主を知ることを求めよう

ホセア6:1-3

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6:1 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
6:2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。
6:3 わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される。」

 わたしたちは年間聖句を決めて、その年の目標としています。昨年はルカ11:1「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください」でした。今年の聖句はホセア6:3「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」です。

 わたしたちは、新しい聖句を選びましたが、それは、去年の聖句を忘れてしまっていいということではありません。「祈ることを教えてください」との願いは、生涯をかけて求めていくことですから、昨年の聖句もしっかり覚え続けましょう。今年の聖句は、昨年の聖句と入れ替えるのでなく、昨年の聖句の上に積み重ねていきましょう。一階の上に二階を築き上げるようにです。毎年、一階を建ててはまた壊してやり直すというのでなく、昨年の神の恵み、わたしたちが目指したことを忘れずに、その上に、今年の恵みを、目標を積み重ねていきたいと思います。そのようにして、個人としても、教会としても成長していきたいと思います。

 一、神を求めない社会

 今朝の箇所は、かぎかっこの中に入っています。このかぎかっこは、引用された言葉を表わしています。これは神殿で祭司が祈る言葉で、イスラエルの人々が良く知っていた言葉でした。預言者ホセアは、その祈りの言葉を引用して、イスラエルの人々に「主を知ることをせつに求める」ようにと訴えているのです。なぜ、そう訴える必要があったのでしょうか。人々が「主を知ること」よりも別のものを求めていたからです。

 ソロモン王ののち、イスラエルは南北に分かれました。紀元前930年のことです。ホセアは、北王国の預言者で、ホセア1:1によると、「ヨアシュの子ヤロブアムの時代」の人であることが分かります。「ヨアシュの子ヤロブアム」というのは、歴史家たちがヤロブアム二世と呼んでいる王で、紀元前786年から745年、北王国を治めました。ヤロブアム二世の時代、北王国は領土を拡大し、経済的に栄え、貿易が盛んに行われていました。北王国の首都サマリヤの発掘が行われたとき、ヤロブアム二世の時代に作られた壮麗な建物の一部や、象牙などの高価な輸入品が数多く見つかっています。

 しかし、その繁栄の陰で、道徳が乱れ、社会に不正がはびこりました。富める者が富を独り占めし、貧しい人はさらに貧しくなるという「格差社会」が生まれました。国は、もっと多くの領土を得ようと、まわりの国々に戦争をしかけました。そして、なによりも、人々は神を求めなくなりました。

 人が悪いことをしたり、互いに争ったりするのは、貧しさのゆえであり、国が経済的に発展し、人々が豊かになれば、世の中は平和になり、人々は幸せになると言われます。それは、ある程度は当たっているかもしれませんが、かならずしも、正しいわけではありません。国も、人も、豊かになったらなったで、もっと多くの領土、資源、富を手に入れようと、他と争うようになります。人々が「富」を追い求め、「神」を忘れるとき、道徳は乱れ、社会から正義や公平が失われていき、世界は混乱します。今、わたしたちは、神を忘れた社会、神を求めない世界の姿を目の当たりにしています。

 二、神を求めない時代

 預言者の役割り、それは人々が見失っているものを示すことです。預言者ホセアも、人々が見失っていたものを指摘しました。人々が見失っていたもの、それは、ひととことで言えば、「主を知ること」でした。ホセア6:6に「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」とあります。人々は家畜を神に捧げて礼拝をしていました。牧畜をなりわいとするイスラエルの国では、家畜は貴重な財産でした。子牛一頭、小羊一匹だけでもとても高価なものでした。日本で子牛や子羊を買おうとすれば、一頭で数十万円はするそうです。古代のイスラエルで子牛や子羊を育てるのには、大変な手間がかかったことでしょうから、それはとても価値あるものでした。人々はそれを神に捧げました。それなのに、その心には神への誠実も、神を求める思いもありませんでした。神が人にこうした捧げものを求められたのは、神への感謝や悔い改め、また献身を表わすためでした。ところが、人々はただ形式的にそれを守るだけで、その意味を考えたり、それを定めてくださった神のみこころを知ろうとはしませんでした。まして、自分を顧みて、悔い改めることもなかったのです。商売人たちは、いちおうは安息日を守っていました。しかし、安息日を守りながら、「早く安息日が終わればいいのに。そうしたら、また不正なことをして、ひと儲けしてやろう」などと心の中で考えていたのです(アモス8:5-6)。

 わたしは、このクリスマスに、こうした聖書の時代の人々のことを考えながら、現代のわたしたちはどうだろうかと思いました。人々はクリスマスを盛大に祝います。クリスマス・キャロルがショッピング・モールにも流れています。しかし、どれだけの人が、クリスチャンと呼ばれる人でも、「クリスマス」を CHRIST-mas(キリストへの礼拝)として守っているだろうか、クリスマス・キャロルが歌うように、キリストを心に迎え入れているだろうか、「行きて、拝せよ」と歌うように、飼葉おけのキリストの前にひざまずいているだろうかと思いました。東方の賢者たちが、キリストを求めてはるばる旅してきたように、熱い思いをもってキリストを求める人がどれほどいるでしょうか。クリスマスには、キリストの名が人々の口にのぼります。聖書の物語が語られます。「愛・喜び・平安」など、聖書が価値を置くものが覚えられます。それはうれしいことです。しかし、もし、クリスマスが飲んで、食べて、歌って、踊って楽しむだけのものだとしたら、とても悲しく思います。クリスマスにご自分の御子を送ってくださった神にたいして申し訳けないと思います。クリスマスこそ、神がそのひとり子をお与えになったほどに、わたしたちを愛してくださった、その愛を想うときです。神の御子がわたしたちの心に生まれてくださる日です。

