11:29 信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。
1956年「十戒」という映画が作られました。チャールトン・ヘストンがモーセを、ユル・ブリンナーがファラオを演じていました。イスラエルの人々が紅海を渡るシーンはこの映画のクライマックスとなっています。ユニバーサル・スタジオには、そのシーンの撮影に使われたセットが残っていて、私は、スタジオ内を巡回するバスに乗って、そこを「渡り」ました。人工の川があって、バスが通るときには、水が遮断され、両側が水の壁になるのです。実際に紅海が分かれたのとくらべものにならないほど、ちっぽけなものでしたが、結構楽しむことができました。映画も、スタジオ・ツアーも、助けになりますが、聖書はもっと正確にそのときのことを描いています。また、神への信仰を教えています。
一、目の前の障害
エジプト中の初子がファラオの長男から始まって家畜の初子に至るまで一夜のうちに死ぬという災いが下り、ファラオはやっとイスラエルにエジプトから出るのを許しました。「許した」というよりは、「出て行ってください」とお願いしたほどでした。出エジプト記12:33に「エジプト人は民をせき立てて、その地から出て行くように迫った」とある通りです。
「何もファラオから許しが出るのを待たなくても、勝手にエジプトを出ていけばよかったのでは…」と、最初、私はそう思いました。しかし、少し考えて、ファラオには強力な軍隊があって、たとえイスラエルが逃亡を図っても、軍隊がイスラエルを押し止め、逃げようとする人たちを殺したに違いないと気付きました。けれども、軍隊はファラオの命令によって動くので、ファラオから「イスラエルに手出しをするな」との命令があれば、軍隊は何もすることができませんでした。ですから、エジプトから出ていくためには、どうしてもファラオの許可が必要だったのです。神は、ファラオが許可を与え、イスラエルが、安全にエジプトを「脱出」できるようにしてくださいました。その上、エジプトの人たちは、イスラエルの人々に金や銀、また着物を与えました。イスラエルは、自分たちの財産である家畜とともにそれらを携えて、堂々とエジプトから旅立ったのです。
イスラエルがエジプトを去ってから、ファラオと家臣たちは、「われわれは、いったい何ということをしたのか。イスラエルをわれわれのための労役から解放してしまったとは」(出エジプト記14:5)と言って、後悔しました。それで、ファラオは軍勢を率いてイスラエルを追いました。
そのとき、イスラエルは、海に面したところに宿営していました。前は海、後ろは軍隊。「絶体絶命」とは、こういったことを言うのでしょう。逃げ場がありません。イスラエルの人たちは恐怖に縮みあがり、モーセに言いました。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」(14:11-12)全く不信仰な言葉です。イスラエルの人々は、神の力強い救いを見たばかりなのに、もうそれを忘れてしまっているのです。
同じようなことは、私たちにも起こります。イエス・キリストを信じて救われ、平安や喜びを体験し、神を賛美し、感謝したのに、何かの困難がやってくると、不平不満が心に生まれ、神に恨み言さえ言いかねないことがあるのです。なぜ、そんなことが起こるのでしょうか。それは、神の救いや人生の歩みについて考え違いをしているからです。神の救いには無限の力があり、それは私たちのたましいだけでなく、地上の生活のすべてに及びます。聖書は、「あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの胎の実も大地の実りも、家畜が産むもの、群れの中の子牛も群れの中の子羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される」(申命記28:3-5)と言っています。今日の言葉で言えば、救いの祝福は、キッチンの冷蔵庫にも、レンジにも、コーヒのマグカップに及ぶまでも、ということになるでしょう。けれども、それは、信仰者がどんな困難にも遭わず、楽々と、のんびりと、この世を生きることができるということではありません。愛の神は、私たちがもっと神に近づき、人格的に成長するため、あえて、私たちの前に障害となるものを置かれることがあります。しかし、それは神の訓練です。訓練のないところに成長はありません。何の問題もなく、すべてが順調な人生は、かえって人を駄目にします。神は愛であるからこそ、私たちを試練を通して訓練してくださり、人生に実りを与えてくださるのです。
信仰者の人生にも、袋小路に追いやられたような困難に直面することがあります。しかし、聖書は、どんな試練にも、必ず「脱出の道」があると教えています。コリント第一10:13は、誰もが覚えておきたい御言葉です。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」困難は、信仰を持つ人にも、持たない人にも、同じようにやってきます。癒やされる確率は、信仰を持つ人のほうが断然高いのですが、病気になる確率はおそらく変わらないでしょう。進むべき道が塞がれてしまったように見えるとき、それは、神を信じる者にも信じない者にもやってくるでしょう。しかし、神を信じる者のために、神は塞がれた壁の中に、困難の中に、進むべき道を新しく造ってくださるのです。
二、海の中の道
モーセはエジプトの軍隊を恐れ、自分に不平を並べ立てたイスラエルの人々に言いました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)
