4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
主イエスは復活して40日の後、天に帰られました。それで、イースターから40日目の木曜日は「キリストの昇天日」と呼ばれ、ドイツやオランダなどでは「国民の祝日」となっているそうです。その他の国々では、昇天日の次の日曜日を「昇天主日」として祝います。キリストの昇天日はイースターの40日の締めくくりの日であり、次週の聖霊降臨日(ペンテコステ)を待ち望むはじまりの日でもあるのですが、アメリカでは教会暦を重んじる教会が少ないのでキリストの昇天日が覚えられることがなく、したがってキリストの昇天の意味を考えることがあまりないのは残念なことです。
キリストは何のために天に帰られたのでしょうか。イエスは今、天で何をしておられるのでしょうか。キリストの昇天は私たちにとってどんな意義があるのでしょうか。へブル4:14-16の一節づつから三つのことを学びましょう。
一、犠牲をささげたイエス
キリストが天に帰られたのは、第一に、祭司としての務めを果たすためでした。14節に「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」とあって、イエスは「大祭司」と呼ばれています。
「イエスはキリスト」というのが聖書の教える信仰ですが、「キリスト」という言葉には三つの意味があります。第一は「預言者」、第二は「祭司」、第三が「王」です。イエスは常に預言者であり、祭司であり、王であるお方ですが、地上におられたときには、おもに預言者としての働きをなさり、人々に、神と神の国のことを教えました。そして、やがて、天から再びおいでになるときには、王として、この世界を治められます。しかし、天に戻り、そこにおられる今は、イエスはおもに祭司として働いておられるのです。
祭司の大切な働きのひとつは犠牲をささげることです。イエスもまた犠牲をささげられました。動物の犠牲ではありません。ご自分をささげられたのです。イエスは十字架の上で人間の罪のためにご自分を犠牲としてささげられ、そこですでに祭司としての務めを果たしておられたのです。
旧約時代には大祭司が年に一度、犠牲の血を神殿の聖所に携えて、罪のきよめをしましたが、イエスはその昇天によって、犠牲の血を天の聖所に運び入れました。ヘブル9:11-12に「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」とある通りです。旧約時代の大祭司がしたことは、やがて天の大祭司がなさろうとしていることをあらかじめ示したものだったのです。イエスは、十字架でささげられたご自分の犠牲が永遠に、人を救うものとなるために、すべての時代の、あらゆる人々に確かな罪のゆるしを与えるために、天に帰られたのです。
キリスト者の信仰はさまざまなチャレンジを受けますが、そのひとつは罪のゆるしの確信が揺るがせられることです。「自分には罪はない。」というのは、神の前に傲慢で間違った態度です。ヨハネの手紙第一1:8が言うように、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにない」のです。しかし、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」(ヨハネ第一1:9)のです。どんな罪でも、真実に悔い改め、告白した罪はゆるされます。けれども、その確信が持てないときがあります。神が自分をゆるしてくださっているのに、自分で自分をゆるすことができないで苦しんでいる人がいます。自分に厳しく生きる真面目な人に多いのですが、そんな人のためにヨハネの手紙第一は続けてこう言っています。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(ヨハネ第一2:1-2)聖書は、私たちに自分の罪から目をそらしてはいけないと教えます。しかし、それは「お前は罪びとだ」と責め続けるためではありません。聖書は、同時に、天の大祭司であるイエスを見上げなさいと教えています。そこには、私たちのどんな罪をもゆるしてあまりある完全な供え物があります。イエスが大祭司としてささげられた犠牲が私たちを罪からきよめる力なのです。
旧約時代の神の民イスラエルは、神とのまじわりを許され、神の祝福を受けるためには罪のゆるしが必要でした。そして、神の民に罪のゆるしをもたらしたのが大祭司でした。現代の私たちも、神に受け入れられ、神の光と恵みの中を歩くためには罪のゆるしが必要です。そして、それをもたらしてくださるのが大祭司であるイエスなのです。