 宗教行事はあっても、そこに心が伴わないのは、預言者ホセアの時代だけでなく、現代も同じです。現代は、クリスマスやイースターでさえ、その心が失われているどころか、形までも崩されてしまっているかもしれません。「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。」ホセアが今の時代にいたなら、きっと、わたしたちにも同じ預言をしたことでしょう。いや、いつの時代にも変わらない聖書の言葉が、今、わたしたちに「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう」と語っています。わたしたちは、この言葉を聞き、見失っていたものを取り戻したいと思います。

 三、神を求めない信仰者

 しかし、聖書が、「主を知れ」と語っているのが、イスラエルの人々に対してだったことを、皆さんは不思議に思いませんか。イスラエルの人々は、他の民族が石や木を削って偶像をつくり、それを神々として拝んでいた時代に、神に選ばれ、唯一の生ける神、「主」を知る者とされていました。イスラエルの人々は、神が世界の創造者であり、それを支え、導いておられる方であることを知っていました。人を憐れみ、罪を赦し、ご自分との親しいまじわりの中に導きいれてくださる、恵み深いお方であることを知っていました。わたしたちの祈りを聞き、信じる者に報いてくださるお方であることも知っていました。しかし、ホセアが預言した時代には、それは、たんなる知識で終わってしまっていたのです。主を人格的に、体験的には知っていなかったのです。本来、主を知っているはずの人々の心に、主はおられなかったのです。

 わたしたちが誰かを「知っている」という場合、その人の経歴などの個人データを持っているからといって、それはその人を「知った」ことにはなりません。毎日、毎週、テレビでその人の顔を見ていても、その人と親しく言葉を交わし、会話するのでなければ、その人に「会った」ことにはなりません。同じように「主を知る」というのも、単に「神について」の知識を蓄えることではないのです。もちろん、知識は要らないというのではありません。知識は多ければ多いほうが良いのですが、「主を知る」というのは、もっと人格的なことです。主がわたしたちを愛しておられる、その愛を受け入れ、それに答えて、主に信頼していくことです。どんなに忠実に儀式を守っていても、主がわたしの人生を導き守ってくださるとの信仰、信頼がそこになかったら、それは単なる形式で終わってしまいます。どんなに高価なものを、数多く捧げたとしても、へりくだって、赦しを求めるのでなければ、神の恵みを味わうことはできません。神の言葉を聞き、それに答えて祈る、御言葉と祈りの中で神と対話するのでなければ、主にお会いしたことにはならないのです。

 名前だけの信仰者は、そうした意味での「主を知る」ことに興味も関心も示しませんでした。しかし、まことの信仰者は、それを求めてやみませんでした。詩篇42:1-2は「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか」と歌っています。日本語の翻訳にある「顔」、それは神のご人格を表わしています。神は、物体でも、エネルギーでも、理論でもありません。「顔」を持ったお方、ご人格です。人はその喜怒哀楽を顔で表わしますが、神もまた、喜怒哀楽をお持ちのお方であり、それを人に伝えてくださるのです。「神の顔を見る」とは、神との生きた人格の関係を持つということです。詩篇27:8にこうあります。「あなたは仰せられました、『わが顔をたずね求めよ』と。あなたにむかって、わたしの心は言います、『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます』と。」このように、主が「求めよ」と言ってくださる神とのまじわりを求めること、それが「主を知ること」を求めることです。

 「主を知ること」は、特別な人だけに許されたことではありません。それは、ふつうの信仰者に手の届かないものでもありません。求める者に必ず与えられます。主が「わたしを求めよ」と言っておられるのですから。ホセア2:19-20で主はこう約束しておられます。「またわたしは永遠にあなたとちぎりを結ぶ。すなわち正義と、公平と、いつくしみと、あわれみとをもってちぎりを結ぶ。わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。」主が結ぶと言われた「ちぎり」とは「結婚の約束」、「婚約」のことです。これは、今、イエス・キリストによって成就しています。イエス・キリストを信じる者はキリストの花嫁となります。キリストを見知らぬ人としてでなく、愛するお方として知るのです。いつまでも躊躇せず、今、主の愛に答えましょう。そこから「主を知る」ことがはじまるのです

 この年、「主を知ること」を求めましょう。礼拝でだけでなく、その後のまじわりにおいても、どんな奉仕の活動においても、すべての集会で、「主を知ること」を第一の目的としましょう。この目的を忘れると、教会の集まりが、集まりそのものを楽しむだけのものになり、活動が活動のための活動で終わってしまいます。そうならないように、いつも、「わたしたちは主を知ろう。せつに主を知ることを求めよう」との御言葉を覚えていましょう。個人で聖書を読み、祈る時も「主を知ること」をせつに求めて、そのことに励みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、年のはじめに、わたしたちに御言葉を与えてくださり、ありがとうございました。ひとりひとりが、このみことばを実行できますよう助けてください。「主を知ること」において、互いに励まし合うことができるようにしてください。そして、あなたを知りたいと求めている人々と、主を知ることの喜びを分かちあうことができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/3/2016