緑の地球

創世記1:9-13

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1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
1:12 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
1:13 こうして夕があり、朝があった。第三日。

 新緑の美しい季節になりました。冬の間は枯れたようになっていた木も、春になれば確実に芽吹いて私たちの目を楽しませてくれ、夏には青々と葉を茂らせ日陰を作ってくれます。もし、この地上に木や草や花がなかったら、そこはなんとうるおいのないところとなるでしょうか。私が最初サンディエゴに来たとき、海岸に近い地域は緑が豊かだったのですが、内陸の山には緑がなく茶色だったのを見て気分がめいってしまったのを覚えています。アリゾナに行ったときには山はほとんどが赤茶けた岩山で、家の庭も砂利が敷き詰められ、サボテンがニョキニョキと立っているという光景を見て、芝生や草木が恋しくなりました。やはり、人間には草木が必要なのです。そうしたものに恵まれない地域に住んでいる人にとっても、草木の生い茂る土地はあこがれなのだろうと思います。最初の人間アダムとエバはエデンの園という草や木、花の生い茂るところに生まれましたので、人間には緑を求める本性が植えつけられているのだろうと思います。

 今朝は、緑の地球が造られた創造の第三日目から「神は言われた」「神は名付けられた」「神はよしとされた」という三つのことばに注目しながらお話しましょう。

 一、神の力

 まず、「神は言われた」というを考えてみましょう。これは、神の力を表します。この地球を造り、しかもそれを緑豊かなところとされたのは神です。地球は半径6400キロメートルの丸い玉です。しかし、ボーリングのボールのように表面も中身も同じというのではありません。地表の岩石圏はわずか10数キロメートルしかなく、その下はマントル層です。マントル上部は厚さが660キロメートルあって、ごくゆっくりですが動いていて、これが地震の原因になっているといわれます。マントル下部は硬くて厚さが2240キロメートルあります。地球の、中心部には核と呼ばれるものがあり、外核は流動性があり厚さは2270キロメートル、内核は硬くて厚さは1216キロメートルあるといわれています。誰も地球の内部を見た者はないのですが、科学者たちは、地震の波を分析してこのように推測しているわけです。地球を形は違いますが卵にたとえてみると岩石層は卵の殻に相当します。マントル層は白身の部分で、核の部分が卵の黄身に相当します。地球の中心は6000℃もの熱を持っており、地表を100メートル掘るたびに3℃ずつ暖かくなるそうです。これを「地熱」と言い、地熱を利用した発電なども考えられています。地球が温かいのはよいことかもしれませんが、もし地球が燃える火の玉であったら、そこには誰も住むことができません。神はそこに学者たちがリソスフィアと呼ぶ岩石圏、地殻を作りだし、水で覆われていた地殻から陸地を造り出されました。そればかりではなく、その陸地に植物、草、木という緑のカーペットを敷き詰めてくださり、そこを人間とさまざまな生き物の住処にしてくださったのです。

 神はこのすべてを「ことば」によって成し遂げられました。11節に「神が、『地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。』と仰せられると、そのようになった。」とあります。神が「ことば」を発せられると水が退き地表が現れ、その地表につぎつぎと草が生え、さまざまな木が育っていきました。それはまるでアニメーションの映画のような光景だったと思います。神のことばにはものごとを生み出す権威と力があるのです。イザヤ書55:11に「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」とあります。この世界がどのようにしてできたのか、詳しいことは誰にも分かりません。しかし、はっきり分かることはこの世界が神のことばによってできたということです。ヘブル11:3に「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟る。」とあります。私たちが礼拝のたびごとに、また聖書を開くたびごとに聞く神のことばは、宇宙を作り、地球を造り、そこにいのちを与えたのと同じ神のことばなのです。みなさんは今聞いている神のことばにそれほどの力があることを信じているでしょうか。神のことばを神のことばとして読んでいるでしょうか。

 人間は罪を犯して以来、傲慢になり、何でも知っている、何でもできると思い込むようになりました。そんな人間に神は、神こそが創造者であり、知恵と力のみなもとであると語り続けています。箴言は「主を恐れることは知識の初めである。」(1:7)「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」(3:5)と教えており、黙示録14:7には「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」とあります。神の創造を思うたびに神の前にへりくだり、神をあがめずにはおれなくなります。神のことばに聞き従わずにはおれなくなります。

 二、神の支配

 次に「神は名付けられた」ということを見てみましょう。これは神の恵み深いご支配を教えています。聖書で「名づける」というのは「支配」を表します。神は「光よ。あれ。」と言って光を創造されたとき、その光を「昼と名づけ」、やみを「夜と名づけ」ました(5節)。また、大空を造られたとき「神は、その大空を天と名づけ」ました(8節)。創造の第三日目にも「神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけ」(10節)ました。これらは、神が昼も夜も、天も地も、海もすべてを支配しておられることを表しています。アダムは家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけましたが(創世記2:19-20)、それは神が人間に「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」(創世記1:26)と約束されたことの成就でした。アダムは生き物に名をつけることによって、それを支配したのです。バビロンの役人はユダヤから捕らえてきたダニエルにベルテシャツアルという名を、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴという名をつけています。それは、この青年たちがバビロン王の支配のもとにあることを表しています。神もまたアブラムにアブラハムという名を、サライにサラという名を与えました。「アブラハムは『歯』をもらい、サラは『胃』を取られた」と覚えるとよいでしょうが、これは、神がアブラハムとサラをご自分のものとし、神の民の父と母にするという約束を表しています。バビロン王の支配は恐ろしい支配でしたが、神のご支配はいつでも恵みに満ちています。神はご自分の造られたものを「名づける」ことによって、それを恵み深く支配してくださる、導いてくださる、守ってくださる、世話してくださるのです。

