1:12 主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。
1:13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。
1:14 あなたは人を海の魚のように、治める者のないはう虫のようにされます。
1:15 彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。
1:16 それゆえ、彼はその網にいけにえをささげ、その引き網に香をたく。これらによって、彼の分け前が豊かになり、その食物も豊富になるからだ。
1:17 それゆえ、彼はいつもその網を使い続け、容赦なく、諸国の民を殺すのだろうか。」
一、信仰と疑問
ある人からこんなメールを受け取りました。「今の教会は、疑問を持つことを許されないような、雰囲気があります。答えは常に与えられていて、それに合わせなければ、よき教会員にあらず、のような無言の空気です。」短い文面ですが、私はこの人のことをよく知っているので、何を言いたいかがすぐに分かりました。この人は、人生のあらゆる問題の解決が神にあり、聖書にその答えがあることをかたく信じている人です。しかし、神に信頼し、神の言葉に従って生きるという生き方には、すべての人に共通したものと共に、その人と神との関係の中で試行錯誤しながら選び取っていかなければならないものもあります。ですから、神の言葉をあてはめていく時、「私の場合はどうしたらいいだろうか」と思い悩むこともあるのです。教会で行われていることでも、「これでいいのだろうか」と疑問を持つこともあるでしょう。そんな思いを打ち明けても、「考えたり、悩んだり、疑問を持ったりしないで、みんなが考えるように考え、みんながするようにすればいいのだ」などと言われたら、深い失望を感じてしまうことでしょう。もし教会にそんな雰囲気があれば、教会は一つの方向だけに進んでいくカルト的なものになってしまう危険があります。
信仰とは、知性も理性も無視して頭から信じ込むことではありません。聖書は「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)と教えています。また、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)とも教えています。「霊とまこと」の「まこと」は他のところで「真理」と訳されています。「真理」は知性や理性と結びついたものですから、「真理」によって礼拝するという場合、それは知性を用いて礼拝するということになります。ですから、コリント第一14:15には、「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」と言われているのです。霊と知性は決して矛盾するものではなく、霊は知性を明らかにし、知性は霊を導くのです。
神を信じ、従うことに知性がかかわっていますが、人間の知性には限りがありますから、私たちが「なぜなのですか」「どうしてそうなのですか」という疑問を持つのは、当然のことなのです。詩篇には「なぜ」という言葉が繰り返され、しつこく問い詰めている箇所が数多くあります。また、「いつまで」という言葉も頻繁に使われています。たとえば詩篇74:1には「神よ。なぜ、いつまでも拒み、御怒りをあなたの牧場の羊に燃やされるのですか」とあって、「なぜ」と「いつまで」が両方使われています。では、「なぜ」、「いつまで」と祈った、詩篇の作者は不信仰な人たちなのでしょうか。いいえ、彼らは神を信じ、神の民のために真剣に、熱心に救いを求める人たちでした。真剣で、熱心であったからこそ、なぜ神の民が苦しみ続けなければならないのか、正しい者を苦しめる者が懲らしめられないでいるのかということ問い続けたのです。
信仰を持つ者は「疑問」を持ってはいけないのだと言われることがありますが、それは正しくはありません。「信仰」の反対語は「疑い」であって「疑問」ではないからです。神を信じない人は、神のなさることについて「疑問」を持ちません。神はいないと信じていますから、疑問の持ちようがないのです。信仰者は、神を信じるからこそ、神が、なぜ、このように言われ、このようなことをされるのかを知ろうとして「疑問」を持つのです。
二、疑いと疑問
ルカの福音書1章に「疑い」と「疑問」の違いを示す出来事が記されています。それは、ザカリヤとマリアのことです。ふたりに御使いが現われ、それぞれにヨハネの誕生とイエスの誕生が告げられました。ザカリヤとエリサベツ夫妻は子どもがなく、ふたりともすでに高齢になっていました。天使はザカリヤに「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」(ルカ1:13)といううれしい知らせを告げましたが、ザカリヤはそれに対して「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」(同1:18)と答えました。これは、「私たちは子どもを持つことを何年も前にあきらめている。そんなことはありえない」という気持ちから出たものでした。ザカリヤは神の言葉も、神の力も、信じなかったのです。御使いがザカリヤに「見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、…ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです」(同1:20)と言った通りです。
御使いはマリアにも現われて、こう言いました。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:30)これに対してマリアは「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(同1:34)と答えました。マリアは「どうして」と言いましたが、それは、ザカリヤが口にしたような疑いの言葉ではありませんでした。「未婚の自分がどうやって子どもを産むのだろう。神は、私に何をしようとしておられるのだろう」という素直な「問い」でした。その答を聞いた時、マリアは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(同1:38)と言って、神の言葉を受け入れています。エリサベツがマリアに「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(同1:45)と言ったように、マリアは模範的な信仰者でした。マリアが「どうして」と問うたからといって、マリアが不信仰であったということはできないのです。