罪のゆるしの確信を失ったときには天を仰ぎましょう。使徒ヨハネは天におられる大祭司と犠牲の子羊を見ました。ヨハネの黙示録一章では、イエスが「足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた」方として描かれています。これは大祭司の装束です。しかも、イエスは金の燭台の真ん中におられます。旧約時代の神殿には、燭台がありましたから、これは大祭司であるイエスが霊的な神殿である教会とともにいてくださることを示しています。ヨハネの黙示録5章に進むと、「ほふられた子羊」が登場しますが、これは、十字架の上でみずから犠牲となられたイエスを描いています。イエスは大祭司であり、同時に犠牲の子羊です。完全な大祭司が完全な犠牲をすでにささげておられるのです。この大祭司によって、この犠牲によって救われないものはないのです。イエスは、この救いが天で確かなものとなり、その救いがすべて信じる人々に及ぶために、天にお帰りになりました。キリストの昇天は私たちに救いの確かさを与えるものなのです。
二、代表者としてイエス
第二にイエスは、全人類を代表するために天に帰られました。祭司には、人間に対して神を代理し、神に対しては人間を代表するという二重の働きがあります。神のことばを教え、人々に罪のゆるしを宣言し、祝福を与えるとき、祭司は神の代理人としてそのことをします。人々の耳に聞こえるのは祭司の声であっても、それは、実際は神のことばであり、祭司の宣言や祝福はそのまま神からの宣言や祝福なのです。神は、ご自分と人々との仲立ちに祭司を立てることによって、ほんらい耳にすることができない神のことばや宣言、また祝福を、人々が聞いて分かり、それを実際に受け取ることができるようにしてくださったのです。これは、しばしば見落とされてはいますが、大切な聖書の真理です。
祭司はまた、人々の代表者として神の前に立ちます。犠牲をささげるときは特にそうです。旧約時代に、大祭司は、自分個人の罪のための犠牲をささげるだけでなく、神の民全体の罪のために、人々に代わって犠牲をささげました。大祭司は、人々に代わって悔い改めの祈りをささげ、罪のゆるしを願ったのです。
イエスも、祭司として、人間に対して神を表わし、神に対して全人類の代表となってくださいました。人間の祭司は、罪や弱さを持っていますから、完全に神を表わすことはできませんが、イエスは神の御子ですから、完全に父なる神を示すことがおできになります。祭司として人々に神を示すのに、御子イエス以上のお方はありません。
しかし、イエスは人間の代表となることができるのでしょうか。罪のないイエスが罪に悩む人間を理解できるのでしょうか。完全なイエスが不完全なわたしたちの代表となることができるのでしょうか。できるのです。ヘブル4:15はこう言っています。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」神の御子は人となられました。神の御子が人となられたというのは、一時的に人間の姿をとったということではありません。ほんとうに人間になられたのです。人間として母マリヤの胎内に宿り、九ヶ月の後生まれ、乳を飲み、ハイハイをし、離乳食を食べ、立って歩けるようになり、「知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(ルカ2:52)のです。神の御子は「ヨセフの子、ナザレのイエス」という名前を持った正真正銘の人間になられました。イエスが生まれたのは、今年のアメリカと同じように、センサス(人口調査)の年でした。「イエス」の名はしっかりとローマ政府の記録に残ったのです。神が人となられた。イエスは神であり、同時に人である。人となられた神である。これは実に、驚くべきことですが、聖書の土台となっている大切な真理です。
神の御子はクリスマスのとき、いや、もっと正確に言えば母マリヤの胎内に宿ったときに人となられました。ではイエスは、復活されたとき、イースターの日に、人であることをやめられたのでしょうか。そうではありません。イエスは人として復活されました。ですから、イエスを信じる者も後に復活するのです。では、昇天なさったときに、人間性を地上に残していかれたのでしょうか。いいえ、使徒の働き(使徒言行録)第一章にあるように、イエスはそのおからだごと天に昇っていかれました。イエスは人間性とともに天に帰っていかれたのです。天におられるキリストも神であり人であるお方です。おそらく、その両手両足にはいまだに十字架の釘跡があり、そのわき腹には槍で突き刺された跡が残っていることでしょう。
イエスが天においても人であられるというのは、私たちにとってなんと力強いことでしょう。アメリカでは各州から二名づつの上院議員がその州の代表者として国会に行きます。また、各地区からもその代表が下院議員として選ばれていきます。もし、カリフォルニアだけ上院議員がいなかったらどうなるでしょうか。自分の地区だけ、下院議員がいなかったらどうでしょうか。自分たちの州や地域を代表する人がいなければ、その利益が大きく損なわれてしまいます。逆に有力な議員を国会に送ることができたら、地域の声を届けることができます。同じように、私たちは、これ以上を望むことができない、最高の代表者を天に持っているのです。
