12:4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
12:5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
12:7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
12:9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
一、神は父
アメリカでは「建国の父」という場合、独立宣言や憲法に署名した人たちをさし、複数ですが、もし、ひとりだけをあげるとしたら、やはり、ジョージ・ワシントンでしょう。ヨハン・セバスティアン・バッハは「音楽の父」と呼ばれ、ガリレオ・ガリレイは「近代科学の父」と呼ばれています。この人たちは、それ以降の政治や音楽、科学の基礎を築いたからです。こうした人々は、それぞれの分野で「父のような人」でした。
聖書は「神は父である」と教えています。神はすべてのものをお造りになりましたから、ある分野で「父」と呼ばれる人たちよりもはるかに優れた、すべての者の父です。けれども、聖書が神を「父」と呼ぶのは、神が「父のようなお方」だからではありません。神は、正真正銘の「父」であって、イエス・キリストという御子を持っておられます。神は「イエス・キリストの父」です。ですから、わたしたちは、神の御子イエス・キリストを信じてはじめて、ほんとうの意味で神を「父」と呼ぶことができるようになるのです。
神は、おひとりの御子しかお持ちになりませんから、厳密に言うなら、神は「イエス・キリストだけの父」です。しかし、神は、ご自分の御子を信じる者に、神の子どもとなる特権をお与えくださいました。ヨハネ1:12に「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」とある通りです。イエス・キリストの父なる神は、このことによって、イエス・キリストを信じる者の父となってくださったのです。それで、イエスはヨハネ20:17でこう言われました。「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く。」イエスは神を「あなたがたの父」と呼び、神が信じる者の父になってくださったことをはっきりと教えてくださいました。
「イエス・キリストの父」というとき、わたしたちは、それによって神の栄光をたたえることができます。神はイエス・キリストによって栄光をお受けになります。わたしたちも、神が、あの、正しく、清く、愛と力に満ちたイエス・キリストの父であることを知るととき、神がどんなお方かが分かり、より神を敬い、神に信頼するようになります。ところが、神を「わたしたちの父」と呼ぶとき、それによって神の栄光が損なわれるのではないかと、心配になることがあります。なぜなら、わたしたちは「罪びと」であり、聖なる神は「罪びとの父」と呼ばれるべきではないからです。
たとえば、息子や娘が犯罪を犯したら、親はどんなに恥ずかしい思いをすることでしょう。人が犯罪を犯した場合、その人が罰を受ければそれで済むというものではありません。それによって、その人は親の名前を辱め、その心を苦しめ、親に大きな損害を与えるのです。同じように、わたしたちが罪を犯すとき、それは、聖なる神の名を辱め、神のお心を苦しめているのです。神は、聖なる御子の父として栄光をお受けになるべきであり、わざわざ、罪びとであるわたしたちの父になる必要はなかったのです。
しかし、神は、あえて、「罪びと」たちをご自分の子とし、その「父」となってくださいました。さらに、わたしたちに、「われらの父よ」と呼ぶことさえ、許してくださいました。ルカ15章の「放蕩息子」は父親の財産を浪費し、その名誉を傷つけ、何もかも失くして、ボロ布をまとってとぼとぼ帰ってきました。ところが、父親は、彼を抱き寄せ、息子として受け入れました。そのように、神は、ご自分のところに帰ってくる者たちを、イエス・キリストによって赦し、ご自分の息子、娘として受け入れ、喜んで、その「父」となってくださったのです。
第一ヨハネ3:1に「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」とあります。わたしたちが神を「父」と呼ぶことができるのは、決してあたりまえのことではなく、それは恵みです。イエス・キリストの父なる神が、最愛の御子を十字架で死なせることによって、与えられている特権です。「主の祈り」で「天にましますわれらの父よ」と祈るたびに、また、賛美で「父の神よ」と歌うたびに、それを口先ではなく、父なる神の大きな愛を心に深く思いみて、祈り、賛美したいと思います。
ユダヤの人々は、聖書で「ヤハウェ」(YHWH)という神のお名前が出てくるところを「わが主」(アドナイ Adonai)と読み替えて朗読します。そして、「アドナイ」と呼んだあと、しばらくの間沈黙して、このお名前を持っておられるお方がどのようなお方なのか、この神がどんなに神の民を愛されたかを心に想いめぐらすのだと聞いたことがあります。わたしたちも、神を「父よ」と呼ぶとき、聖書が教えるように、父がどんなに大きな愛をくださったかをしっかりと心に刻みたいと思います。
二、父の訓練
イエス・キリストの父なる神は、イエス・キリストを信じる者の「父」となってくださった。信仰者は、神の子どもとして、父なる神から愛されている。これは、わたしたちが堅く信じていることなのですが、神がわたしたちを愛しておられるということは、神が、いつも、わたしたちの願うとうりにしてくださるということではありません。信仰者には神の祝福が約束されていますが、それは、信仰者が、仕事を失ったり、病気になったり、人間関係で苦しんだりしないということではありません。信仰者であっても、思いがけないところから、予期しなかったような困難に出会うことがあるのです。そのために傷ついたり、損失を被ったりすることもあります。また、自分の中にあるまだきよめられていない罪に悩まされることもあります。
