12:18 あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
12:19 ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
12:20 彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。
12:21 また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。
12:22 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
12:23 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
12:25 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
12:26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
12:27 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
12:28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
12:29 私たちの神は焼き尽くす火です。
ある教会に "God still speaks..." というバーナーがかかっていました。神は、今から二千年や三千年前に語られただけではなく、今も、聖書によって、聖霊によって、神は私たちに語り続けておられるということを、そのバーナーは言おうとしていたのでしょう。「教会に来てください。ここで神のことばを聞くことができます。」という招きだったのですね。確かに神は今も、語っておられます。神は私たちに語りかけてくださるお方です。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)が今年の標語ですが、私たちが主について知らなければならないひとつのことは、主が私たちに語りかけてくださるお方だということです。今朝は、神がどのように私たちに語りかけてくださり、私たちはそれにどうにお答えすれば良いのかを、ご一緒に考えてみたいと思います。
一、命令としての語りかけ
聖書を開きますと、第一ページ目から、神が語っておられるのを見ることができます。創世記1:1-3に「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」とあります。神が、この世界に向かって最初に語られたことばは「光よ。あれ。」でした。この後、神は「大空よ。水の間にあれ。」「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。」「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」などと、次々と世界に語りかけ、そこに秩序を造り、命を生み出して行かれました。世界は神のことばによって造られていったのです。
夜、停電になった時、真っ暗闇の中で、私たちがどんなに「光よ。あれ。」と叫んでも、光は差してきません。しかし、神のことばには力があって、実際に光をもたらすのです。神が命じられると、その通りにものごとが起こるのです。イザヤ55:10-11に「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とある通りです。
神は世界をことばによって命じて造られましたが、神は造られた世界に命令を与え続け、それを支配しておられます。預言者ヨナのお話は皆さんもよくご存知でしょう。彼は、イスラエルの敵国アッシリアのニネベに行くように、神に命じられたのですが、それに従わずニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に乗り込みました。その船が嵐に遭い、人々は、この嵐が誰のせいかを調べるため「くじ」を引いたのですが、そのくじはヨナに当たりました。ヨナは「私が神に逆らったためこの船は嵐に遭ったのです。だから私を海に投げ込んで嵐を沈めてください。」と言い、海に投げ込まれることになりました。神に逆らったヨナですが、神は、ヨナを救い出すため大きな魚を用意されました。ヨナはなんと、その魚の中で生き延び、再び陸地に戻されるのです。聖書はその時のことを「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」(ヨナ2:10)と書いています。嵐の海に投げ込まれて助かる人はおそらく誰もないでしょう。人間が魚の餌になって無事でいられることなど考えられないことです。しかし、「主が命じると」嵐の海でも人は救われ、再び地上にもどることができるのです。ヨナの物語の中には、神のあわれみだけでなく、神が命じられるとその通りになるという、神のことばの力が示されています。弟子たちの乗った舟がガリラヤ湖で嵐に遭った時、主イエスも「黙れ、静まれ。」と命じて嵐を静めておられます。神が命じる時、事が起こります。ですから、詩篇44:4には「神よ。あなたこそ私の王です。ヤコブの勝利を命じてください。あなたによって私たちは、敵を押し返し、御名によって私たちに立ち向かう者どもを踏みつけましょう。」という祈りがあるのです。神は今も私たちを取り囲むさまざまな状況の中で働いてくださいます。それが、病気であれ、経済的な問題であれ、人間関係の問題や社会や法律の問題、そして、霊的、信仰的な問題もまた、主が命じてくださるなら、どんなにしても解決できないと思っていた問題も、解決に導かれるのです。私たちも「神よ。あなたこそ私の主です。この課題について、どうか私の勝利を命じてください。」と祈る者とさせていただきましょう。
