11:5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
11:6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。
ヘブル人への手紙11章には「信仰によって」生きた人々、15人の名前があげられていますが、アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブの9名については、名前だけでなく、その人たちが信仰によって行ったことが記されています。「信仰によって」生きるとはどんなことなのかを、これらの人々から学んでいきましょう。先週はアベルの信仰から学びましたので、きょうは、エノクの信仰について学びます。
一、死の現実
エノクの名前が最初に出てくるのは、創世記5章です。創世記5:1-20にこう書かれています。
5:1 これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り、
5:2 男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。
5:3 アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。
5:4 セツを生んでからのアダムの生涯は八百年で、彼は息子たち、娘たちを生んだ。
5:5 アダムが生きた全生涯は九百三十年であった。こうして彼は死んだ。
5:6 セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。
5:7 セツはエノシュを生んでから八百七年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:8 セツの全生涯は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。
5:9 エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。
5:10 エノシュはケナンを生んでから八百十五年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:11 エノシュの全生涯は九百五年であった。こうして彼は死んだ。
5:12 ケナンは七十年生きて、マハラルエルを生んだ。
5:13 ケナンはマハラルエルを生んでから八百四十年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:14 ケナンの全生涯は九百十年であった。こうして彼は死んだ。
5:15 マハラルエルは六十五年生きて、ヤレデを生んだ。
5:16 マハラルエルはヤレデを生んでから八百三十年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:17 マハラルエルの全生涯は八百九十五年であった。こうして彼は死んだ。
5:18 ヤレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。
5:19 ヤレデはエノクを生んでから八百年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:20 ヤレデの全生涯は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。
まだ続きますが、ここまでにしましょう。ここまで読んで、皆さんはどんなことに気付きましたか。きっと、人々が何百年も生きたことが印象に残ったことでしょう。アダムは930年、セツは912年、エノシュは905年、ケナンは910年、マハラルエルは895年、ヤレデは962年生きています。962年というと、一世紀近いわけですから、驚くほどの長寿です。ノアの洪水のあとは、このような長寿は記録されていませんから、洪水前の人々がこのように長寿であったのは、地球環境が今日とはくらべものにならないほど良く、老化がゆっくりとしか進まなかったのだと考えられます。このような「超」長寿のおかげで人類は増え広がり、知識が蓄積して、文明が急速に発展したのです。
しかし、創世記5章は、古代の人々がどんなに長く、元気で生きられたとしても、その人生の最後は「死」であると言っています。5節に「アダムが生きた全生涯は九百三十年であった。こうして彼は死んだ」とあり、そのあと、すべての人について、「こうして彼は死んだ」という言葉が繰り返されています。
創世記は、人が罪を犯し、世界に死が入り、人が死ぬべきものになったことを告げているのです。神がアダムに、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない」という戒めをお与えになったとき、こう言われました。「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)罪の結果は死であると、神は言われたのです。しかし、神の戒めを破ったアダムとエバは、その時、その場で死に絶えませんでした。むしろ、アダムは930年もの長寿を与えられています。しかし、アダムはやがて、死を見るようになりした。アダムは、アベルが兄弟のカインに殺されるという悲惨な死を見て、「罪の支払う報酬は死である」という事実を目の当たりにしています。アダム自身も、930年の後、死んでいきました。彼の長寿は、刑罰の執行猶予の期間でしかなかったのです。
二、死の克服
「そして彼は死んだ。」そのような言葉を続けて読んでいると、気が滅入ってしまいます。確かに、罪の支払う報酬は死なのですが、この死を克服するものはどこにもないのでしょうか。私たちは永遠に死の牢獄の中に閉じ込められたままなのでしょうか。
いいえ、私たちには希望があります。そして、その希望はすでに、創世記に示されていたのです。創世記5:20には「ヤレデの全生涯は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ」とありましたが、続く21-24節にはこう書かれています。
5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
