ヤコブ―信仰の勇者(4)

創世記32:13-32

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32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。
32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、
32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。
32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」
32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、
32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」
32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、
32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。
32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。
32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。
32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。
32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。
32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。
32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。
32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

 信仰の勇者の四人目はヤコブです。アブラハムの子がイサク、イサクの子がヤコブで、「すべての人々の祝福の基となる」という約束は、アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれてきました。神はご自分を「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んでおられますが、それほどに、アブラハム、イサク、ヤコブは特別な存在でした。

 ヤコブは「波乱万丈」という言葉がぴったりな人生を送りました。ヤコブの生涯は創世記25章から49章までに詳しく書かれており、その全部を学ぶことはできませんので、今朝は、叔父ラバンのもとから故郷に帰ろうとしているヤコブの姿を学ぶことにします。この箇所は、ヤコブの生涯の一齣にすぎませんが、ヤコブの生涯を変えた大きな出来事が描かれています。ここから、今日の私たちにも当てはまる霊的な教訓を学んでおきましょう。

 一、ヤコブの恐れ

 ヤコブは、叔父のラバンのもとで二十年を過ごし、この時、生まれ故郷に帰ろうとしていました。ラバンのところへは、彼ひとりで、何も持たないで行きましたが、故郷に帰る時にはふたりの妻と十一人の男の子、大勢のしもべ、はしため、それに家畜の群れを持つようになっていました。神はヤコブが叔父のラバンのところに行く時、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:13-15)と言われましたが、そのとおりのことをしてくださったのです。「故郷に錦を飾る」という言葉のとおり、ヤコブは胸を張って、堂々と故郷に帰ることができたはずでした。

 しかし、故郷が近づくにつれて、ヤコブの心にはひとつの恐れが募ってきました。それは、ヤコブの行く手にまちかまえている兄エサウへの恐れです。二十年前、イサクは、兄エサウに扮装して、目がよく見えなかった父イサクをだまして、祝福を横取りしました。兄エサウは、弟のしたことに怒り狂って、ヤコブを殺してやろうと狙うようになりました。ヤコブが叔父ラバンのところに行ったのは、じつは、兄エサウの手から逃れるためだったのです。ヤコブは、兄のもとに使者を送り、エサウの様子をさぐらせましたが、なんとエサウは四百人の手勢をつれてヤコブのところに向かってくるというのです。「たとえ二十年の年月が経っていてもエサウの怒りはまだ解けていない。せっかく得た財産も、家族もエサウに奪われ、私の命もまたエサウに奪われてしまう。」と、ヤコブは恐れたのです。

 二十年という長い年月が経っても、ヤコブが、過去にしたことは、帳消しにはなっていませんでした。おそらく、ヤコブは、叔父ラバンのもとで過ごした二十年の間、おりに触れて兄エサウのことを思い出し、自分がしたことに良心の呵責を覚えていたことでしょう。ヤコブは二十年間、この問題から逃げていただけで、何の解決もしていなかったのです。ヤコブにとってエサウに出会うことは、ヤコブの過去と出会うことでもあったのです。ヤコブは、ここで再び、兄との和解という問題に直面しなければならなくなりました。私たちも、過去の問題、特に罪の赦し、人との和解という問題をそのままにしておいてはいけないということを教えられます。今日、精神的な病を持つ人が増えています。専門家たちは、その原因の多くが、過去の問題が清算されていない、赦しと和解を体験していないからだと指摘していますが、それは、聖書がすでに教えていたことでした。罪の赦しを体験しないまま問題を先送りしても、いつかどこかで、必ずその問題にぶつかるでしょう。たとえ、この地上で問題を避けることができたとしても、やがて、神の前に立たなければならない時がやってきます。私たちには、イエス・キリストによる罪の赦しと、神との和解、そして、人との和解の道が示されています。もっと大きな問題に直面する前に、今というこの時、罪の赦しと和解とを自分のものとしようではありませんか。

 二、恐れと人間の努力

 さて、いよいよエサウに出会わなければならないという時、ヤコブはエサウをなだめるため、彼に贈り物をすることを思いつきました。ヤコブが選んだ贈り物は「雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭」(14-15節)、全部で550頭以上もの家畜でした。ヤコブはこれを何組にも分けて、列にし、それぞれをしもべたちに託しました。そして、それぞれのしもべに「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」(17-19節)と言い含めました。エサウが、延々と続く贈り物の列を見て、心をやわらげてくれるだろうと期待したのです。