ローマの百人隊長が主イエスに自分のしもべの病気を直してくださいとお願いしたことがあります。その時主イエスは「行って、直してあげよう。」と言われたのですが、その百人隊長は「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」と言いました。彼は百人隊長ですから、彼の下に百人の兵士たちがいたのでしょう。その兵士たちはみな隊長である彼の命令に従います。彼が『行け。』と命じれば兵士は行き、『来い。』と兵士に命じれば来ます。百人隊長は、自分の命令にさえ権威があるなら、ましてイエスのご命令にはもっと権威があるはずだ、しもべの病気が直るようにとの「命令」をいただければ、しもべは直ると信じたのです。主イエスは、この百人隊長の信仰をおおいに誉め、彼のために、しもべの病気のいやしを命じられました。すると、そのしもべは、イエスの命令のとおりにいやされました。神はこのように、私たちの直面しているあの問題、この課題に対して、命令を与えてくださいます。神のことばに力があって、神が命じた通りの結果を生み出すのです。ですから、私たちも、百人隊長のように神のことばの力を信じて、祈りましょう。
二、みこころを知らせるための語りかけ
神は、この世界には命令を与えるため語りかけておられますが、人間に対しては、命令を与えるためだけではなく、ご自分のおこころを知らせるために語りかけてくださっています。
創世記を見ますと、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と命じて、神は動物を造りましたが、人間にはそのようにはしておられません。神は「人間よあれ。」とか「地は、人間を生じさせよ。」とは言っておられません。神は人間を他の被造物とは違って、もっと手をかけて造っておられます。創世記1:26に「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」あります。これは、神が、誰かに向かって語られたというよりは、自分に向かって語られたことばです。「人間を神のかたちに造ろう。彼らに世界を治めさせよう。」という神の決意表明です。神は特別な愛と決意をもって人間に人格を与え、使命を与えられたのです。だから神は、人間に対してはたんに何かを命令されるというだけでなく、ご自分のおこころを知らせ、人格と人格とのまじわりを求めて、人間に語りかけてくださるのです。
エデンの園で人間は神との対話を楽しむことができたのですが、罪のために、神との親しいまじわりが妨げられてしまいました。しかし、人間が罪を犯し、神を避けたからといって、神は人間に語りかけることを止めてしまわれたわけではありません。神を避けて隠れようとしている人間に、神のほうから「あなたは、どこにいるのか。」と語りかけてくださっています。神は、今も、神から遠く離れている人々に「あなたは、どこにいるのか。」と語りかけてくださっています。たとえ、私たちがどんな困難の中にいたとしても、そこにも神のことばは届きます。自分の現状を包まず、隠さず、偽らず「私はここにいます。」と神に答えていくとき、私たちは、ふたたび神との語らいの中にもどり、神のことばの力を体験することができるのです。
イスラエルの先祖となったアブラハムは神と親しく語り合った人でした。創世記18章にあるのですが、ある時、神はアブラハムに現われ、アブラハムとともにソドムの町に向って行かれた時、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)と思い、アブラハムに、神がソドムの町を滅ぼそうとしていることを告げました。神は、ご自分がなさろうと思われたことを、誰に相談することも、遠慮することもなく行なうことがお出来になるのに、わざわざそれをアブラハムに打ち明けておられます。それは、ソドムの町にいるアブラハムの甥ロトとその家族のために、アブラハムがとりなしをする機会を得るためだったのでしょうが、そればかりではなく、神は、神の民にかかわる神の計画を、アブラハムに知って欲しいと願われたのです。もし、神が人間に命令だけしか与えないとしたら、神と人間との関係は、主人としもべとの関係だけで、それ以上のものではありません。しかし、神は人間を人格として愛し、人間とこころとこころをかよわせたいと願っておられるのです。
このごろはどうかわかりませんが、日本の男性はかつては、家では「フロ」「メシ」「ネル」の三つのことばしか話さないと言われました。夫婦の会話や親子の会話がなければ家庭が寄宿舎、しかも会社の付属施設になってしまいます。夫婦がお互いに「給料を運んでくれる人」「会社に送り出してくれる人」という「役割を果たす人」に過ぎなくなり、ほんとうの意味での愛や信頼が育たなくなってしまいます。神は、家庭がほんとうの意味で家庭になることを望んではおられますが、同じように、私たちと神との関係もまた、神が支配し、人間が服従するというだけのものではなく、神が父となり、私たちが子となるという関係、「家族の関係」を持ちたいと、神は願っておられるのです。聖書を読むと、神が神に背いている人々について「わたしはあなたがたのことをどうしたらよいだろうか。」と言って嘆いておられることばによく出会います。神はご自分の喜びも、心配も、嘆きも、怒りもそのまま聖書の中に示してくださっています。私たちは、聖書を単なる「規則集」や「マニュアル」にするのではなく、そこに示されている神のおこころに触れ、神のおこころをもっと知る者とさせていただきたいと思います。
三、キリストによる語りかけ
さて、最後に、神はキリストによって私たちに語りかけておられるということを学びましょう。
長くダラス第一バプテスト教会の牧師をしておられた W. A. クリスウェル先生は、ビリー・グラハムをはじめ、アメリカの指導的な牧師たちの多くに影響を与えた人でした。『人生の5つの目的』を書いたリック・ウォレンもそのひとりです。クリスウェル先生が、サンディエゴに見えた時、その教会のディビッド・ジェレマイヤ牧師が、クリスウェル先生を紹介し先生を講壇に迎えました。クリスウェル先生は講壇に立って開口一番、「今の紹介は、私が聞いた紹介の中で二番目にすぐれたものでした。」と言われました。そして、「一番すぐれたのは、これです。みなさん、私が W. A. クリスウェルです。」と言って深々とお辞儀をしたのです。確かに、ある人について誰かが話すことよりも、その本人が登場して話すほうがよほど、その人のことが分かります。そのように、神も、旧約時代には、夢や幻、あるいは天使や預言者によって人々に語りかけてくださいましたが、新約の時代には、ご自身が人となって直接私たちに語ってくださいました。つまり、イエス・キリストによって、私たちに語ってくださったのです。ヘブル1:1-2に「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」とあります。
