11:27 信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。
11:28 信仰によって、彼は長子を滅ぼす者が自分たちに触れることがないように、過越の食事をし、血を振りかけました。
モーセ生まれて三ヶ月してナイル川に流されましたが、エジプトの王女に救われました。40歳のとき、エジプトで奴隷となっていた同胞イスラエルのために立ち上がりましたが、無益な殺人をし、エジプトの王、ファラオの追求を恐れ、ミディアンの地に逃れました。しかし、それから40年経ったとき、モーセは神の召しに答えて、再びエジプトに向かいました。きょうの箇所はその続きで、モーセがイスラエルの人々を導いてエジプトから脱出したときのことです。このエジプトからの脱出は、「信仰によって、…エジプトを立ち去りました」とあるように、「信仰」によってなされたものです。では、出エジプトのとき、「信仰」はどのように働いたのでしょうか。
モーセ生まれて三ヶ月してナイル川に流されましたが、エジプトの王女に救われました。40歳のとき、エジプトで奴隷となっていた同胞イスラエルのために立ち上がりましたが、無益な殺人をし、エジプトの王、ファラオの追求を恐れ、ミディアンの地に逃れました。しかし、それから40年経ったとき、モーセは神の召しに答えて、再びエジプトに向かいました。きょうの箇所はその続きで、モーセがイスラエルの人々を導いてエジプトから脱出したときのことです。このエジプトからの脱出は、「信仰によって、…エジプトを立ち去りました」とあるように、「信仰」によってなされたものです。では、出エジプトのとき、「信仰」はどのように働いたのでしょうか。
一、恐れを取り除く
「信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなく…」とあるように、第一に、信仰は「恐れ」を取り除きました。
エジプトに戻ったモーセは、ファラオに、神を礼拝するため、イスラエルの人々を荒野に行かせてほしいと交渉しました。当然、ファラオはイスラエルをエジプトから出すわけにはいかないと、拒否しました。それだけでなく、イスラエルの労働をもっと厳しくしました。イスラエルの人々はファラオのために、藁と土で天日干しのれんがを作っていましたが、ファラオは「藁は与えないが、れんがの量は減らしてはならない」と命じて、人々は、もっと苦しい思いをしなければならなくなったのです。
では、イスラエルの人々は、より団結して、モーセに、さらにファラオと交渉してほしいと頼んだでしょうか。いいえ、モーセが余計なことをしたから、こんなことになったのだと、かえってモーセを責めました(出エジプト5:6-21)。人々は、ファラオの権力を恐れていました。ファラオに逆らうなど、考えもしなかったのです。イスラエルは、エジプトで奴隷でしたが、身分だけでなく、心までも「恐れ」の奴隷となっていました。
近年、「ドメスティック・バイオレンス」(DV)が大きな問題となっています。夫に暴力をふるわれ、妻が心に「恐怖」を植え付けられると、妻は夫の暴力に立ち向かうことも、それから逃れることもできなくなって、夫の言いなりになり、子どもも、父親や母親の言いなりになってしまいます。夫や親の暴力を他の人に訴え、助けを求めるどころか、かえって、夫や親をかばうようになります。DV には、そういった心理が働くので、事件が起こらないかぎり、それが表面に表れてこないことが多いのです。
DV とまでいかなくても、夫が会社で上司から厳しく叱られると、家に帰って妻につらくあたる。すると、妻が子どもを口やかましく叱る。そして、子どもは、弟や妹、また、ペットの犬や猫にあたるようになる。そんなふうにして、暴力や依存症、憎しみや偏見などは、「負の連鎖」となって引き継がれていきます。それはどこかで断ち切らなくてはなりません。そうしたものの背後には、自分を脅かす者への「恐れ」の心がありますから、それから解放されなければならないのです。
人は様々な恐れを持ちます。健康のこと、金銭のこと、人間関係、また、今の世界情勢や社会の諸問題、悪くなっていく治安や環境など、私たちに恐れを感じさせることがなんと多いことでしょう。どうにしたら、そうした「恐れ」から解放されるのでしょうか。それは、「信仰によって」です。詩篇にこうあります。
