6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
6:8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
6:9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:10 ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。
一、ノアの時代
ノアは、今から4500年も前、バビロニアにいた人です。このノアの時代に大洪水が起こりました。バビロニアの古代の町の発掘では、どこでも何の遺跡も混じっていない粘土層が見つかっており、これは大洪水によるものであると思われています。ウルを発掘したペンシルバニア大学のC.L.ウーリー博士は厚さ2.5メートルの水性粘土層を見つけ、その下にさらに古い時代の都市の廃墟を見つけています。オックスフォード大学のスティーブン・ラングドン博士はキシュの町の粘土層の下に、四輪の戦車とそれをひいた動物の骨を発見しました。ノアがいたと思われている町、ファラは、ペンシルヴァニア大学のエリック・シュミット博士によって発掘され、洪水層の下には彩られた土器や円筒型の印章、壺や鍋などが見つかっており、これによって人々が高度な文化生活を営んでいたこと、その生活が突然の洪水によって滅びてしまったことが分かっています。
ノアの時代には文明が発達し、人々はその恩恵を受けていましたが、道徳的にはまったく堕落したものでした。聖書は「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。」(創世記6:11-12)と言っています。ここで「暴虐」と言われているものがどんなものであったかについて、聖書は詳しくは書いていません。しかし、人間の本性というものは、昔からほとんど変わってはいませんから、昔あったことは今もあり、今あることは昔も同じだったと思います。洪水の前、人々はまことの神への信仰を捨てて偶像礼拝にふけり、お互いに争ったり戦ったりして、殺人や強盗、暴力や虐待、詐欺や不正が日常のように行われていたのでしょう。洪水の後、神は「あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復する…人の血を流すものは、人に血を流される」(創世記9:5-6)と言っておられますから、洪水前には、流血が日常茶飯事であったと思われます。
カインがアベルの血を流して以来、人類から流血は絶えません。今も同じことが続いていますが、最も恐ろしいことは、それが「あたりまえ」になっていることです。アメリカでも日本でも殺人があっても、よほど特別な事件でない限りニュースにもなりません。主イエスは洪水前の人々の生活について、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」(マタイ24:38)と言っておられます。主は、人々が悪事に慣れてしまい、何の緊迫感も持たず、「食い、飲み、めとり、とつぎなどして」我が世を楽しんでいることに警告を発されたのです。
テキサスでは、今年の春は雷雨が多く、ラジオやテレビの番組が警報で中断されることがよくありました。わたしたちは、最初の警告の時には緊張するのですが、嵐が過ぎると、次に警報が入っても「今度も大丈夫だろう」と思ってしまいます。こういう心理を「正常性バイアス」と言います。人は危険を感じると、そのストレスを軽減するため、無意識のうちに、危険を見て見ぬふりをしようとします。「これは異常な状態ではない。正常な範囲の一つだ」と自分を納得させようとするのです。そのため警報を無視したり、軽く扱ったりして、大きな被害を受けることが多いのです。
それと同じことは、罪についても起こります。世の中が乱れていることがあたりまえになってしまい、罪に対する感覚が麻痺してしまうのです。罪を罪として認めなくなった社会、善悪を識別しなくなった社会、それがもっとも罪深い社会です。そんな意味では、現代もまた洪水前の時代と変わらないと思います。
二、ノアの信仰
ノアは、そのような時代に生きた人でした。聖書は「ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ」(9節)としるしています。これは、ノアが完全無欠で、何の落ち度もなかったということではありません。失敗も、弱さもあったでしょう。罪を犯すこともあったでしょう。しかし、ノアは、その時代に染まらず、「神とともに」に歩みました。時代とともにでも、まわりの人々といっしょにでもなく、「神とともに」歩んだのです。そして、ノアにとって「神とともに歩む」とは、具体的には、「神の言葉に従って歩む」ということでした。
ノアは、神から、やがて大洪水が起こることを知らされ、箱舟を作るようにとの指示を受けたとき、それに従いました。ノアはその言葉に従うことによって神と共に歩みました。
ノアが住んでいた町は、今ではユーフラテス川から40マイルも離れていますが、ノアの時代には、ユーフラテス川がその町のすぐそばを流れていたことが知られています。ノアは、川を通きかう船をいつも見ており、船を作る技術を身につけていたのでしょう。けれども、ノアが作りはじめたのは、今日の10万トン級のタンカーに匹敵する巨大な船でした。30階建てのビルディングを横に寝かせたような大きさといったほうが分かりやすいかもしれません。「こんなものをつくって、どうやってそれを川にまで運ぶんだい?」と、人々は、ノアの作っている船を物笑いの種にしたことでしょう。しかし、ノアはこの町もやがて大水の下となることを確信していました。
創世記6:3に、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」という言葉があります。これは、洪水後の人間の寿命が長くても120年という意味とも、また、洪水が起こるまでの期間が120年という意味とも取れます。もし、洪水までが120年という意味なら、ノアは、120年も先のことに備えて行動を起こし、まだ見てもいない大洪水のために箱舟を作り出したことになります。人々にはまだ見えなかった大洪水を、ノアは神の言葉によって見て、その備えをしたのです。洪水ばかりでなく、ノアは洪水の後開かれる新しい世界をも見ていました。信仰は、今の世界だけでなく、将来の世界をも見せてくれます。そして、将来のために今、なすべきことをさせてくれるのです。
