12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
アブラハムのもとの名前は「アブラム」で、創世記は同じひとりの人物を17章までは「アブラム」と呼び、それ以降は「アブラハム」と呼んでいます。メッセージでは分かりやすくするため、「アブラハム」と呼ぶことにします。アブラハムは今から4000年前、紀元前2000年の人でした。彼は、バビロニア地方の「ウル」という町に住んでいましたが、そこは、学校や図書館などがあって、高度な文化を誇っていました。「ハムラビ法典」有名なバビロンのハムラビ王はアブラハムと同時代の人物です。彼が作った「ハムラビ法典」を刻んだ石柱は1902年にイラクで発見され、ルーブル博物館に収められています。ところがアブラハムはそうした文化的な環境から離れて、当時はまだ未開の地であったカナンへと旅立ちました。それはなぜでしょうか。きょうはそのことをご一緒に考えてみましょう。
一、神の召し
アブラハムの旅立ちは、第一に、神の「召し」によるものでした。「召し」という言葉は、どなたかが亡くなられたとき「天に召された」というときに使うくらいで、現代ではほとんど使われません。しかし、聖書ではよく使われます。それは、神が人を救いに招かれることを意味します。ローマ8:30に「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」とあります。神が、神から遠く離れていた者たちをご自分に近づけ、イエス・キリストの「義」(ただしさ)によって、信じる者を「義(ただ)しい者」と認め、神の栄光を表すものへと造りかえてくださることを言っています。
救われるためには、もちろん人間の側での信仰が必要ですが、神の召しは私たちの信仰に先立つものです。私たちが神を信じる前に、また、イエス・キリストを選ぶ前に、神がすでに私たちを選び、私たちを招いてくださっていたのです。罪ある人間は聖なる神に近づくことができません。それで神はご自分のほうから罪人をご自分に近づけてくださったのです。それが神の「召し」です。信仰とは、この「召し」に答えることです。そして、神の「召し」に答えたとき、その信仰によって、この「召し」を確認することができるのです。イエス・キリストを信じて救われた一人ひとりは、義と認められ、神の栄光にあずかる者にされたことを、信仰によって知るのです。
アブラハムはこの神の「召し」によって、カナンの地へと向かいました。創世記11:31に「テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた」とありますから、アブラハムは最初は父親に従ってウルからハラン(カラン)までやってきたことになります。テラは、もともとはカナンを目指していたのですが、ハランの住み心地がよかったのでしょうか、彼はそこに定住し、そこで生涯を終えました。アブラハムに神の召しがあったのはその時でした。神はアブラハムに言われました。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(1節)父親が亡くなったとき、アブラハムは、ハランに留まることも、故郷のウルに引き返すこともカナンに向かうこともできました。アブラハムの目の前にはいくつかの選択肢があったのです。彼は、どこに進むべきか、迷い、また、考えたことでしょう。しかし、最終的には、アブラハムは神の言葉を求めました。神が示してくださる道に歩む決心をしました。そして、祈りのうちに神の言葉を待ち望んで、神の「召し」の言葉を聞き、それに答えて一歩を踏み出したのです。
神は言われます。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(イザヤ48:17)私たちの人生の歩みに、とくに、新しい歩みに入るとき必要なのは、神の導きです。神の召しを確認する信仰です。私たちもアプラハムのように神の導きを求め、その召しに聞き従いたいと思います。
二、神との交わり
アブラハムの旅立ちは第二に、さらに深い「神との交わり」に導かれるためのものでした。ヨシュア24:2によると、アブラハムの父テラは「昔、ユーフラテス川の向こうに住んでおり、ほかの神々に仕えて」いました。アブラハムの故郷ウルでは月の神々、男性神のナンナルと女性神ニンガルの二体が崇拝されていました。ウルの発掘ではその神殿の遺跡も見つかっています。月の女神ニンガルはニーナとも呼ばれ、アッシリアの首都ニネベはその名にちなんでつけられほどで、古代世界では広く信仰されていました。テラはそのような偶像を崇拝する者でしたが、アブラハムはテラの子ではあっても、まことの神を信じる者でした。しかし、偶像礼拝の盛んな町では、アブラハムはその信仰を成長させることができませんでした。それは、ハランに移住してからも同じだったでしょう。ハランでもバビロニアの神々が崇められていたからです。もちろん、カナンに行っても、そこにはカナンの神々を崇める人々がいたでしょう。しかし、カナンはウルのような都会、ハランのような大勢の人がいる所ではなく、人口の少ないところでしたので、他の部族と距離をおいて生活することができました。神は、アブラハムを異教や偶像から引き離し、ご自身とのさらに深い交わりの中へと導こうとなさったのです。
神がアブラハムをカナンの地に導かれたのは、アブラハムがまことの神との交わりを深めるためでした。アブラハムはカナンに着くと、どこに行っても、まずそこに祭壇を築き、主の御名によって祈っています(12:7-8)。アブラハムは、家族やしもべたちと一緒に安息日ごとに礼拝ささげたことでしょう。
