聖徒の交わり

ヘブル12:1-2

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12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです

 一、聖徒の交わりとしての教会

 使徒信条は「聖なる公同の教会」のすぐあとに、「聖徒の交わり」という言葉を続けています。それによって、「教会」とはつまり「聖徒の交わり」なのだと言っているのです。「聖徒の交わり」は、「教会」を言い替えた言葉です。

 コリント第一1:1-2にこうあります。「神のみこころによりキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、いたるところで私たちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された方々へ。主はそのすべての人の主であり、私たちの主です。」ここでは、「コリントにある神の教会」が、「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された人々」と言い替えられています。

 「聖徒」というと、私たちは、使徒ペテロやパウロ、聖アウグスティヌスやアッシジの聖フランシスコなどの「聖人」と呼ばれる、優れた人々を思い浮かべます。自分が「聖徒」などと呼ばれると恥ずかしい気持ちになります。しかし、聖書で使われている「聖徒」というのは、そうした人だけを指してはいません。たとえ罪深い者であっても、その罪を赦され、きよめられた人々も「聖徒」とよばれているのです。コリントの教会には分派の争いや信者同士の訴訟沙汰、不品行や偶像礼拝、聖餐や礼拝の混乱、はては死者の復活の否定などがありました。そんな教会であっても、その信徒が「聖徒」と呼ばれています。コリントの信徒たちは「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召された」のです。私たちが「聖徒」と呼ばれていることの中に、イエス・キリストの大きな恵みを見ることができます。

 したがって、「聖徒の交わり」という言葉は、教会が完全な人々ではなく、不完全な人間の集まりではあっても、神の恵みによって赦され、きよめられながら、完成の時を待ち望んでいることを言い表しているのです。それは、使徒信条で「聖徒の交わり」の後に「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と続くことからも分かります。つまり、「聖徒の交わり」とは、「罪の赦し」に基づき、「身体のよみがえり」を待ち望み、「永遠の生命」に生きる交わりであるということです。このことについは、次回、改めて学ぶことにしましょう。

 教会は「聖徒の交わり」であり、「聖徒の交わり」とは教会のことです。教会の信徒が「聖徒」とは呼ばれていても、まだ聖徒として完全な者ではないように、教会も、「聖なる教会」と呼ばれていても、弱さや欠けをたくさん持っています。それで、教会に理想を求めて来た人が、教会の中にそれとは反対のものを見聞きして教会から去ってしまうことがあります。

 説教で語られていることと、信徒が実践していることがあまりにも違っている。教会に派閥があって、新しい人を自分たちのほうに引き入れようとする。社会的な地位のある人や特技のある人はもてはやされるのに、目立たない人や社会的に弱い立場の人は見向きもされないなど、多くの人はそうしたことに躓きを覚えます。その気持ちはよく分かります。そんな状態でも躓かないとしたら、教会を単なる人間集団としてしか考えていないからでしょう。神が教会を「聖なる教会」と呼び、信徒を「聖徒」と呼んでくださるのは、教会も信徒も聖なるものへと変えられていくことを願っておられるからです。教会が聖なるものを目指し、信徒がきよめられることを求めているなら、たとえ不完全であっても、そこに「聖徒の交わり」があるのです。

 二、聖なるものの分かち合い

 「聖徒の交わり」の「聖徒」と訳される言葉には、「聖なるもの」と訳すこともできます。教会には問題があり間違いもあります。「この世よりも教会のほうがひどいではないか」と思えるようなこともあるでしょう。しかし、それでも、そこが真にキリストの教会であるなら、そこには、この世に無いもの、この世が与えることができないもの、「聖なるもの」が与えられているのです。もし、教会がその「聖なるもの」を捨て去ったら、そこはもう教会ではなくなります。けれども、それを保っているなら、そこには「聖徒の交わり」が息づくのです。

 では、神が教会にお与えになった「聖なるもの」とは何でしょう。「聖」という文字がつくものがいくつもあります。「聖書」がそうです。「聖霊」がそうです。「聖餐」がそうです。礼拝堂は“Sanctuary”(聖所)です。また、「信仰」はユダ1:20で「最も聖なる信仰」と言われているように聖なるものです。そして、「聖霊」が与えてくださる「賜物」も聖なるものです。教会はイエス・キリストの「聖なる御名」を持っています。キリストが聖霊によって私たちと共にいてくださることは「聖臨在」と呼ばれます。

 天の御国のすべては聖なるものであって、教会は、その「聖なるもの」が分かち合われる場なのです。人々が教会に来るのは、この世では得られないものを得るためです。ですから教会は、この世のもので人々を惹きつけようとするのではなく、人々に「聖なるもの」を指し示し、差し出すようにしたいと思います。多くのキリスト者は「人々は聖なるものを敬遠するだろうから、この世的なものを提供しなければならない」と信じ込んでいますが、実際は違います。人のたましいは「聖なるもの」に触れてはじめて満足するのです。教会にそれがなければ、人々はかえって教会から去っていくのです。キリスト者がまず「聖なるもの」を求め、それに満たされることによって、人々に「聖なるもの」を指し示し、それを分かち合うことができるようになります。

 ローマ1:11-12でパウロはこう言っています。「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」信仰や御霊の賜物は分け与えることができるものであり、教会は、それを分け与えるところなのです。わたしたちの信仰や賜物は分かち合うことによってさらに豊かになり、それによって私たちは霊的に成長していきます。

