3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
一、救い主の預言
今年も、クリスマスを待ち望むアドベントのときとなりました。「アドベント」というのは、"coming" (やってくること、到来)という意味の言葉です。何がやってくるのでしょうか。救いがやって来る、救い主が来られるのです。「救い主の到来を待ち望むとき」―それがアドベントです。
イスラエルのひとびとは、長い間救い主が来られるのを待ち望んできました。エジプトで奴隷であったとき、自分たちを奴隷から救ってくれる者を待ち望みました。神はモーセを遣わし、イスラエルをエジプトから救い出しました。モーセに続いてヨシュアを送り、神が彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えた土地に導き入れました。モーセやヨシュアはやがてくる救い主の予告となった人々でした。モーセは「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)と言いましたが、この「ひとりの預言者」とは最終的にはイエス・キリストを指しています。モーセはイスラエルに神のことばを取り次ぎましたが、イエス・キリストは「神のことば」そのものとして、人々のもとに来られ、神を示されました(ヨハネ1:1)。旧約の「ヨシュア」という名は「神は救う」という意味で、新約では「イエス」で、救い主と同じ名です。
ヨシュアに導かれて約束の地に入ったイスラエルの人々はそこに住むことができたものの、絶えず周りの民族から苦しめられていました。神はそのつど、「さばきつかさ」と呼ばれる人々を起こして、イスラエルを救ってくださいました。「さばきつかさ」の時代が終わって、神はイエスラエルに王を与えました。ダビデ王は神に愛され、神を愛した王でした。「ダビデ」という名には「神に愛された者」という意味があるのですが、聖書ではこの名はダビデ王以外には使われていません。とてもユニークな名前で、これは神のひとり子であるイエス・キリストを表わしています。神はダビデに「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。…あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(サムエル第一7:12-16)との約束をダビデに与えましたが、これは神の国の王である救い主イエス・キリストを預言することばでした。イエス・キリストはこのことばのとおり、「ダビデの子」としてお生まれになったのです。
このように旧約には、救い主に関する預言が、いたるところに、数多くあります。新約に引用されている預言だけでも44箇所を数えることができます。イエスはこうした預言を成就するお方として、世においでになりました。旧約の預言は救い主の系図も、生まれる場所も特定しており、その人格や教え、そしてなりよりもその死と復活についてはっきりと書いています。そうした預言をすべて満したのは、歴史の中でただひとり、イエス・キリストだけです。もし、預言がなかったら、後の時代の人々は自分勝手に「わたしこそ救い主だ」と主張するようになったでしょう。実際、ほんとうは救い主ではないのに、そう主張した人々が歴史の中に数多くありました。しかし、その人たちは旧約の預言のどれをも満たしていなかった、満たすことができなかったのです。私たちは預言のことばによって、イエスこそキリスト、救い主であることを知り、信じることができるのです。神のことばはなんと素晴らしいことでしょう。教会には数多くの聖書を学ぶ機会があります。機会を生かして聖書の学びを深めていくなら、もっと数多くの素晴らしい発見ができるに違いありません。
二、最初の預言
さて、さきほど、「救い主イエス・キリストに関する預言で新約に引用されているものだけでも44箇所ある」と言いましたが、そのリストの第一番目のもの、救い主に関する最初の預言が、みなさんが今、目にしている創世記3:15です。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。ここで「女の子孫」とあるのはイエス・キリストをさしています。ガラテヤ4:4に「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」とあって、「女のすえ」は、新約では「女から生まれた者」と言われています。
「女のすえ」や「女から生まれた者」というのは、神が救い主を、天使の姿で、天から直接地上に降されるのではなく、人間としてお遣わしになることを預言しています。救い主は、神と人との仲立ちをするものですから、救い主はまことの神であり、同時にまことの人でなければなりません。この条件を満たすために、神の御子は、母マリヤから生まれ、正真正銘の人となられたのです。