 これは、なかなかヤコブらしいやり方でした。ヤコブは、とても知恵があって、兄エサウも、父イサクも、そして叔父のラバンも、彼にはかないませんでした。ヤコブは、これまでも、その知恵や才能に頼って危機を乗り越え、人生を切り開いてきましたが、このたびも、エサウに会うために自分ができるすべてのことをしました。「人事を尽くして天命を待つ」という心境だったでしょう。しかし、ヤコブに平安はやってきませんでした。できるかぎりのことをしたヤコブに与えられたのは「もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもしれない」というかすかな「期待」にすぎませんでした。どんなに努力し、すべてを整えても、それだけでは、平安を得ることができないのです。たしかに、なすべきことをなし終えた時、私たちはある種の「安心」を感じます。しかし、それは表面的、一時的なものにすぎません。それは、私たちの心の奥深いところに与えられる恒久的な平安とは違います。ピリピ人への手紙に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)とありますが、私たちに必要な平安は、目に見える条件や状況にかかわらず与えられる平安です。人間の努力による「安心」ではなく、「人のすべての考えにまさる神の平安」が必要なのです。本当の平安を得るためには、「人事を尽くして天命を待つ」だけではなく、ヤコブがしたように、なお、いくつかのことをしなければなりません。それはいったい何なのでしょうか。

 三、神の恵みと平安

 本当の平安を得るためにしなければならないこと、それは、第一に、ヤコブのように神と出会うことです。ヤコブはエサウに出会うことを恐れました。そして、エサウに出会っても大丈夫なように、知恵を尽くして、準備をしました。しかし、ヤコブは神に出会うことを忘れていました。エサウと顔を合わせなければならないという恐れだけに心を奪われていたのです。ヤコブは、エサウの顔を見る前に、まず、神の顔を見なければならなかったのです。このことは、今日の私たちにもあてはまると思います。私たちは、毎日、毎日、さまざまな困難に直面しています。そうした困難を乗り越えていく秘訣は、神と向かい合うことにあります。どんな場合でも、まず、神のもとに行き、神と一対一で向かいあい、神からの恵みを確信できるよう、祈り求めることです。そうでないと、すぐパニックに陥ったり、簡単に恐れにとらわれたり、あきらめが先に立つ、希望のない日々を過ごすようになってしまいます。私たちが神に顔を向け、神が私たちに顔を向けてくださっていることを確信する時、恐れは姿を消すのです。

 第二は神と格闘することです。ここにはヤコブが神と格闘したことが書かれています。ヤコブは、家族にヤボク川を渡らせてからも、ひとりそこに残りました。先に進んでいく確信がなかったのです。まだつかむべきものをつかんでいなかったのです。そのとき、ひとりの人がやって来て、ヤコブと格闘しました。この人とは、あとで分かることですが、神ご自身でした。旧約には、神が人の姿でご自分を現わしておられるところがいくつもありますが、ここもそのひとつです。神との出会いを忘れていた彼が、神と出会ったばかりか、取っ組み合いの挌闘をするようになったのです。ヤコブは実際の挌闘をしましたが、私たちにも、霊的、信仰的な意味での神との挌闘が必要です。

 ある人にとって、その挌闘とは、真理を求める格闘かもしれません。聖書が言っていることと、自分が考えていることとが食い違う時、聖書が正しいなか、それとも自分が正しいのかということで悩むことでしょう。聖書が正しいなら、自分が間違っていることになり、聖書に従わなければならないからです。真剣に真理を求める人は、熱心に聖書を学び、調べあげることでしょう。これは、日本での話しですが、父親を交通事故で亡くした息子が、その時の警察のレポートに納得がいかず、自分で調べあげて、事の真相を明らかにしたということがありました。警察のレポートでは、早朝、モーターサイクルに乗っていた父親が、交差点で無理に曲がろうとしたため、相手の乗用車にぶつかったとなっており、父親の側に落ち度があるようなっていました。父親が、普段から慎重な運転をしているのを知っていた息子は、警察のレポートが、父親を死なせた相手の言いなりに書かれているのではないかと疑い、現場や破損したモーターサイクル、相手の乗用車を念入りに調べ上げ、実験もして、相手の無謀な運転が原因であること、しかも、その時、相手がドラッグを使っていたこともつきとめたのです。息子は、父親の無念をはらしたいという必死の思いで、真相を追究しました。私たちが、聖書の真理を追求する時も、このように、熱心に取り組まなければ、真理は私たちのものにはなりません。イエスは私たちに「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:8)と教えています。真理はのんびり待っていればいつか分かるようなものではありません。熱心に求め、捜し、たたき続ける、そのような苦闘、格闘が必要です。

 また、ある人は、信仰を持ったら、神に従ったなら、人からどう思われるだろうかということで心配し、そのことで心の中に格闘を経験することでしょう。「神を信じ、キリストに従うことが必要なのは十分にわかっている。しかし、私が神を信じ、キリストに従ったら、まわりの人々は私のことをどう思うだろうか。家族からの愛を失い、いままでの友だちを失うのではないだろうか。」そんな心配を通ってきた人もいるでしょう。私は、ある人から、クリスチャンになる時、それに反対している年老いた両親に「わしらと、キリストがどっちが大切なんじゃ」と迫られ、つらい思いをしたということを聞きました。クリスチャンになる時、みんなが、家族の祝福を受けて、クリスチャンになるわけではありません。神に従うのか、人に従うのかという、苦しくつらい決断を迫られることもあります。しかし、この苦闘、格闘を通らなければ得られないものもあるのです。