神は、自然とその現象、歴史の出来事を通しても、ご自分を表わしておられますが、それらは、神に造られたもの、また、神のみわざのひとつにすぎないもので、完全には神を表わすことはできません。完全に神を表わすことができるのは、神の御子イエス・キリストの他ありません。ヘブル1:3には「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ(である。)」とあります。コロサイ1:15には「御子は、見えない神のかたち(である。)」とも書かれています。この間、水曜日の聖書の学びで「神は目に見えるのですか。」という質問がありましたが、コロサイ1:15は「神は見えないが、神の御子イエス・キリストは見えない神を見せてくださったお方である。」と教えています。それで主イエスは「わたしを見た者は父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われたのです。神はじつに、キリストによってご自分を表わし、キリストによって私たちに語りかけておられます。
「キリストによって語りかけておられる」というのには、三つの意味があります。まず、第一に、私たちが完全な救いのことばを知らされているということです。旧約時代には、神の救いの計画は部分的にしか知らされていませんでした。まだ明らかでなかった部分があったのです。しかし、今や、神の救いの計画は、キリストによって完全にあきらかにされました。私たちは、私たちと世界の救いのために知らなければならないすべてを、キリストのことばから聞くことができるのです。
第二に、私たちは、キリストによって、神の語りかけを恵みのメッセージ、愛のことばとして聞くことができます。ヘブル12:18-21に「あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。彼らは、『たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。』というその命令に耐えることができなかったのです。また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、『私は恐れて、震える。』と言いました。」とあります。これは、モーセがシナイ山で神から十戒をはじめ、さまざまな戒めを受けた時の情景を描いています。つまり、旧約の律法の世界のことを言っています。キリストの救いを持たないで神のかたりかけを聞くことは、罪ある人間には恐怖以外の何者でもないのです。しかし、新約の時代は違います。キリストの十字架と復活の後、私たちを待っているのは、もっとすばらしい栄光と恵みなのです。ヘブル12:22-24には、こう書かれています。「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」24節の「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」というのは、イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血のことです。イエス・キリストの十字架が私の罪のためだったと信じて、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストの血によってその罪が赦され、きよめられるのです。旧約時代には、恐怖以外の何者でもなかった神のことばが、救いのメッセージ、喜びの知らせとして私たちに届けられているのです。
神が「キリストによって語っておられる」というのは、第三に、これが神からの最終のメッセージだということです。二千年前、キリストの復活とともに、また、聖霊の降臨とともに告げられた福音のメッセージ以外の福音のメッセージはありません。神は、それ以来、一度たりともこの福音を変えておられませんし、新しい福音を告げ知らせてはおられません。私たちは、イエス・キリストの十字架と復活のメッセージ、悔い改めと信仰の教えによって救われるのであって、これ以外のものはありません。ですから、ヘブル12:25には「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」とあります。神は、今まで神の語りかけを拒んできた人々に、何度も何度も「わたしに帰れ。」「悔い改めなさい。」「わたしを信じなさい。」と呼びかけてこられましたが、最後に、イエス・キリストによって、完全な赦しのことばをかけてくださったのです。交通違反をして、罰金を払わないでいると、催促が来るそうですね。何度まで待ってくれるのか知りませんが、永遠にではないことは明らかです。いつか最終の通告が来るはずです。裁判にかけられたり、刑務所に行くのを赦される最後のチャンスというものがあるはずです。キリストの福音は、神の審判が赦される最後のチャンスです。これから先にはもう同じものはありません。ヘブル12:26-29に「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。私たちの神は焼き尽くす火です。」とあります。すべてのものが揺り動かされるというのは、神の審判の日、最後の時を意味しています。しかし、神の国、イエス・キリストの救いは決して揺れ動くことはありません。審判の日、最後の時が来ないうちに、イエス・キリストの救いを受け入れ、神の国に入れていただきましょう。そのために、「語っておられるお方を拒まないように」、神の語りかけにしっかりと耳を傾け、心を傾けていこうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたが、私たちに語りかけてくださるお方、語り続けてくださっているお方であることを感謝します。しかし、私たちはなんと自分のことを語るのに忙しく、あなたの語りかけを無視してきたことでしょうか。人のことばにだけ耳を傾け、語ってくださるあなたに向かうことをしてこなかったことでしょうか。私たちは今朝、「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。」という、あなたの「語りかけ」をいただきました。このおことばによって私たちのこころを点検してください。そして、あなたの語りかけに耳を傾け、あなたのおこころを知る者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/23/2005