四つの励まし

ヘブル10:22-25

オーディオファイルを再生できません
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

 今日は「昇天主日」です。主イエスは十字架から三日目に復活され、四十日にわたって、ご自分が生きておられることを五百人以上の弟子たちに示されました。その間、主イエスは弟子たちに聖書を解き明かし、全世界に出て行って伝えるべき福音を、弟子たちに手渡されました。そして、天に昇っていかれたのです。今年のカレンダーでは先週の木曜日が主イエスの昇天日でしたが、私たちは、今日の礼拝で、主イエスの昇天を覚えることにしました。

 今朝の聖書は、ヘブル人への手紙ですが、この手紙は、十字架の上で、私たちの救いをなしとげ、復活し、天に昇り、父なる神の右の座に着いておられるイエス・キリストの姿を描いています。使徒信条で、主イエス・キリストについて「天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白されている通りです。

 ヘブル10:22は「そのようなわけで」と言っています。「どのようなわけ」でしょうか。それは、「主イエスが天に昇り、父なる神の右で、あわれみ深い大祭司として、私たちのために、とりなしていてくださる」ということです。聖書は、主イエスの昇天のゆえに、「神に近づこうはありませんか。」「希望を告白しようではありませんか。」「注意し合おうではありませんか。」「いっしょに集まろうではありませんか。」という四つの励ましを私たちに与えています。

 一、神に近づく

 第一の励ましは、22節です。「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧められています。「心に血の注ぎを受け、からだをきよい水で洗われた。」というのは、主イエスの十字架を信じる信仰とバプテスマ(洗礼)を意味しています。私たちは主イエスの十字架の血によって罪の赦しばかりでなく、罪からのきよめをもいただきました。バプテスマ(洗礼)は、罪の赦しときよめを目に見える形であらわし、それを確かなものにするものです。今日は、バプテスマ(洗礼)式があり、きょうバプテスマ(洗礼)を受けた人たちだけでなく、すでにバプテスマ(洗礼)を受けた者たちも、バプテスマ(洗礼)によって保証されている罪の赦しときよめの約束を新たに思い見ることができました。バプテスマ(洗礼)を受けた者は、バプテスマ(洗礼)式の時ばかりでなく、毎週の礼拝で、また、日ごとにバプテスマ(洗礼)の恵みを思い見る必要があります。地上では罪を犯さない人はいませんから、罪の赦しと、罪からのきよめは、特別な時だけでなく、日ごとに必要です。

 「全き信仰をもって、真心から神に近く」というのは、何の罪もない完全を言っているのではありません。「全き信仰」というのは、「私に必要なのは罪の赦しであり、罪からのきよめです。主イエスによってしか、私の罪の赦しはなく、きよめもありません。」と信じ、罪を悔い改めて、神に近づく信仰のことです。「真心から」というのも、同じような意味です。大きな手術をする時、他の医者から「セカンド・オピニオン」を聞くことがあります。しかし、たましいの医者であるイエスにいやされようとする時には、「セカンド・オピニオン」はいらないし、求めるべきではないのです。ただ主イエスだけに聞き、主イエスだけに任せる。それが「真心から」という意味です。聖書は「神に近づきなさい。そうすれば神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)と言って、真剣に神に近づくことを求めています。

 二、希望を告白する

 第二の励ましは、23節です。「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」ここで言われている「希望」とは、主イエスの再臨のことです。主イエスが天に昇られたのは、そこから、もう一度この地上においでになって、救いを完成してくださるためです。イエス・キリストが十字架で死なれ、復活し、再び来られる、これは、聖書の教える信仰の中心です。テサロニケ第一1:9-10は「あなたがたは偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになった。」と言っています。ピリピ3:20にも「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」とあります。

 この希望、つまり、キリストの十字架と復活と再臨を人々に伝えることが、伝道であり、あかしです。ペテロ第一3:15は「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」と教えていますが、あなたの心にはキリストの十字架があるでしょうか。復活のキリストがおられるでしょうか。キリストの再臨の希望に心が燃えているでしょうか。私たちのうちにある希望を人々に分かち与えることができる者にさせていただきましょう。

 三、互いに勧めあう

 第三の励ましは、24節です。「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」これは、クリスチャンのまじわりについての励ましです。クリスチャンのまじわりは、たんなる「お付き合い」や「助け合い」ではなく、それによってお互いが霊的、信仰的に成長していくまじわりです。テサロニケ第一5:14-15も「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」と教えています。このみことばに励まされ、キリストが私たちに求めておられるまじわりをつくりあげていきたいと願っています。

 四、いっしょに集まる

 第四の励ましは、25節です。「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」聖書で「いっしょに集まる」というのは、常に、礼拝や聖餐のために集まることを意味しています。趣味の会や同好会なら、都合が悪くなってそこから遠ざかるということはあるでしょう。しかし、天におられる神と、その右に座しておられるイエス・キリストを礼拝する礼拝から遠ざかるということはあってはなりません。ヘブル人への手紙が書かれた時代にも、礼拝から遠ざかる人が少なからずいたので、聖書は「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、…」と言っています。私たちは礼拝から遠ざかっていく人に真似るのでなく、礼拝を守っている人に見習いましょう。みずからがしっかりと礼拝を守ることによって、まだ礼拝に出ていない人たちや礼拝から遠ざかっている人たちを、礼拝に招くことができるのです。

 「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とある「かの日」とは、キリストの再臨の日です。礼拝は、キリストの再臨への備えです。再臨の時、キリストは世界中の聖徒たちを生きた者も、死んだ者も、ご自分のもとに集められます。死んだ者は栄光のからだに復活し、生きている者は栄光のからだに変えられて、主のもとに集うのです。毎週日曜日の礼拝は、復活のキリストを礼拝するとともに、再臨のキリストを待ち望むためのものです。とくに聖餐はそうです。コリント第一11:26に「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とあるように、聖餐はキリストが十字架で成し遂げてくださった救いを感謝し、その救いがキリストの再臨のときに完成されることを待ち望むために行われます。私たちは地上で聖餐を重ねながら、キリストの再臨の時に開かれる天の晩餐に加えられるのです。もし、あなたが大統領によってホワイトハウスの晩餐会に招かれたら、それを無視するでしょうか。そんなことはありませんね。聖餐は、全世界の王であり、すべてのものの主であるお方が招いておられる晩餐です。年六回しかない聖餐をスキップすることがないように最善の努力をはらって、これを守りましょう。

 今朝の四つの励ましは、単なる勧めのことばではありません。これは、このことばに従うなら、その通りのことが実現するという約束のことばでもあります。なぜ、そう言うことができるのでしょうか。それは、主イエスが天に昇り、父なる神の右に座していてくださるからです。キリストがそこから私たちの弱さを思いやり、私たちに力を注いでくださるからです。天におられる主イエスを仰ぐなら、私たちは、この四つの励ましを実行していくことができるのです。

 (祈り)

 愛と、慰めと、励ましのみなもとである神さま、今朝、バプテスマを受けた人々のために、また、バプテスマの誓いを新しくした私たちに、四つの励ましのことをいただき、ありがとうございました。私たちが、これらの励ましに従うことができるのは、天におられる主イエスのゆえです。あなたの右に座しておられる主イエスが、これらの励ましに従おうする者たちを導いてくださいますように。主イエスのお名前で祈ります。

5/20/2007