 さまざまな格闘がありますが、聖書が、私たちに命じている格闘がひとつあります。それは「自分の罪と戦う格闘」です。ヘブル人への手紙に「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:4)とあります。私たちは、自分が罪人であることを認めたからこそ、私たちを罪から救ってくださるキリストを信じました。クリスチャンは罪赦された人々です。しかし、それで、自分の罪が全部なくなってしまったわけではありません。私もそうでしたが、皆さんも、いままで罪として感じなかったものも、クリスチャンになってから罪として感じるようになり、同じ罪を繰り返している自分を発見して嘆くようになったのではないでしょうか。かっては「悪いことをしなければ罪ではない」と考えていましたが、罪とは言葉や態度、行いに表れたものだけではなく、もっと深く自分の人格や存在にかかわっているものだということが分かるようになったのではありませんか。そして、自分の罪と戦って、打ちのめされるような経験をする、そこから、罪の赦しだけでなく、罪からのきよめを求め、それをキリストの恵みによってつかんでいく、それが、ローマ人への手紙7章〜8章に教えられている、クリスチャンの歩む道です。自分の罪と格闘すること、それは、聖書にあるように正常なクリスチャンの体験です。それによって、私たちはキリストにある勝利に到達できるのです。問題と取り組むことを避け、逃げていては解決はなく、平安にいたることはできないのです。

 ヤコブは神と向かい会い、神と格闘しました。そして、第三に、神に降伏し、自分を明け渡しました。ヤコブがなかなか降参しませんぢしたので、神はヤコブのもものつがいに触れてそれを外し、ヤコブはそれ以上闘うことができなくなりました。「もものつがい」というのは「股関節」のことですが、それは腰の部分です。ヤコブは腰を打たれたと言ってもよいでしょう。聖書では腰は力のみなもとという意味で使われています。漢字でも「腰」は「からだのかなめ」と書きますね。ヤコブは自分の知恵に頼ってエサウをなだめようとし、自分の体力にまかせて格闘しました。しかし、神は彼の力のみなもとを打ちました。そこで、ヤコブはついに神に降参し、自分の無力さを知り、自分を神に明け渡すことになったのです。

 この時のヤコブにとって、エサウに会わなければならないことが最大の問題でした。なんとかしてこの問題を解決したいと必死になっていました。しかし、本当の問題はヤコブ自身にあったのです。ある人が "Help me, I'm in trouble." と言ったら、それを聞いた人が、"Ask God. You yourself are trouble." と答えたそうです。その人が抱えている問題が本当の問題ではなく、その人自身が問題である場合が多いのです。ですから、あのこと、このことの問題の解決を神に願うだけではなく、問題を作り出している自分自身を神に委ね、神に取り扱っていただかない限り、本当には問題は解決しないのです。ヤコブは、ここで、そのことを悟り、神に自分を明け渡したのです。

 ヤコブが降参して、自分を明け渡した時、神は、ヤコブに「イスラエル」という新しい名をつけました。「名をつける」というのは、その人の上に支配権を持つことを意味します。ヤコブは、この時、神の支配に自分を任せたのです。「イスラエル」と名づけられたヤコブは、神と出会った場所を「ペヌエル」と名づけました。「神の顔」という意味ですが、ヤコブは、この時、神の顔が自分に向けられていることを確信したのです。「名前をつける」ことは「支配」するという意味ですから、ヤコブは、これから自分が住む土地を、支配したと言ってよいでしょう。これは、神の支配に自分を任せた人は、自分が生きる環境にふりまわされるのでなく、それを正しく支配することができるということを教えています。神の支配に服従するものは、何者にも服従させられない自由な人生を送ることができるのです。神のしもべこそ、ほんとうの王者であり、「信仰の勇者」です。この後、神がどのようにヤコブの恐れを取り除き、エサウとの間に和解を与えてくださったか、皆さんはすでにご存知ですね。問題を自分の知恵、力でなんとかしようとするのでなく、神の恵みの支配によって解決していく、そのような信仰の勇者の道を、私たちも歩もうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはヤコブをイスラエルにし、ヤコブはその地をペヌエルにしました。そのように、私たちをも造り替え、新しくしてください。その時、私たちは、どんな環境の中にあってもそこに「ペニエル」―神の顔を認めて歩むことができるようになります。そのために、あなたと向き合い、自分の罪と戦い、自分自身をあなたに委ねていく、そのような信仰の道をたどらせてください。私たちに「神の子」「キリストのもの」という新しい名を与えてくださった主イエスのお名前で祈ります。

7/27/2003