信仰と疑問は矛盾しません。矛盾しないどころか、神のみこころを問う疑問は信仰を成長させるのです。マリアは「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人」でした。しかし、同時に、主が語られたことの意味を問い詰める人でした。マリアはイエスを出産した日、羊飼いたちが話した不思議な出来事を黙って聞き、それらを「すべて心に納めて、思いを巡らして」(ルカ2:19)いました。出産から四十日目の宮詣での日、シメオンはマリアにこう語りました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」(同2:34-35)これを聞いたマリアの心は、それこそ剣で刺されたような痛みを覚えたことでしょうが、マリアはこうした言葉も心に留めていました。
ルカ2:41-52にはイエスが12歳の時、両親と共にエルサレムに行った時のことが書かれています。神殿での礼拝を終えてナザレに向かって一日の道のりを行ったところで、ヨセフとマリアはイエスがいないことに気付きました。ふたりがエルサレムに引き返すとイエスは神殿で学者たちの話を聞いたり、質問したりしていました。そのときイエスはヨセフとマリアに言いました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」(ルカ2:49)ふたりは、なぜイエスが、自分たちを困らせるようなことし、こんなことを言ったのか分かりませんでした。しかし、「母はこれらのことをみな、心に留めておいた」(同2:51)のです。マリアはイエスの言葉を心に納め、その意味を問い続けました。そして、イエスが我が子でありながら、同時に、神の御子であることを悟りました。マリアはイエスの母となっただけでなく、イエスを神の子と信じ、イエスを主として従う信仰者になったのです。
聖書は私たちに命じています。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(ぺテロ第二3:18)私たちは神のみこころやみわざのすべてを知り尽くすことはできませんが、イエス・キリストを知ることにおいては、そのリミットを広げていくことができるのです。神の言葉を心に蓄え、神の言葉に問い、神の言葉から答を聞くことによって、主を知る知識は成長していきます。「疑問」は信仰の敵ではありません。信仰の敵は、問うことすらしない無気力なのです。
三、預言者と疑問
さて、今日の箇所は、預言者ハバククの言葉です。預言者ハバククは南王国ユダの預言者でした。バビロンにネブカドネザルという強力な王が起こり、そのころのユダは風前の灯火といった状態でした。そうした危機のときこそ、主に立ち返らなければならないのに、人々はどんどん主から離れていき、社会はますます混乱していきました。ハバククは、「主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が『暴虐。』とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか」(ハバクク1:2)と言って、必死になって神の救いを叫び求め、それを待ち望みました。ハバククも詩篇74の作者と同じように、「なぜ、いつまで」と神である主に問い続けたのです。
ハバククを悩ませた疑問は、なぜ主はバビロンを罰しないのかということでした。12節で「主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました」とありますが、この「彼」はバビロンのネブカデネザルのことです。ハバククは、主がご自分の民を懲らしめるために、バビロンを用いておられることを知っていました。そして、神がこの世の悪を使って、神の民の悪を懲らしめることをある程度受け入れていました。しかし、バビロンが神の民に対してすることはあまりにも残酷でした。それでハバククは「なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか」と言って、「確かにユダは罪深い。しかし、バビロンはユダよりももっと大きな悪ではないのか。なぜあなたは黙っておられるのか」と、主に向かって祈ったのです。
ハバククは預言者でした。預言者として神の言葉を伝える責任がありました。しかし、神の言葉を得ることができませんでした。彼は、偽りの預言者たちが「平安だ。平安だ」とか「これは主の宮だ。これは主の宮だ。これは主の宮だ」という気休めの言葉を語るようなことはしたくなかったのです。それで、ハバククは、「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(2:1)と言って、神の言葉が与えられるまで、それを熱心に求めました。
イエス・キリストを信じる者は神の言葉を持っています。「神が人を愛し、イエス・キリストによって、永遠のいのちを与えてくださる」という福音を知っています。ですから、確信をもって「イエス・キリストを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と言うことができます。しかし、私たちの人生に起こる様々な出来事、とりわけ、悲惨な出来事について、「神が愛なら、なぜこんなことが私に起こったのか」と質問される時、どんな場合でも的確に答えることができるとは限りません。私は、以前、ひとりの青年に会いました。彼の両親は彼の見ている前で強盗に殺されたのです。私は、そういう人に、その出来事についての納得のいく説明などできないと思いました。それは全くの悲劇です。それに答える唯一の方法は、私自身が、その人の立場に立って、「主よ。なぜなのですか」と、主に問い続ける他ないと思いました。通り一遍の答は、たましいの深い疑問に対しては何の役にも立たないばかりか、傷ついている人をさらに苦しめるだけなのです。
ハバククは答を求めて苦闘しました。ユダの国の心ある人々とともに苦しみながら、疑問をぶつけながら、主に迫りました。そして、「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(2:3)という答を得ました。「それ」とは神の定めの時、審判と救いの日です。神ご自身が来られて、悪を裁き、神の民を救われるのです。3章はハバククの祈りですが、楽器の伴奏つきで歌われています。ハバククの信仰の疑問は、答えられ、それは賛美となって神にささげられました。思い悩み、疑問を抱えている人に、「そんなに考えないで賛美しなさい」と言うことができないわけではありません。しかし、神への賛美は、やはり、「なぜ」、「いつまで」と問い続け、答を得た後ではじめて生まれるものだと思います。信仰の疑問をごまかさず、そこから逃げ出さないで、神に問い続け、神の言葉を待つ。それが、私たちを救いへと導くのです。
(祈り)
聖なる神さま。あなたは天の聖所におられ、地を治めておられます。地上にある私たちはあなたのみこころとみわざのすべてを知りつくすことはできません。常にあなたに問い続け、あなたからの答を得ることができますよう、導いてください。そして疑問が賛美へと変わる時を待ち望ませてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/10/2019