 ハイデルベルク信仰問答の問55は、「『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか」と質問しています。その答えはこうです。「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっているということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることを、わきまえなければならない、ということです。」ハイデルベルク信仰問答は、キリストが与えてくださった恵みに共に与り、自分に与えられた賜物を他の人と分かち合う、そこに「聖徒の交わり」があると説明しています。これはとても優れた理解であると思います。教会は共に聖なるものを分かち合う場です。教会はその分かち合いによって成長していくのです。

 三、天の教会と地上の教会

 「聖徒の交わり」は、第三に、「天の教会」と「地上の教会」との「交わり」を指しています。「使徒信条」が作られた時代は、迫害の時代でした。多くのクリスチャンが殉教していきました。先週まで一緒に賛美を歌い、共に祈りあっていた仲間が、ひとり去りふたり去っていきました。地上に遺された者は、当然、天を見上げるようになりました。そして、世を去った人々が天で主イエスと共にいて、天にも、先に世を去った人々の教会があるということが、理解されるようになりました。

 イエス・キリストは教会のかしら、教会はキリストのからだです。信徒のひとりひとりは、キリストのからだのそれぞれの器官です。キリストは天におられ、私たちは地上にいます。私たちはキリストの手足となって、地上でキリストのみこころを行うのです。しかし、同時に、からだの各器官が互いに互いを支え合っているように、キリストのからだに属するひとりひとりは、キリストによって支えられていることはもちろんですが、他の誰かに支えられ、また、他の誰かを支えているのです。

 教会は天にもあって、天の教会も、地上の教会もひとつのからだです。かしらであるキリストは天におられるので、天の聖徒たちは、もっとキリストに近いところにいて、地上の聖徒たちを支えてくれています。天の聖徒たちは完全なものとされていますから、地上の私たちが天の聖徒たちのために何かをすることはできませんし、その必要もないでしょう。むしろ、地上の私たちが、天の聖徒から何かをしてもらう必要があるのだと思います。ひとつのキリストのからだの中で、天の聖徒と地上の聖徒とが交わり、地上の聖徒が天の聖徒に支えられている。初代教会の信徒たちは、そのことを今日の私たち以上によく理解していていました。

 天の聖徒たちが地上の聖徒たちのためにしてくれていること、そのひとつは「証」です。ヘブル人への手紙11章にはアベルから始まって、サムエルや預言者たちにいたるまで、信仰に生きた旧約の聖徒たちの証が書かれています。12章には、この人たちが「雲のような証人」となって私たちを取り囲んでいると言っています。旧約時代の聖徒たちも、新約の聖徒たちも、同じ天の教会にいて、地上の信仰者たちに「証」をしてくれているのです。

 では、彼らは何を証ししているのでしょうか。ヘブル11:1には「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とあります。そして、11:6には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。天の聖徒たちは、「神は求める者に報いてくださる」ということを証ししているのです。信仰には、苦しみ多い世の中で、神の救いや報いを期待するという一面があります。「神は信じる者に報いてくださる」と信じればこそ、信仰者たちは困難な中を歩むことができました。けれども信仰者たちが見た地上の報いは部分的なものに過ぎませんでした。ある人たちは信仰のゆえにかえって苦しみを受けなければなりませんでした。しかし、聖徒たちは、今、天で報いを受けています。「神は報いてくださる」ことを天から証ししているのです。

 イエスは、ペテロに言われました。「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイ16:18)イエス・キリストは、教会は「よみの門」に勝つと力強く宣言しておられます。迫害者たちは、信仰者を殺害することによって教会を滅ぼそうとしました。しかし、信仰者たちは天に凱旋し、そこで地上の教会に証しをする者となり、地上の教会は天の証人たちに励まされ、さらにキリストを証しする者となっていったのです。迫害は天の教会を大きくし、聖徒たちのために「天の扉」を開く結果となったのです。殉教者たちは滅びたのではありません。天にあって、安息と栄光と喜びに包まれているのです。天の教会は、教会が「よみの門」に勝利していることを証ししてます。

 私たちは、天の聖徒たちから、信仰を受け継ぎました。それだけでも感謝しなければなりませんが、そればかりでなく、信仰をどのように働かせればよいのか、信仰にどう生きれば良いのかを、天の聖徒たちの生涯と模範によって教えられてきました。聖書に登場する信仰者や、歴史に名を残している信仰者ばかりでなく、私たちの身近な信仰の先輩たちの生き様を通しても、私たちはどんなに教えられ、励まされ、導かれてきたことでしょうか。

 ヘブル12:2は「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」と教えています。私たちの目は、まっすぐイエスに向けられるべきです。しかし、イエスを見上げようと天を仰ぐと、イエスの傍近くにいる「雲のような証人」が当然、見えてきます。天の聖徒たちの証の声が聞こえてきます。天の聖徒に目を留め、その証に耳を傾けることによって、よりよくイエス・キリストご自身を仰ぐことができるのだと思います。

 教会もまた堕落し、誤った教えに惑わされ、ほんとうの教会でなくなることがあります。しかし、地上の教会がキリストのからだを通して天の教会との交わりを保っている限り、それは何度でも息を吹き返し、この世に「聖徒の交わり」を生み出します。そのことを信じて、天を見上げ、天の教会と共に主イエス・キリストをあがめようではありませんか。

 (祈り)

 教会のかしらイエス・キリストよ。私たちの教会を、人間的なつながりではなく「聖徒のまじわり」によって築きあげてください。「聖なるもの」を分かち合う場としてください。「天の教会」を見上げ、天の聖徒たちに倣い、また、天の聖徒たちと共に、あなたをあがめる私たちとしてください。御父に信頼し、聖霊の助けによって願います。アーメン。

7/14/2019