心に恐れを覚える日箴言は、こう戒めています。
私はあなたに信頼します。
神にあって 私はみことばをほめたたえます。
神に信頼し 私は何も恐れません。
肉なる者が私に何をなし得るでしょう。
(詩篇56:3-4)
人を恐れると罠にかかる。イエスは言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)また言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)神に信頼するとき、人は「恐れ」から解放されます。心に平安を体験し、勇気が与えられます。「信仰」が恐れを取り除くのです。モーセは、「信仰によって」、「王の憤りを恐れることなく」、与えられた使命を果たし、イスラエルをエジプトから導き出すことができたのです。
しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。
(箴言29:5)
二、忍耐を与える
第二に、信仰は「忍耐」を与えます。
ファラオとの最初の交渉が決裂し、モーセはイスラエルの人々から、「私たちのことはかまわないでくれ」と言われ、意気消沈してしまいました。しかし、一度や二度うまくいかなかったからといってそれで引き下がるとしたら、それは本物の「信仰」ではありません。ヘブル人へ手紙は「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です」(ヘブル10:36)と言って、「信仰」と「忍耐」を一つのもののように結びついているものとして教えています。信仰は忍耐を生み出し、忍耐が信仰を支えるのです。
ヘブル人への手紙は、「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)と言っていますが、この言葉の通り、モーセは「目に見えない方を見ているようにして」、最初の失敗を乗り越えました。このあと、神は、エジプトに数々の災いを与え、ファラオの頑固さを懲らしめました。ファラオは、いったんは、イスラエルを行かせることを承知するのですが、何度も前言を翻して、イスラエルを去らせようとはしませんでした。けれども、モーセはあきらめませんでした。それは、モーセが見えない神を信仰の目で見ていたからです。人々の目に見えるのは、きらびやかな宮廷と、その王座に着いているファラオの絶対的な権力でした。けれどもモーセは、その王座のはるか上、天の王座におられる神を見上げました。神は生きておられ、そのみわざを、今、ここ、エジプトで行ってくださる。モーセは、そのことを信じる信仰によって、神の時が来るのを待ったのです。
三、御言葉に従う
そして、ついにその時が来ました。神はエジプトに9つの災いを与えてファラオを懲らしめましたが、ファラオは、それでも神に逆らい続けました。それで神は、10番目の災いをエジプトに与えました。それは、最も恐ろしい災いで、エジプト中の初子(ういご)がファラオの長男からはじめて家畜の初子に至るまで一夜のうちに死ぬというものでした。ファラオの長男といえば、ファラオの地位を継ぐ者です。ファラオは自分の後継者を失ってはじめて、イスラエルを行かせることを承知しました。
しかし、この10番目の災いはエジプト全土に及ぶわけですから、当然、イスラエルの長子たちも命を奪われることになります。そこで神は、モーセに、この災いから逃れる方法を教えました。それは、それぞれの家で子羊を屠り、その血を家の入り口に塗るというものでした。そのようにすると、災がその家を「過ぎ越して」、その家の長子は救われるのです。これは、後に、イエスが「神の子羊」、また「過越の子羊」となり、十字架の上で血を流し、その血が私たちを罪と滅びから救うことになることの予告的な出来事でした。イスラエルの人々は、それが何を意味するかは、その時は分かりませんでした。けれども人々は「信仰によって」神の言葉に従い、神が指示された通りにして、滅びから救われたのです。
このように、信仰は、私たちを神の言葉に従わせてくれます。「鰯の頭も信心から」という言葉があるように、日本人の多くは、「信仰」で大切なのは、迷いを捨てて、ただ一心に信じ込むことだと考えています。信仰する対象がいるのかいないのか、信じている事柄が本当なのか嘘なのか、それはどうでもよいと思われてきました。実際、多くの人は、自分は仏教徒だと言っても、仏教の何宗に属し、その教えが何なのかを知りませんし、知ろうともしません。
