づくとき、もう一度激しい雨が降ります。この雨によって豊かな収穫が約束されるのです。
福音の種は、先の雨と共にすでに蒔かれています。先の雨、秋の雨を降らせてくださった神は、もう一度「春の雨」、「後の雨」を降らせてくださり、福音を聞いた人々がそれを信じ、救われて、良いわざに励むという福音の実り、収穫を与えてくださいます。
現代、こんなに科学技術が発達していても、天候ばかりは人間の力でコントロールできません。雨が降り、この暑さが和らぐまで、何もできないのです。しかし、霊的な雨を受けるためには、私たちにもできることがあるのです。それは、ホセア6:1に「さあ、主に立ち返ろう」とあるように、神に立ち返ることです。神は私たちを癒やし、活かしてくださいます。そして、6:3に「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」とあるように、神を求めることです。フィニーは、「あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される」との御言葉を信じて祈り求め、その言葉の通り、神を見出しました。私たちも「主を知ることを切に追い求める」なら、神は私たちに後の雨のように現れてくださるのです。
多くの人たちが福音を信じ、神に仕え、社会が変えられていくリバイバルの時が来ることを信じて、祈り、求めています。私たちもその祈りに加わりましょう。
(祈り)
恵み深い主よ、あなたはアメリカを愛し、ここに福音の種を蒔き、先住民にも、アフリカ系の人々にも伝道がなされました。また、その後のさまざまな国からの移民たちも信仰に導かれ、皆が一つの信仰に結ばれて社会を築きあげてきました。今、そうした信仰の基礎が攻撃を受けています。あなたが、それぞれの時代に恵みの雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださったように、今、この時にも「後の雨」を降らせ、豊かな福音の収穫を与えてください。この地をあわれみ、リバイバルの雨を注いでください。主イエスのお名前で祈ります。
8/6/2023