この「安息日」のヘブライ語 שבת(シャバット)のもともとの意味は「断ち切る」で、安息日が時間の「区切りをつける」ものであることを表しています。私たちが100歳まで生きるとしたら、人の一生は36,525日になります。もし、この3万何千という日にちに何の区切りもなかったら、私たちの人生はダラダラとしたものになってしまうか、休息のない過酷なものになってしまいます。それで神は365日ごとに年を巡らせ、30日ごとに月を替えてくださるだけでなく、7日ごとに礼拝の日を与えて、私たちがいったん日常から解放されて神と交わり、仕事を休んで安息を得、癒やしを受けるようにしてくださったのです。礼拝のひとときは、神がアブラハムをカナンの地へと召し、イスラエルに荒野を歩ませてくださったことのミニチュア版です。私たちも、巡ってくる日曜日ごとに、神の召しに答えて礼拝を守り、神に近づいていきたいと思います。
三、祝福の基となるため
アブラハムの旅立ちは第三に、彼自身が「祝福の基」となるためでした。「召し」という言葉は、神が人にある役割を与えるときにも使われます。アブラハムがカナンの地に旅立ったのは、神の召しによってでしたが、神はそのとき、アブラハムに一つの使命、任務をお与えになりました。
その使命、任務とは、「あなたの名は祝福となる」(2節)というものです。口語訳では「あなたは祝福の基(もとい)となるであろう」と訳されています。アブラハムが他の諸民族の中から選ばれて、神の祝福を受け、その子孫が大きな民族となって繁栄するだけでなく、アブラハムの子孫が他の諸民族を祝福するものになる、それが「祝福の基」になるということです。このことは3節で、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という言葉で言い換えられています。
神の祝福を受ける。それは、ほんとうに幸いなことです。しかし、祝福を受けるよりももっと幸いなことがあります。それは、他の人に祝福を与えることです。それ以上の幸いはありません。他の人に祝福を与えることができるためにはまず自分が祝福されていなければなりません。ですから、神に自らの祝福を求めることは決して利己的なことでなく、神は、わたしたちが祝福を求めることを待っていてくださるのです。聖書はこう約束しています。「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。」(申命記28:1-5)「あなたのかごも、こね鉢も祝福される」とあります。かごやこね鉢は台所で使うものです。これは、その一家が台所の隅々にいたるまで祝福を受けることを言っています。
しかし、このような神の祝福は、それを受けるだけで終わってはなりません。神の祝福を受けた者には、それによって他の人を祝福する務めが与えられています。アブラハムの子孫は、神の祝福を受けますが、それは、アブラハムの子孫だけがそれを独り占めするものではなく、他に分け与えるべきものでした。
そして、アブラハムの子孫に与えられた祝福の中で最高のものは神の言葉でした。アブラハムの子孫は、まわりの民族に、他の国々に神の言葉を伝え、それを証ししなければなりませんでした。ところが、彼らは、神は自分たちの民族だけを愛しておられ、異教徒を憎んでおられると考え、神の言葉を分かちあうことをしませんでした。いや、アブラハムの子孫であるのに、アブラハムの信仰に倣うことをせず、与えられた神の言葉に従わず、神から離れ、みずからの祝福さえも失ったのです。
では、神がアブラハムに与えた使命は果たされなかったのでしょうか。いいえ、「アブラハムの子」として生まれたイエス・キリストが、その使命を果たしてくださいました。罪ののろいのすべてをご自分の身に引き受け、地上のあらゆる民族を祝福する祝福の基(もとい)となってくださったのです。このことは新約でこう記されています。「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。…このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:9、14)アブラハムへの祝福の約束はユダヤの人々だけのものではなかったのです。本物の「アブラハムの子」であるイエス・キリストを信じる人々のものでもあるのです。私たちも、信仰によってアブラハムと同じ立場に立つことができるのです。キリストを信じる者もまた「アブラハム」の子孫です。アブラハムに約束された祝福を受け継いでいるのです。そればかりでなく、その祝福をさらに多くの人々と分かち合うという務めも受け継いでいるのです。
神の祝福を受け、それによって他の人々に祝福を分け与えるという幸いな人生、それはイエス・キリストを信じるすべての人に与えられます。神は私たちをそのような幸いな人生へ招いておられます。アブラハムのように、私たちも、イエス・キリストを信じて生きる新しい人生に向かって旅立つようにと招いていてくださいます。それに応えましょう。そして、私たちも「祝福の基(もとい)」となり、神の祝福そのものとされていく、その恵みにあずかりたいと思います。
(祈り)
主なる神さま、あなたはアブラハムを召し、アブラハムはその召しに答えました。私たちも私たちの人生の道を自分の考えに頼り、まわりの人々に倣って決めるのでなく、あなたの召しに従って決め、祝福の道を歩むことができるよう導いてください。イエス・キリストを信じて歩むことによって、私たちをも他の人々の「祝福」となれるよう助けてください。主イエスのお名前で祈ります。
11/14/2021