ガラテヤ4:4で「また律法の下にある者となさいました」とあるのは、神の御子がユダヤの宗教の規則とローマの政治の法律、さらに、神がすべての人間に求めておられる内面的、霊的な律法の下にお生まれになったということを意味します。人は生まれたとたんにその国の法律に縛られます。名前をつけて登録されなければなりませんし、義務教育を受けなければなりません。収入を得るようになれば税金を払わなければなりません。徴兵制をとっている国であれば、兵役にも就かなければなりません。それと同じように、神に造られたすべての人は、どこの国に生まれようが、生まれながらにして、すべてのものの造り主であり、支配者である神の律法のもと置かれているのです。そのように、イエスもまたひとりの人として、父なる神の定めと人のたてた法律に服従しました。
しかし、ほんとうはイエスこそひとびとに律法を与え、国々を治めるべきお方なのです。なのに、イエスはあえて律法の下に立たれれました。なぜでしょうか。それは、アダムとその後の人々が、神の律法に逆らった罪、それを守り行うのを怠った罪を埋め合わせるためだったのです。最初の人アダムは神のことばに不従順でしたが、第二のアダムとなられたイエスは神のことばに従順に生き、律法の要求をすべて満たされました。私たちは、たとえこの世の法律を犯さなくても、神の律法は犯しています。律法の上に立っておられるイエスが、人となってこの世に生まれ、「律法の下」に立たれたのは、私たちが満たすことのできなかった神の律法を、私たちに代って満たしてくださるためだったのです。
創世記3:15は、救い主についての最初の預言でした。神はこの後も次々と預言のことばを与えて、人々に救い主について、より詳しく示し続けました。後代になればなるほど、預言はより具体的になっていきましたが、最初の預言である創世記3:15でさえ、人々に救い主への希望を与えるのに十分な内容を持っていました。人々は、この最初の預言から始まり、その後も与えられ続けた預言に導かれ、励まされて、やがて救い主が来ること、自分たちの救いが成就することを待ち望んだのです。預言のことばが人々の希望の源でした。新約時代の私たちはほとんどの預言の成就を見ていますが、キリストの再臨のように、なお、まだ成就していない預言も残されています。私たちも、神の約束が自分の人生の中に成就するのを待ち望んでいます。新約時代の私たちも、旧約時代のひとびとと同じように預言のことばを手がかりに希望を抱いているのです。ペテロ第二1:19に「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」とあります。私たちもまた、預言のことばを希望のともしびとして保っていたいと思います。
三、愛の預言
創世記3:15は、古代から「最初の福音」あるいは「原福音」と呼ばれてきました。それは、創世記3:15に神の愛がみごとに描かれているからです。神の愛は次のように示されています。
まず、第一に、神は、救い主の約束を人間が罪を犯したすぐ直後に与えています。人間が犯した罪を反省して、すこしはしおらしい態度をとるようになったので、神がそれに応えて救い主を約束されたというのではないのです。救いの約束は、人間のほうから願い求めて、やっととりつけたものではありません。それは神の側から進んで人間に提供されたものなのです。人間が罪を犯して、神とのまじわりを失ったとき、その回復を求めたのは人間ではなく、神でした。御顔を避けて身を隠しているアダムとエバに「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられたのは、神でした。人間が神を呼び求めたのではなく、神が人間を呼び求めたのです。人間が神に対して不従順になって、神との交わりを失った後でも、神は人間を罪と死の力に支配されるがままにはしておかれず、救いの預言、最初の福音を与えられました。迷い出たものを捜し求め、救い出そうとする真剣な愛がここに見られます。
第二に、神は蛇を責めましたが、人間をかばいました。アダムは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と言って、自分の罪をエバのせいにしました。エバはエバで、「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」と言って、自分の罪を蛇になすりつけようとしました。エバのことばは言い訳けにすぎないのですが、それでも、神はアダムとエバをかばい、蛇を責めて「わたしは…敵意を置く」と言われました。蛇はサタンのことです。神は、サタンに対して聖なる怒りを向け、サタンを滅びに定めました。しかし、人間には救いの道を約束されたのです。神がサタンに向けられた「敵意」は、わが子を傷つける者を斥けてわが子を守ろうとする、神の親のようなひたむきな愛を物語っています。