エノクの生涯は、創世記5章の人物の中で一番短く365年しかありません。しかし、彼については「こうして彼は死んだ」とは書かれてはいないで、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と書かれています。ヘブル人への手紙は、このことについて、「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました」と説明しています。
「エノクは死を見ることがないように移された。」どこにでしょう。天に、神のもとにです。しかも、エノクは、霊だけでなくからだも天にあげられました。人は誰もその亡骸を地上に残していくものですが、エノクの場合は違いました。エノクはイエス・キリストの復活の雛形です。イエス・キリストは、復活ののち、からだを持ったまま天に昇っていかれました。
エノクが天に移されたことは、キリストにある者たちの「からだのよみがえり」の予告でもありました。イエスが再びおいでになるとき、キリストにある者たちの亡骸は、たとえ灰となり塵となっていても、神は灰や塵から栄光のからだによみがえります。エノクは、神の恵みによって、また、彼の信仰によって、イエス・キリストのはるか以前に、キリストの復活や、キリストにある者の「からだのよみがえり」、「永遠のいのち」を身をもって預言したのです。
聖書は「罪の報酬は死です」と言って、罪と死の現実をはっきりと教えています。けれどもそれで終わっていません。ローマ6:23は、「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と宣言しています。いのちの主であるお方、死ぬことのない神の御子が十字架の上で、苦しみの果てに死なれました。それは私たちの罪の刑罰をその身に引き受けてくださったからです。イエスは死に打ち勝ち、永遠のいのちを私たちに「賜物」、つまり、無代価の恵みの贈り物として分け与えてくださったのです。
しかし、永遠のいのちが、無代価の、恵みの賜物であったとしても、私たちがキリストから離れていれば、永遠のいのちの恵みに与ることはできません。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)ぶどうの枝は、ぶどうの木につながっていてこそ、成長し、やがて実を結びます。ぶどうの木につながっていなければ、枯れてしまいます。私たちも、キリストにつながっていなければ、永遠のいのちが私たちのうちに働かないのです。そして、キリストと私たちとをつなぐものが「信仰」です。聖書は、エノクが、死を見ることなく天に移されるために何か特別なことをしたとは言っていません。ただ「信仰によって」とだけ言っています。神は、エノクの才能や、特別な功績ではなく、彼の信仰を喜んでくださいました。では、神に喜んでいただける信仰とはどんな信仰なのか、最後にそのことを見ておきましょう。
三、信仰の歩み
ヘブル11:6は、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と言っています。
神は、まず、私たちに「神がおられること」を信じることを求めておられます。ここで「神がおられることを信じる」というのは、「神の存在」を論理で考え、納得することは違います。人は勝手に神を思い描いたり、定義しりできないのです。神はモーセに「わたしは『わたしはある』という者である」(“I am that I am.”)と言われました。これは、神が、ご自分の主権と自由をもって、存在しておられることを意味しています。神は、ご自分の存在をご自分で定めておられます。「神がおられることを信じる」とは、言い換えれば、神を、神が神の言葉のうちに示しておられるとおりに受け入れるということです。
そして、次に、「神が求める者に報いてくださる」ことを信じることです。この信仰によって、エリヤは、バアルの預言者たちと対決し、勝利しました。バアルの預言者たちは、朝から昼過ぎまで、自分たちの身体を剣や槍で傷つけるようなことをしてまで、バアルの名を呼びましたが、何も起こりませんでした。しかし、エリヤが祈ると天からの火が祭壇のいけにえを焼き尽くしました。そのときのエリヤの祈りはこうでした。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」(列王記第一18:36-37)エリヤは、神が生けるまことの神であり、彼と共にいてくださることを信じ、祈りに答えてくださることを確信して祈ったのです。
特定の信仰を持たない人でも祈ります。しかし、それは、「もし、神というものがあるなら、そして、もしかして私の祈りが聞かれるのだったら、この願いが実現しますように」というような祈りでしかありません。信仰による祈りは、「神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる」、「神はこの祈りに答えてくださる」と信じて祈るものでなければならないのです。
エノクはエリヤのような奇跡を行うことはありませんでした。しかし、日々の生活を、神が共におられるという信仰をもって送り、人生のさまざまな事柄について神に信頼し、神が信頼する者に答えてくださると信じて過ごしました。創世記5:24は、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と言っています。神が喜んでくださる信仰とは、たとえ、人の目に触れる特別なことでなくても、エノクのように日々を神と共に歩むことなのです。
私たちは聖書によって、誰もが、時が来れば世を去らなければならないことを知っています。だからこそ、一日一日を大切にして過ごします。また、キリストにある者の人生は死で終わらない。その向うに天があることを知っています。だから、どんな困難なときでも、「神さま、私と共にいてください」と祈って、それを乗り越えることができます。また、この地上の歩みが天につながっていることを知っていますから、日々を神と共に歩もうと励むのです。
(祈り)
父なる神さま、イエス・キリストによって、私たちを罪と死から救い出し、永遠のいのちの望みを与えてくださった恵みを感謝します。エノクがあなたと共に歩んだように、私たちも、「わたしが道であり、真理であり、いのちです」と言われたイエス・キリストによって、あなたとともに歩み、天に至る者としてください。キリストのお名前で祈ります。
1/15/2023