イエスが私たちをほんとうの意味で代表するためには、私たちの苦しみ、痛み、弱さを理解できなければなりませんが、イエスは、それを良くご存知です。イエスは人間が味わう苦しみのすべて、悲しみのすべてを体験されました。聖書は私たちが会う試練でイエスが知らないものはないと言っています(コリント第一10:13)。ですからイエスは、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる」(ヘブル7:25)のです。キリストの昇天によって私たちは天に力強い代弁者を持つことができるようになったのです。
三、助けを与えるイエス
第三に、イエスは天からの助けを人々に与えるために天に帰られました。イエスは天に帰られることによって弟子たちから遠く離れ、弟子たちをおきざりにされたのではありません。天に帰られることによって、もっと弟子たちと近くなられたのです。イエスが地上に、イスラエルの国にずっとおられたままなら、イエスの側近くにいる人はいいかもしれませんが、遠くにいる者たちは、イエスに近づき、イエスの助けを得るためにいつもイスラエル巡礼をしなければならなくなります。しかし、イエスは天に帰られることによって、世界中の天を仰いで祈る人々の誰にも近くいてくださるようになったのです。イエスはその昇天によって、天の扉を開き、私たちを天のご自分の御座にまで引き寄せてくださるのです。16節に「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とある通りです。キリストがおられる父なる神の右の座は、ほんらいは、審判の座です。イエスは栄光の座について、ひとりびとりをさばき、世界をさばかれるべきお方です。しかし、イエスは天に昇り、栄光の座に着かれたとき、そこを「恵みの御座」に変えてくださいました。イエスは王であり主であるお方、ただひとり世界をさばくことのできる審判者であるのに、今は、その立場をお取りにならず、審判者であるよりは、あわれみ深い大祭司となって、人々のためにとりなしていてくださるのです。
聖書は「おりにかなった助けを受けるために」と言っています。このことばは詩篇46:1「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」ということばを思い起こさせます。神は苦しむ者からは遠くはないのです。神はまごころをもって呼び求める者に近いのです。恵みの御座は天にあったとしても、キリストの昇天によって、私たちに近いものとなったのです。私たちは、祈りと信仰によってここに来て、「おりにかなった助け」、「そこにある助け」を受けることができるのです。
また聖書は、「大胆に」と言っています。恵みの御座に近づくのには、ある意味で決心が要ります。自分の問題を神に任せるのは信仰者にとって当然といえば当然のことなのですが、それがなかなかできないときがあります。そんなときは「大胆に」ということばを思い起こしましょう。自分の信仰の足りなさや、至らなさを思うと、主の側に近づくのをためらってしまうことがありますが、そんなときこを、主がおられるのが、まさに「恵みの御座」であり、信仰の足らない、至らない私のためのものなのだということを信じましょう。
やがて時が満ちるとき、イエスはこの恵みの座から立ち上がり、この世をさばくために再びこの世界においでになります。その時が来る前に、今、恵みの御座が開かれている間に、イエスのもとに行こうではありませんか。遅くならない前に、「大胆に」主イエスに近づきましょう。そして、そこでこの世では決して得ることができない天からの確かな平安、希望、力を手にしようではありませんか。キリストはその昇天によって私たちのために天への扉を開いてくださいました。そこからあふれ出るあわれみと恵みとを、真剣な心で、また、謙虚な姿勢で、受け取ろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、キリストの昇天によって、私たちが天に救いの根拠を持ち、代弁者を持ち、そして、恵みの御座を持つことができるようにしてくださいました。イエスによって天は、私たちに近いものになりました。そこは信仰者のふるさとであり、私たちはそこに向かって旅する者たちです。天に向かう、私たちの地上の旅の間も、私たちにキリストの恵みの御座を見つめさせてください。信仰の確信をもって大胆に、そこに近づくものとしてしてください。あわれみ深い大祭司、イエス・キリストのお名前で祈ります。
5/16/2010