11:11 アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 こういうわけで、一人の、しかも死んだも同然の人から、天の星のように、また海辺の数えきれない砂のように数多くの子孫が生まれたのです。
こんなクイズがあります。「神さまに『歯』を入れてもらい、『胃』を取られた夫婦がいます。誰でしょう。」答は、アブラハムとサラです。アブラハムのもとの名は「アブラム」でしたが、神は、アブラムの子孫が増え広がって多くの民族が生まれることを予告して、彼に「諸民族の父」という意味の「アブラハム」という名を与えました。「アブラム」に「ハ」が入って「アブラハム」になったわけです。一方サラは、もとの名前は「サライ」でしたが、「女王」という意味の「サラ」となりました(創世記17:5, 15)。「イ」を取られたのです。笑い話にすぎませんが、アブラハムとサラのことを考えるときに、役に立つかもしれません。
一、神の約束
「名」は人格を表し、「名づける」というのは、その人格に対する「働きかけ」を表します。神はヤコブに「イスラエル」(神の皇太子)という新しい名前を与え、彼をのちのイスラエル12部族の父としました。イエスも、漁師シモンに「ペテロ」(岩)と名付けて、使徒たちを代表するものとされました。サウロも使徒となってからは「パウロ」と名乗って、新しい人生を始めています。同じように、神がアブラムとサライに新しい名前を与えたのは、アブラハムとサラを人生の新しい段階に導き、二人を通してそのお力を現そうとされたからです。それは、アブラハムとサラから、約束の子イサクが生まれ、アブラハムが文字通り、多くの民の父となることでした。
神は、アブラハムにこの約束を何度も繰り返しておられます。創世記13:15-16には、「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる」とあります。神は、アブラハムの子孫がカナンの地を受け継ぐと言われたのですが、この時、アブラハムには子どもがありませんでした。アブラハムは、自分の子どもがないため、自分のしもべのひとりを相続人にしようとしていました。しかし、神はアブラハムをその天幕から連れ出して、夜空を仰がせました。そして、こう言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。…あなたの子孫は、このようになる。」(創世記15:5)さらに神は、この約束を確かなものにするため、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」という契約をアブラハムと結ばれました(創世記15:18)。
神がアブラハムと契約を結ばれたのはアブラハムが85歳のときでした。アブラハムがカナンに旅立ったのは75歳でしたから、それから10年が経っていました。この10年、アブラハムは神の約束を信じ、神に従って歩んできました。ところが、神の約束の言葉にもかかわらず、アブラハムとサラには依然として子どもが与えられませんでした。そこで、サラの提案で、アブラハムがサラの女奴隷によって子どもをもうけ、その子をサラが自分の子どもにするということになりました。これは、古代では、子どものない夫婦が家督を継がせる子どもを得るためにした方法でした。その時代には許されていたことですが、神は、それを悲しまれました。また、このことは後に、アブラハム一家の大きなトラブルとなりました。女奴隷との間にイシュマエルが生まれたとき、アブラハムは86歳でしたが、それからのアブラハムには、以前のような信仰の輝きがなくなりました。神の言葉もアブラハムに臨むことがありませんでした。「信仰の父」、「神の友」と呼ばれたアブラハムにもこのような「スランプ」の期間があったのです。
けれども、アブラハムは神を忘れてはいませんでした。神もまたアブラハムを見捨てられませんでした。たとえ、私たちが「自分は、神さまから離れている」と感じたとしても、神の方から私たちを離れることはありません。神からまったく離れてしまっているなら、もう「神」という言葉を口にしなくなるでしょう。神を意識し、自分のあるべき場所を忘れていないからこそ、「離れている」ということが自覚できるのです。信仰をまったく失くしていたら、自分が「不信仰」だということも分からないでしょう。信仰が残っているからこそ、「不信仰」、つまり、信仰が足らないことが意識できるのです。マルコの福音書に、一人の父親が、息子の癒やしをイエスに願い出たことが書かれています。そのとき、彼は、イエスから不信仰を指摘されたのですが、「信じます。不信仰な私をお助けください」と言って、イエスにすがりました(マルコ9:24)。イエスは、彼の願いを受け入れ、彼の子どもは即座に癒やされました。自分の「不信仰」を自覚したなら、「不信仰な私をお助けください」と祈ればいいのです。哀歌3:22は、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ」と言っています。神の約束が実現し、その契約が成就するのを待ちきれなくなって、人間的な方法に走ってしまったアブラハムとサラと同じようなことを、私たちもしてしまうかもしれません。それが、神のみこころにかなわないことだと気づいたら、すぐに神のあわれみを求めましょう。「主よ、あわれんでください」との祈りは、どんな場合でも、私たちに残されているのです。
神がアブラハムに現れ、彼に新しい名前をお与えになったのは、彼を信仰のスランプから救い出し、神の民の父祖としてふさわしいものにするためでした。神を信じている者が、本気で神に信頼し、従うようになること、それを、私たちは「リバイバル」と呼んでいます。神は、じつに、「リバイバル」の神です。神が、神を「信じる者」、神に「従う者」、神を「愛する者」、神の「栄光を表す者」という新しい「名前」で私たちを呼び、私たちの信仰を新しくしてくださることを願い、神のあわれみを求めて祈りましょう。
二、アブラハムの信仰
