2:16 その日、──主の御告げ。──あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。
2:17 わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。
2:18 その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結び、弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。
2:19 わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。
一、神の契約
聖書には「契約」という概念があります。「契約」と聞くと、私たちは保険などの証書の裏に細かい字で書かかれている文章を思い起こし、うんざりするかもしれません。アメリカではどこに行っても、何枚もの書類を渡されて、ここにサインしろと言われます。ほとんどの場合、よく読まないで、言われるままにサインすることが多いと思いますが、そうした書類もまた「契約」の一種で、サインした以上、あとで文句を言えないようになっています。
契約書の多くはそれを作った側が自分たちを守るために作成されることが多いように思います。保険の契約にしても、様々な例外の事項が長々と書いてあって、いざという時、補償してもらえないこともあります。また、雇用契約でも、給与や恩典についての取り決めの後、「この契約は雇い主の側で一方的に破棄できる」などと書かれていて、出勤したとたんに「あなたはレイオフされました」と言われることもあるのです。
しかし、神の契約は違います。神は、ご自分を守るために契約を作られたのではありません。むしろ、私たちが神に要求することができるため、またその権利を保証するために契約を作られたのです。神は主権者ですから、人間に命令を与えることはあっても、約束を与える必要はないのです。私たちは、神が命じられたことを行って当然で、私たちには、どんな報いも神に要求する権利はないのです。しかし、神は人間を愛し、人間を奴隷としてではなく、ご自分の子どもとして扱ってくださり、神に従う者に報いと祝福を約束してくださいました。そして、その約束の言葉を聖書という書類に作成し、イエス・キリストの十字架の血でサインをし、福音のメッセージを通しておおやけに宣言しておられるのです。神の言葉は、それ自体、変わらない、力あるものなのですが、神は契約によって、それをさらに確実なものとされました。もし神が信じて従う者に報いや祝福を与えなかったら、その契約をたてにとって、神を訴えてもよいとさえ言っておられるのです。
そのことは神とアブラハムとの契約に表れています。神はアブラハムを選び、彼を祝福し、神の民の先祖とすると約束されました。アブラハムとの契約はその子イサクに、そしてイサクの子ヤコブへと引き継がれました。このヤコブには双子の兄弟エサウがいました。ほんらいはエサウがイサクから長子の特権とともにこの契約を受け継ぐはずだったのですが、彼は霊的なことがらに無頓着で、結局は長子の特権と祝福をヤコブに奪われてしまいました。長子の特権を奪ったヤコブはエサウの怒りを避け、叔父のところ、遠い外国に逃れました。叔父の家でヤコブは結婚し、数多くの子どもと財産を得ました。この事は創世記27〜30章に書かれています。
年月が過ぎて、ヤコブは故郷に帰ることになるのですが、エサウが四百人を引き連れてヤコブを迎えようとしているということを聞きました。ヤコブは家族やしもべたち、また家畜の群れを先に行かせた後ひとり留まっていました。ヤコブにはエサウに対する後ろめたさがあり、また彼への恐れもありました。それで、ヤコブは神の助けを願い求めて、ひとり、必死になって祈りました。その祈りは神との格闘のような祈りだったのでずが、ヤコブはそのとき実際の格闘も体験しました。誰もいないはずのところにひとりの人がやってきて、その人は暗闇の中でヤコブと格闘を始めました。その人は「わたしを去らせよ。夜が明けるから」と言いましたが、ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」としつこく迫りました。「その人」とは、人の姿で現れた主ご自身でした。ヤコブは神と格闘し、神に祝福を求めたのでした。その祝福とは、神がアブラハムに約束された祝福のことです。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」とは、ヤコブが自分ひとりの安全を願った言葉ではなく、アブラハムからイサクに、そして今、彼が引き継いでいる契約に基づく祝福を願い求めたものでした。ヤコブは契約に基づいて神に訴え、神もまた、その契約に従ってヤコブに報いてくださいました。神はエサウの怒りを解き、ヤコブはエサウに温かく迎え入れられたのです(創世記32〜33章)。
この後、ヤコブの子孫イスラエルが苦しみに遭うたびに、神はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んで、ご自身が、アブラハム、イサク、ヤコブたち、イスラエルの父祖たちと結んだ祝福の契約を忠実に守るお方であることを示し続けてくださいました。とくに、神がイスラエルをエジプトから救い出されたのは、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚えておられたからだと聖書は言っています。出エジプト2:23〜25にこうあります。「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」
二、愛の契約
神は、エジプトから救い出したイスラエルとの間に「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(レビ26:12)という契約をお立てになりました。ところが、イスラエルはこの契約を踏みにじり、主を捨て、偶像の神々を拝む者となりました。預言者ホセアは、そんなイスラエルに最初の契約に立ち返れと呼びかけたのです。