第三に、神はご自分の犠牲を覚悟してまで、人間を愛してくださいました。アダムは自分の罪をエバのせいにし、エバは蛇のせいにしました。「責任転嫁」という四文字熟語があるように、自分が責任をとらないで他のせいにすることを「転嫁する」と言います。しかし、アダムがエバに転嫁し、エバが蛇に転嫁した罪の責任は、蛇に着せられてそれで終わったのでしょうか。罪は、アダムとエバがしたように、あちらこちらにたらい回しにしたからと言って消えてなくなるものではありません。アダムの罪は、最後にはイエス・キリストに転嫁されました。イエス・キリストは何の罪もないのに、人間のありとあらゆる罪を着せられ、背負わされて十字架の上で死なれたのです。
それは、ある面からみれば、サタンのしわざでした。サタンは「悪魔」とも呼ばれます。「悪魔」という名前は「そしる者」という言葉から来ました。サタンはいつでも神をそしり、善いものをそしります。サタンは神の御子が世にこられたとき、神の御子をそしって、聖なるお方に罪を着せ、いのちの君を殺そうとしました。サタンは人々を惑わして、イエスを殺害する計画を立てさせました。すべてのシナリオができあがり、それは実行に移されました。イエスは律法に逆らい、神殿を汚し、自分を神の子だと言って、神を冒とくしたという罪で十字架に引き渡されたのです。「そしる者」である悪魔、サタンは、あらんかぎりのそしりを神の御子に与え、罪のないお方に罪を着せ、十字架で葬り去ることに成功したのです。アダムがエバに転嫁し、エバが蛇に転嫁した罪を、蛇は神の御子に転嫁したのです。15節の最後に「おまえは、彼のかかとにかみつく」とあるのは、十字架におけるサタンの攻撃を預言したものでした。
しかし、イエスの十字架は、同時に神のご計画でもありました。神は、ご自分の愛するひとり子に人間の罪を背負わせ、人間の罪を解決されたのです。神はそのひとり子を、人間の罪を背負って死んで行く犠牲の子羊とされました。なんという大きな犠牲でしょうか。ヨハネ3:16の「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」ということばは、創世記3:15にすでに預言されていたのです。人間のために救いの道を備えはじめられたとき、神はすでに御子の犠牲を覚悟していたのです。
神は、こんなに真剣で、ひたむきで、犠牲を伴った愛で、人間を愛してくださり、その愛を創世記3:15に、「最初の福音」として記してくださったのです。しかし、創世記3:15が福音であるためには、そこに、神の愛の勝利がなければなりませんが、それもまた、この箇所には記されています。サタンは十字架によって、イエスの「かかとにかみつき」ました。しかし、イエスはその十字架によってサタンの「頭を踏み砕き」ました。イエス・キリストは、その十字架の死によって死を滅ぼし、十字架の死から三日目に復活して、罪と死とサタンに対して勝利されたのです。「彼はおまえの頭を踏み砕き」というのはキリストの復活の預言となっています。古代の賛美歌に「アダムは祝福の木をのろいに変えたが、キリストはのろいの木によっていのちをもたらした」と歌われているとおりです。
今朝お話ししたことは、みなさんがもうすでに何度も聞いてきたものです。それはそれを信じ、それによって救われた福音です。神は、創世記のはじめから福音を示し、それを繰り返し示してこられました。私たちは毎日聖書を読むたびに、毎週礼拝を守るたびに、この福音を繰り返して聞きます。そして繰り返し聞くことによって、福音の豊かさをより理解し、その恵みをさらに深く味わうのです。そのたびに福音の中に示された神の愛をより確かに体験していくのです。それによって、この世が決して与えることのない幸いを得ることができるのです。アダムとエバの時代から何万年もたった今日も、「最初の福音」に表わされた神の愛は変わることはありません。その真実は絶えることはありません。今も変わらない福音を恥とせず、この福音に生き、この福音のために進んで奉仕をささげる私たちでありたいと願います。
(祈り)
父なる神さま、アドベントの第一の日曜日、私たちは「希望のキャンドル」に灯をともして、神のことばに聞きました。あなたは罪を犯したアダムとエバに、すぐさま救いの希望を与え、それを確かなものにするために預言のことばを与えてくださいました。私たちは預言のことばによってイエスが救い主キリストであることを知り、神の愛を学び、希望をかきたてられます。私たちが希望を失いかけるとき、みことばが希望のみなもとであることを思い出させてください。みことばによって希望を見出し、それを保つことができるように助けてください。主イエスによって祈ります。
11/29/2009