仏教には「絶対」の真理はありません。すべてが「相対」であり、移り変わるものなのです。アメリカに仏教の思想が入ってきたとき、それはアメリカ人にとって新鮮なものに感じられました。また、「絶対」を主張せず、あらゆるものを包みこもうとするので、平和な教えとして歓迎されました。その結果、「神はおひとりでなくてもよい。どの神でも自分の好きな神を選べばよい」という人が増え、「イエスが復活したかどうかは問題ではない。そう信じることが大切なのだ」といった考え方が広まりました。しかし、聖書は、信仰は事実に基づいていなければならないと教えています。コリント第一15:13-14に、こうあります。「もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります」とあります。聖書は、決して、「復活の事実よりも、それを信じる信仰が大切なのだ」とは、言っていません。人は、神が歴史の中になしてくださった救いのみわざの事実と、それを伝える神の言葉を信じて救われると教えています。
イエスは十字架にかかる前にご自分のよみがえりについて予告しておられましたが、皮肉にも、それを覚えていたのは、イエスを十字架に追いやったユダヤの指導者たちだけでした。それで、彼らはイエスの墓を厳重に封印し、番兵まで置いてそれを守らせたのです。弟子たちはと言えば、一室に閉じこもって隠れていました。女の弟子たちは、墓の中にイエスを捜しに行きました。誰もがイエスがよみがえると信じていませんでした。そんな弟子たちが、イエスの十字架からわずかな日にちしか経たないうちに、大胆にイエスの復活を宣べ伝えたのです。彼らが殉教をも恐れないで伝道したのは、復活の信仰を持っていたからで、それは誰もが認めることです。では、弟子たちはどのようにして復活の信仰を持つようになったのでしょう。それは復活の事実があったからです。イエスの復活が事実であることは、さまざまな証拠によって証明することができます。復活の信仰は、復活の事実から来たものである。弟子たちの大胆な伝道は、それ以外に、どんなことをしても説明することはできません。
信仰は事実に基づき、その事実を伝える神の言葉に基づきます。「事実はどうであっても、そうだと信じ込むことが人を救う」というのは、本当ではありません。しかし、救いの事実が証明され、それが伝えられていても、信じることがなければ、人は救われません。エジプトのイスラエルの人々は、神が備えられた救いを、神の言葉によって伝えられ、その言葉を信じ、実行することによって、救われ、エジプトを後にすることができたのです。
ファラオの怒りを恐れてミディアンに逃亡したモーセでしたが、「信仰によって」恐れから解放され、再びエジプトに向かいました。エジプトでファラオから憎まれ、同胞から恨まれても、モーセは「信仰によって」耐え忍びました。そして過越の方法をイスラエルの人々に伝え、人々は「信仰によって」それを実行し、救われました。40年前、「信仰」のなかったモーセはエジプトから「逃亡」するしかありませんでした。しかし、今は、「信仰によって」エジプトから「脱出」するのです。堂々とエジプトを去っていきます。私たちも、問題、課題、困難から逃げ出すのでなく、それを「信仰によって」解決し、乗り越えていきたいと思います。
心に恐れを覚えるとき、必ず助け、導いてくださる神に信頼しましょう。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(ペテロ第一5:7)と教えられているように、思い煩いのいっさいを神に委ね、進みましょう。
(祈り)
父なる神さま。恐れをいだき、忍耐を失くし、あなたのお言葉を信じきれないでいる私たちに、もう一度、「信仰によって」恐れを取り除かれ、信じて耐え忍び、御言葉に従うようにと教えてくださり、感謝します。御言葉の励ましによって、この週も、あなたに信頼して歩みます。「恐れないで、ただ信じていなさい」との語りかけをもって、なおも私たちを励まし続けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/16/2023