さて、神がアブラハムに現れ、新しい名前をお与えになったのは、イシュマエルが生まれて13年が経ったときでした。神はアブラハムにこう言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」(創世記17:1)しかし、アブラハムは心の中で言いました。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか。」(創世記17:17)いくら古代の人々が年齢以上に若々しかったとしても、女性が子どもを生むことができる年齢は決まっています。アブラハムが「百歳と九十歳の夫婦に子どもが生まれるだろうか」と考えたのも無理はありません。しかし、神はご自分を「全能の神」と呼び、アブラハムに、「全能の神」を信じる信仰を求められたのです。
アブラハムは、この神からの呼びかけによって信仰を取り戻していきました。創世記には、アブラハムが、どのようにして信仰を取り戻したかについて書いてはいませんが、新約聖書は、それを明らかにしています。ローマ4:19-21にこうあります。「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」ヘブル11:11はこう言っています。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」ヘブル人への手紙は、アブラハムが「全能の神」を信じただけでなく、「真実な神」をも信じたことを教えています。アブラハムは「神の全能」の力だけでなく「全能である神」を、「神の真実」だけでなく「真実である神」を信じたのです。「神の全能」や「神の真実」を信じるというのは、どちらかいえば、理論的なことです。神の全能や真実について、「神は全能だから、そのことができてあたりまえだ」、「神が真実なお方でなければ、神とはいえない」などと納得するだけで終わってしまうことがあります。しかし、「全能の神」、「真実な神」を信じるというのは、神について、何かを信じることではなく、神ご自身を信じることを意味します。アブラハムは、神にはそのことができるというだけでなく、神が、自分のためにそのことをしてくださると信じました。私たちも、たんに神が何かができる(He can do it.)というだけでなく、神はそのことをしてくださる(He will do it.)という確信を持って、「全能の神」、「真実な神」に信頼したいと思います。
三、サラの信仰
アブラハムは、このように信仰に立ち返ったのですが、サラはどうだったでしょうか。神がアブラハムだけでなくサラにも新しい名前をお与えになったことは、神がサラの信仰にもリバイバルを与え、サラが神の民の「母」となるようにしてくださったことを教えています。
神はアブラハムに現れたのち、もう一度、アブラハムを訪れました。そのとき、神は「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには男の子が生まれています」と言われました(創世記18:10)。それを聞いたサラは、その言葉を信じることができず、心の中で笑いました。それは「そんなことがあるわけがない」という不信仰の笑いでした。
しかし、それから一年経って、サラに男の子が生まれました。その子は、生まれる前から決められていたとおり、「イサク」と名付けられました。「イサク」には「笑う者」という意味があります。アブラハムもサラも、最初、二人に子どもが生まれると聞いたとき、不信仰になって「笑い」ました。しかし、今、アブラハムとサラは、イサクの誕生を喜び祝って、笑っています。神は不信仰の笑いを信仰の笑いに変えてくださったのです。詩篇126:1-2にこうあります。「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。」信仰のリバイバルが起こるとき、不信仰の冷たい笑いは消え、心からの喜びの笑いが生まれるのです。
創世記では、やがて来られる救い主を「女の子孫」と呼んでいます(創世記3:15)。誰もが母親から生まれるのですから、救い主が、わざわざ「女の子孫」と呼ばれるのは不思議な気がします。そこには、さまざまな意味があるのですが、その一つは、約束の救い主の誕生のために、神が、男性ばかりでなく、女性の信仰を用いられるということです。ユダヤの系図には、普通、男性の名前だけが記されます。イエスの系図で言えば、「アブラハム、イサク、ヤコブ」、そして、「ダビデ、…ヨセフ、ヨセフの子イエス」といったふうにです。しかし、実際に子どもを産むのは女性です。また、幼い子どもを育て信仰を教えるのも、おもに母親の役割です。聖書は「サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です」(ペテロ第一3:6)と言って、サラの従順をほめています。イサクはその従順によって知られるようになるのですが、それはサラから受け継いだものだと思われます。サラは、その信仰によってイサクを産んだだけでなく、信仰によってイサクを育てたのです。
祝福はアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと受け継がれ、そして、約束の救い主イエスに至りました。イサクが生まれなければ、イエスも生まれませんでした。そして、イサクの誕生の背後には、アブラハムの信仰はもちろんですが、サラの信仰もありました。イサクの誕生は、ご自分の約束を守ってくださる真実な神によってなされたものです。まさにイサクは「約束の子」です。しかし、同時に、イサクは全能の神、真実な神を信じたアブラハム、サラの「信仰の子」でもあったのです。私たちも、神への信仰を新しくしていただき、私たちの人生の中に神の全能と真実が働き、神の約束が成就するのを見たいと思います。そのことを信じて祈り求めていきたいと思います。
(祈り)
全能の神さま、あなたはどこまでも真実で、あわれみ深いお方です。あなたがアブラハムとサラに現れ、彼らの信仰を新しくしてくださったように、私たちにも、御言葉をもって臨み、私たちの信仰を新しくしてください。彼らの信仰を通して祝福の約束を実現してくださったように、私たちを通してあなたの救いの祝福が広がっていくのを見せてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/12/2023