モーセは、イスラエルの人々が自分に向かってつぶやいたのは、恐れから出たものであることを知っていました。彼らは、追いかけてくるエジプトの騎兵隊や戦車隊を見て怯え、それがモーセへの不平不満、つぶやきとなったのです。何かといえば不満を口にし、人を悪く言うような人は、その人自身が何かに怯え、不安や恐れを持っているからです。自分の不安や恐れから反射的に他の人を攻撃するのですが、そんなことをしても何の解決もありません。自分の恐れを神に委ねるなら、つぶやきを止みます。神がしてくださることを期待して待つ。その信仰を持つなら、道を見出すのです。
モーセが言った「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」との言葉は、モーセを通して神が語られた言葉です。神は、「わたしがあなたがたのために戦う」と言われたのです。後の時代、ダビデがゴリアテと戦ったとき、ダビデは鎧を身に着けることも、剣も槍も持たず、ただ石投げと、袋の中に入れた小石だけで、ゴリアテに立ち向かいました。ゴリアテがダビデを嘲ったので、ダビデはこう言い返しました。「この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」(サムエル第一17:47)ダビデは「主が戦ってくださる」との信仰によってゴリアテを倒しました。神は、出エジプトののち、最初の困難に直面したイスラエルにも、「主が戦ってくださる」との信仰を持つよう、求められたのです。
エジプトを出て以来、雲の柱がいつも先頭に立って、イスラエルの人々の進む道を示してきましたが、この時、雲の柱はイスラエルの後ろに移動しました。イスラエルとエジプトの軍隊との間に立ちはだかったので、エジプトの軍隊は、前を進むイスラエルに追いつくことができませんでした。その間、神は強い風を吹かせ、海の中に道を造られました。イスラエルの人々は、夜通し、乾いた地を通って逃れました。イスラエルの後を追ってその道を進んだエジプト軍は、戦車の車輪が皆外れ、海の真ん中で立ち往生してしまいました。今度はエジプト軍が恐怖を感じ、引き返そうとしましたが、夜明けとともに風が止み、海は元通りになりました。エジプト軍は水に呑み込まれてしまい、この後、二度と、イスラエルはエジプト軍の追撃を見ることはありませんでした。神はモーセを通して「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい」と言われましたが、まさに、主おひとりで強力なエジプトの騎兵と戦車部隊と戦い、それを打ち負かしてしまわれたのです。
出エジプト14:29-31は、イスラエルが海を渡った時のことをこう書いています。「イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」
海の中に突然乾いた地が現れる。そんなことは自然現象ではありえないことです。これはまったく、神の全能の力の働きによるもの、奇跡のみわざです。ある人は、聖書に「奇跡などが書かれているから、信じられないのだ」と言います。しかし、ほんとうは逆なのです。「奇跡」があるあるからこそ、信じることができるのです。もし神が奇跡を起こせないなら、神も、私たち人間と同じように、自然の法則の下にあることになります。神はこの世界を造り、そこに法則を与えられました。だからこそ神は、それを一時的に変更するがおできになるのです。奇跡は創造と共に、神の偉大さを私たちに教えてくれます。
神の奇跡のみわざは、自然を超えて大きなもの、威力のあるものですが、同時にそれはとても人に優しいものです。海の水が分かれるほどの強風、そこにはどんなに巨大な風圧が働いたことでしょうか。そんな中を、人々が普通の道を歩くようにして歩いて渡ったというのは、神の恵み深さを示しています。風圧は、海の水にはかかっても、人々にはかからなかったのです。また、それによって海底の乾いた地が現れましたが、小石や砂が飛ぶことはありませんでした。エジプトの戦車の車輪はそこに食い込みましたが、イスラエルの人々の足が取られることはなかったのです。イスラエルの人々が海の中の道を進んだのは日中ではなく、夜でしたが、きっとその道を照らす光があったことだろうと思います。聖書に記されている奇跡はどれも、神の力と同時に、神の恵みを表しています。
とはいえ、最初にその道に足を踏み入れるには勇気が必要だったと思います。人々がそうすることができたのは、神への信仰によってでした。ヘブル11:29に「信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました」とある通りです。神は、私たちのために道を造られます。海の中にさえ道を造られた神が、私たちが直面する課題、困難、障害を打ち破ってそこに「脱出の道」を造ってくださらないはずがあないのです。そのことを信じ、「主よ、導いてください。道を開いてください」と祈り求めましょう。イスラエルの人たちは、海の中の道を渡った後、自分たちを追いかけてきたエジプトの軍勢が消えてなくなっているのを見ました。同じように、私たちも、今まで、恐れ、苛立っていた問題が、消え去っているのを見るでしょう。出エジプト14:31は、「それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた」と言っています。主が造られた道を信じて進むとき、私たちは、主のみわざを見ることができます。私たちも「信仰によって」進み、主の力と恵みに満ちたみわざを見せていただきましょう。
(祈り)
主なる神さま。あなたのみわざはなんと偉大なことでしょう。また、それと同時に、なんと恵み深いものでしょう。私たちが道を見失うとき、もうこれ以上は進めないとあきらめかけるとき、信じる者たちに成し遂げてくださった、力と恵みに満ちた、あなたのみわざを思い起こさせてください。「荒野に道を、荒れ地に川を設け」てくださる主よ、あなたが切り開いてくださる道を恐れなく歩む者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/23/2023