初代教会は迫害の時代でしたから、信仰者は、財産を奪われたり、町から追放されたり、投獄されたり、命を奪われないともかぎりませんでした。ですから、初代の信仰者たちは、試練に対して、それなりの覚悟を持っていました。しかし、実際に試練がやってくると、信仰者といえども、戸惑ったり、恐れたり、くじけたり、弱音を吐いたりすることがありました。それで、聖書は、数多くの箇所で試練について語って、信仰者を励ましているのです。
イエスは、弟子たちに、「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)と言って励ましてくださいました。また、イエスは、パウロがコリントで伝道をはじめたとき、「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」(使徒18:9-10)と言って、パウロを激励してくださいました。
パウロは、そのコリントの信徒たちに、こう書き送っています。「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(第一コリント10:13)そうです。試練には「のがれる道」、つまり「出口」があるのです。試練は、洞穴のようなものではありません。それはトンネルのようなもので、かならず出口があります。神はわたしたちを決して試練の中に閉じめるようなことはなさいません。神は言われます。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。」(詩篇50:15)試練の中でも、いや、試練の中でこそ、神を呼び求めましょう。神は試練の向こう側に、栄光に満ちたものを用意してくださっているのです。
2009年、わたしは、長崎に行ったとき、永井 隆博士の記念館を訪ねました。そこに、永井博士が描いた「しっぽも一役」や「どん底に大地あり」という色紙がありました。「しっぽも一役」というのは、「どんなに小さなものにも大切な役割がある」ということを、「どん底に大地あり」というのは、「どんなに落ち込んでも、かならず自分を支えてくれるものがある」ということを語っています。ある人が言いました。「わたしは苦しみの中に投げ込まれました。それは底なし沼のようでした。しかし、どん底まで行ったとき、そこに大きく、固いものを感じました。それは神でした。神さまはまるで大地のように、わたしを支えてくださっていたのです。」「どん底に神の支えがある。」このことを覚えましょう。聖書は言っています。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。」(第二コリント4:8)四方八方が塞がっていても、かならず、天は開いています。そして、そこには、呼び求める者を助けようとして待ち構えておられるイエスがおられるのです。
三、父の愛
今朝の箇所にも、試練の中にある人への、力強い言葉があります。それは5-6節です。「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである。」これは、箴言3:11-12からの引用です。箴言のこの言葉は、父から子への教訓の言葉として書かれたものですが、ヘブル人への手紙では、この言葉が、父なる神から神の子どもたちへの言葉として引用されています。
わたしたちは、「わたしがこんな試練に遇うのは、神に愛されていないからだ」などとと考えてしまうことがあります。しかし、試練に遇わない人は神に愛されており、試練に遇う人は神に愛されていないのでしょうか。いいえ、そうではありません。試練に遇っている人にこそ、神の愛は注がれているのです。もし、わたしたちが罪を犯し、悔い改めないで、悪事を続けているのに、ものごとが思うがままに進むとしたら、それは、神に見放されているしるしです。ローマ1:24、26、28に「神は、彼らがなすままに任せられた」という言葉が繰り返されていますが、それは、最も恐ろしい神の刑罰です。神に見放されるよりも、懲らしめを受けるほうが、はるかに幸いなことなのです。
「主は、愛する者を訓練する。」この言葉は真実です。父の愛も、母の愛も、同じように大きく、深いものですが、あえて違いを言うなら、母の愛が、子どもが今置かれている苦しみや痛みを取り去ろうとするのに対して、父の愛は子どもの将来を考えて、ときには苦しみや痛みを通らせるものだと言ってよいと思います。母の愛はすぐに感じとることができますが、父の愛は、あとにならないと分からないことが多いものです。そのように神の父としての愛も、すぐには感じとることができないことがあるでしょう。しかし、そのようなときでも、神は、その大きな愛で、わたしたちを愛してくださっています。「わたしの子よ」と呼びかけて、その愛を示してくださています。この神の愛にしっかりと目を留めましょう。試練の中でも、いや、試練のときにこそ、愛の神に堅く信頼して歩みましょう。
(祈り)
主イエス・キリストの父なる神さま、あなたは信じる者を神の子どもとし、「わたしたちの父」となってくださいました。その大きな愛をこころから感謝します。祝福の日にも、試練の夜にも、わたしたちを「わが子よ」と呼んで、その愛を示してくださっていることを、しっかりと覚えさせてください。あなたが父であり、わたしたちが子どもであることが、たんに法律上の親子関係でなく、主イエスが持たれたような、あなたとの深い愛の関係へなりますように。主イエスのお名前で祈ります。
6/17/2018