ヘブル人への手紙に、ノアの信仰について、こう書かれています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。」(ヘブル11:7)ここで大切なのは「まだ見ていない事がら」という言葉です。ヘブル11:1に「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあるように、ノアは、まだ見ていない将来をすでに見たかのようにして行動を起こしました。建物を建てるときには設計図を描きますが、同時に完成予想図も描きます。わたしたちの人生も同じように、神の言葉というマスタープランに従い、信仰によるヴィジョンを持つことによって、確かなものとなっていくのです。わたしたちも、ノアのように、今は見えなくても必ずやってくるものを見る、信仰のヴィジョンを与えられたいと思います。
三、ノアの家族
まわりのみんなが、神の言葉に耳を傾けることも、従うこともしなかった時代にノアが神の言葉に従い通すことができたのはなぜでしょうか。誰もが、その日、その時の楽しみだけを求めて生きていた時代に、ノアが将来に目を向けることができた秘訣はノアが築いた「家族」にありました。ノアの家族は、ノアと同じ信仰を持ち、神の言葉に従いました。ノアのまだ若い息子たちが、まわりの人々に同調することなく、父親を通して与えられた神の言葉に従ったのは、素晴らしいことです。家族が一つ思いになり力を合わせたからこそ、ノアは箱舟を作りあげ、世界を救うという使命を果たすことができたのです。ノアは家族を導きましたが、同時に家族によって支えられました。
親は、子どもに信仰を教えるのですが、時には、子どもから信仰を教えられることがあります。あれこれ考え、くよくよしている時に、子どもから、「お父さん、お祈りすれば大丈夫だよ。お母さん、イエスさまがいっしょだからね」と言われたことが皆さんにもあると思います。また、子どもが信仰を持つのに反対していた親であっても、年老いて、子どもの世話になるとき、ほとんどの場合、クリスチャンになった子どもに頼るようになります。日本でのことですが、ある農家の長男が信仰を持ち、クリスチャンの女性と結婚しました。キリスト教嫌いの舅はことごとく嫁につらく当たりました。けれども彼女はそれに耐え、その舅も、ついに信仰を持ち、バプテスマを受けました。信仰は最終的には家庭に祝福をもたらすのです。
まだ信仰を持たない人と結婚しても、信仰を持つ人の熱心な祈りとあかしによって配偶者が信仰に導かれることは良くあることです。しかし、安易な気持ちで信仰を持たない人と結婚してしまうと、それと逆のことが起こります。ノアの時代がそうでした。ノアの時代が乱れていたのは、神を信じる者たちが、信仰ある人を結婚相手に選ばず、自分たちの思うがままに「めとり、とつぎしていた」ことにありました。6:1-2に「人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」とあります。ここでいう「神の子たち」とはセツの子孫 で信仰者のこと、「人の娘」とはカインの子孫で信仰を持たない人々のことです。信仰者は世の光、地の塩です。ところが、ノアの時代には、信仰者たちは、信仰を持たない人々との結婚によって、光や塩気を無くし、この世に呑み込まれてしまったのです。それで、ノアは、三人の息子たちが信仰ある女性と結婚するように心を配ったのです。
ノアの時代からずっと後になりますが、アブラハムの甥であったロトは、娘の結婚に心を配りませんでした。ロトの娘たちは信仰を持たない男性と結婚することになっていました。ロトの住む町がその不道徳のために滅ぼされようとしていたとき、ロトはそのことを娘の夫になる人たちに告げましたが、彼らはそれを「冗談」としてしか受け取れませんでした。聖書に「それはむこたちには戯むれごとに思えた」(創世記19:14)とあります。ロトは娘むこたちを救うことができなかったのです。
わたしたちは誰も、ひとりでは、この世に立ち向かうことはできません。そればかりか、自分の信仰すら守れない場合もあります。しかし、家族がひとつの信仰で結ばれるなら、それに支えられます。ノアは、アダム、セツ、エノシュ、ケナン、マハラエル、エレデ、エノク、メトシェラ、そして父親のレメクと長い間続いた信仰者の家系の中に生まれ、信仰を育まれてきました。ノアは信仰を支える家族の役割を良く知っていました。
信仰の家族を持つことは何にも替えられない祝福ですが、たとえ、あなたが家族を持たなかったとしても、また、家族や親族の中でたったひとりのクリスチャンであったとしても、力を落とすことはありません。あなたには教会があります。教会は大きな神の家族です。わたしたちはここで信仰を育てられ、支えられていきます。ここで、自分の家族や親族にあかしする力を受けるのです。
ノアは、「暴虐が満ちていた」時代に、信仰の家族を築きあげ、その家族とともに、世界の救いのために働き、人類の将来を切り開きました。父の日を迎えたきょう、わたしたち父親は、家族のいちばんの幸せが何にあるのかをしっかりと考えてみたいと思います。ノアのように、神の言葉に従うことによって、また家族の将来を見る信仰によって、家庭を導いていきたいと思います。また、教会という神の家族に属するわたしたちひとりひとりも、この神の家族の中での自分の役割をしっかりと考えたいと思います。ノアとノアの家族はたった八人でも救いの箱舟を完成させました。ここには、その何倍もの人たちがいます。信仰の家族が、神の言葉によって生かされ、信仰のビジョンをひとつにするなら、必ず、人々の救いのためにその使命を果たすことができます。そのことを信じて、この時代の救いの箱舟である教会をともに建て上げていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちの時代も、ノアの時代と同じように、曲がった、暗い時代です。その中で、家庭を築き、守り、導こうとしている父親たちの労苦を見て、助けてください。父親たちの父であるあなたへの信仰を、父親たちにお与えください。暗い時代の中でも、みことばの光によって、あなたの望んでおられることを、はっきりと見ることのできる、信仰のビジョンを与えてくさい。そして、それに向かって行動を起こすことができますように。主イエスのお名前で祈ります。
6/21/2015