ホセアの時代、イスラエルでは相変わらずバアル崇拝が盛んでした。「バアル」という言葉には「主」(“Lord”)という意味があって、偶像を「バアル」と呼ぶことは、まことの主である神に逆らうことだったのです。また、「バアル」には「主人」(“Master”)という意味もあり、この言葉は、日本語で「私の夫が…」と言うところを「私の主人が…」と言うように、「夫」を指す言葉でもありました。イスラエルがまことの神を捨て、バアルを「私の夫」と呼ぶのは、イスラエルをご自分の妻のようにして愛してくださった神への裏切りでした。そんなイスラエルは神から見捨てられて当然なのですが、神は不貞の妻イスラエルをなお愛して、彼女がご自分のもとに返ってくるのを待っておられたのです。「神とイスラエルとの契約は、冷たい法律的な契約ではなく、愛の契約である。神はその変わらない愛をもって、なおもイスラエルを愛し、彼女に真実を尽くしておられる。イスラエルが神に立ち返るなら、この愛の契約が再び確かなものになる。」ホセアはそう預言したのです。
「…あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。…」(16、17)というのは、イスラエルがまことの神に立ち返り、愛を込めて神を「わが主」と呼ぶようになることを言っています。「その日、わたしは…弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる」(18)というのは、イスラエルが滅亡から救われることを言っています。「わたしはあなたと…契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。…」(19、20)この言葉は神の契約が、愛の契約であることを物語っています。
ホセアは、神の愛を言葉だけでなく、その実生活を通しても語りました。じつはホセアの妻ゴメルはホセアと三人の子どもを捨てて他の男性のもとに行き、ホセアを裏切ったのです。ところがゴメルはその男性からも捨てられ、奴隷に売られてしまいました。ホセアは代価を払ってゴメルを買い戻し、ふたたび妻として迎えました。ホセアは、自分の身に起こった不幸な出来事を通してでしたが、イスラエルの回復を願ってやまない神の愛を深く理解し、神からの言葉を語り伝えたのです。
ホセアの預言は、新約の時代に、イエス・キリストによって成就しました。キリストは「花嫁」である教会、つまり、キリストを信じる者たちの「花婿」となってくださいました。けれども、キリストを信じる者たちは、キリストの花嫁となるのにふさわしかったので選ばれたのではありません。信仰者もまた、イエス・キリストのもとに来るまでは、まことの神に背を向け、その愛を踏みにじっていました。そして、罪の奴隷となっていました。そんな私たちをキリストはご自分の命という代価で買い取って「神の民」とし、ご自分と私たちの間に愛の契約を立てくださったのです。キリストの愛は、この契約によって揺るがないものとなりました。「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)のです。
三、恵みの契約
聖書は、この神の契約の書物です。聖書は「旧約」と「新約」に分かれていますが、「旧約」「新約」の「約」は「契約」の「約」です。この「約」には英語では “Testament”という言葉が使われます。これはヘブル9:16-17で「遺言」と訳されています。そこには「遺言は、人が死んだとき初めて有効になる」と書かれていますが、それは、神の救いの契約がイエス・キリストの十字架の死によって成り立っていることを言っています。遺言は、それを作った人が亡くなってはじめて、効力を発します。同じように、イエス・キリストによる救いの契約も、キリストの死によってはじめて私たちのものとなるのです。
他の契約、たとえば、保険であれば、保険料を払っていなければ、何も受け取ることができません。ところが、「遺言」という契約では、遺産を受け取る側には何も求められないのです。ただ受け取るだけでいいのです。私たちの救いにおいても同じです。私たちが救われるためのすべてのことはイエス・キリストが成し遂げてくださっています。私たちがすることは、キリストの救いの遺産を信仰によって受け取るだけなのです。イエス・キリストによる救いの契約は、まさに「恵みの契約」です。
皆さんの親戚に大富豪がいたとして、その人が亡くなり、遺言によって皆さんにに大きな遺産が分配されるという知らせが来たら、皆さんはどうしますか。その知らせを聞いて、「そんなはずはない」と疑いますか。そんなものはいらないと断りますか。あとで受け取りますからといって、ほうっておきますか。いいえ、ほとんどの人は、すぐに手続きを済ませ、それを受け取るでしょう。イエス・キリストの救いも同じではないでしょうか。聖書は、「今は恵みの時、今は救いの日です」(コリント第二6:2)と言って、キリストが遺してくださった恵みの契約を、「今」受け取りなさいと勧めています。
ホセアもまた、同じ時代の人々に神の愛と恵みの契約を今、受け取るようにと呼びかけました。神は言われます。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。」ここに、神の契約について四つの言葉が使われています。「永遠」、「正義と公義」、「恵みとあわれみ」、そして「真実」です。神の契約は、時間が経っても変わらない「永遠の」契約です。それは、その契約にとどまる人々に「正義と公義」をもたらします。それは、神に背いて離れていった人々にさえも差し出されている「恵みとあわれみ」の契約です。神の愛は、人の愛とは違って気まぐれな愛ではありません。神の愛は真実な愛で、「契約の愛」と呼ばれます。神は、ご自分と私たちとの間に契約を立て、それによって、ご自分の愛の真実を確かなものにしてくださいました。何者にも縛られない自由な神が、契約によってご自分を縛るほどに、私たちを愛してくださっているのです。神の契約は「真実」な契約であって、その契約に頼る者は決して裏切られることはないのです。
ホセア2:20は、「このとき、あなたは主を知ろう」という言葉で終わっています。この神との愛の契約に結ばれるとき、私たちは「主を知る」ことができるからです。わたしの神、わたしの父、わたしを愛しておられるお方として、神を知るのです。「主を知ること」、これこそ私たちの霊と魂が求めてやまないものです。神は、遠くから観察して知ることができるようなお方ではありません。私たちが神の愛を受け入れるとき、また、神の愛のもとに立ち返るとき、そこでこそ、私たちは「主を知る」のです。神の愛の契約に結ばれ、真実な主の愛をさらに確信させていただきましょう。
(祈り)
真実な愛で私たちを愛し続けてくださる主なる神さま。私たちをあなたの愛のうちへと導いてください。あなたの確かな愛の契約の中に私たちをとどめてください。あなたに愛され、あなたを愛する中で、さらにあなたを知る者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/6/2019