 イザヤ書に「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。」(イザヤ40:26)とあります。これは、外国に攻められ国を失ったイスラエルに対することばです。このときイスラエルはまったくの闇の中、混沌の中にありました。しかし、神はその闇を光で照らされたお方、混沌から秩序を生み出されたお方、ご自分の造られたものの一つ一つを「名をもって呼ばれる」お方です。創造者である神に立ち返りなさい。「光あれ」と言って光を造りだされた神のことばを信じなさい。すべてのものを支配しておられる神に信頼しなさいと教えているのです。

 イザヤ書は続いてこう言っています。「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』」(イザヤ43:1-2)なんという慰めに満ちたことばでしょう。神は、神に信頼する者たちを選び、その人たちにも「神の民」という名をつけ「あなたはわたしのもの」だと言って、恵みの支配のもとに置いてくださるのです。「たとえ火の中、水の中」ということばがありますが、大水のような問題の中でも、火のような試練の中でも、神はご自分のものを守ってくださるのです。このことばのあとに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)というよく知られたことばが続きます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」ということばの意味がほんとうにわかるためには、神がこの世界を力をもって創造され、恵みをもって支配しておられることを知り、信じなければならないのです。この神の恵みの支配のもとに生きる者となる必要があるのです。聖書に「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)とあるように、イエス・キリストを信じるなら、私たちもキリストの名をもって呼ばれ、愛に満ちたキリストのケアのもとに生かされるようになるのです。

 三、神の祝福

 最後に「神はよしとされた」ということに触れておきましょう。これは神の祝福を表しています。神の創造を覚えるとき、私たちは神の力を知ります。神の恵み深いご支配に慰められます。そして、それとともに神の祝福を味わうことができます。12節の最後に「神は見て、それをよしとされた。」とあります。神は地上に植物が生じ、種を持つもの、実のなるものをごらんになって「よし」とされました。「種を生じる草」とは穀物のことでしょう。野菜、穀物、果物は人間や他の動物にとってなくてならない食料でが、神はそれを備えてくださいました。神がそれを見て「よし」とされたのは、この地が豊かな実りによって潤されるようにとお与えになった祝福を表しています。

 豊かな収穫はいつの時代にも、どの民族も求めてやまないものです。創世記が書かれた時代には地の神「バール」が穀物や果物の収穫をもたらすと信じられていました。穀物や果物の木が枯れるのは、バールが死の神「モト」によって海の深みに閉じ込められているからであり、それを助けるのが救いの神「アナト」であると言われていました。それで、人々はバールとアナトまたはアシタロテと呼ばれる神々を拝むようになり、このバール礼拝はイスラエルの中にまで入ってきました。しかし、聖書は、この世界に豊かな実りをもたらすのは天と地を創造された神であり、神は、死の神モトの住処である海をも支配しておられると教えています。私たちの人生を豊かにするのは他のどんなものでもなく、じつに、創造者である神の祝福です。神の祝福を受けたいなら、神との正しい関係を保つことがなにより大切です。

 最近「エコロジー」ということが盛んに言われるようになりました。エコロジーというのはもともとは「生態学」のことでした。生態学によるとこの自然には不要なものは何一つなくそれぞれが絶妙のバランスを保っていることがわかります。植物は二酸化炭素(CO2)を材料にして、酸素(O2)と炭水化物を作ります。動物は植物が作りだした酸素(O2)を吸い、二酸化炭素(CO2)を吐き出します。自然界にはこうしたリサイクル活動があって、人間や動物は酸素に不足することがなくいのちが保たれるのです。こうした生態系を壊さないようにという運動がエコロジーと呼ばれるようになり、それは政治の世界にまで影響を及ぼすようになりました。この世界には定められた秩序があって、それに従うなら人類は生存を守ることができるが、それに逆らうなら破滅がやってくるということに人々はやっと気づきはじめたのです。しかし、聖書ではそうしたことはとうの昔から教えられていました。神はこの世界に自然の法則を与え、人間に霊的な法則を与えました。神は、私たちが霊的な法則に従うなら、地の豊かな実りが与えられ、それに背くなら飢饉がやってくると言われました。聖書に神のことばに聞き従うなら「あなたは町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。」聞き従わないなら「あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごもこね鉢ものろわれる。」(申命記28:1-19)とある通りです。神と人と自然は深いつながりを持っています。人が自然を破壊するなら、当然、自然は人に対して報復します。しかし、そればかりでなく、神と人との関係が正しくなければ、人と自然との関係も壊されてしまいます。本当のエコロジーは、人と自然との関係だけでなく、人と自然を造られた神との関係を正していくことにあるのです。

 「神は見て、それをよしとされた。」神が私たちの神との関係をごらんになって「よし」と言ってくださるでしょうか。礼拝で神の前に出るたびに神との関係を正し、神の祝福の中にとどまりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、世界はあなたの力あることばによって造られ、あなたのご支配のもとに置かれています。私たちがこの世界であなたの祝福を受けるために、常にあなたとの関係を正しいものにしていくことができるよう助けてください。あなたは神の民にみずからが祝福を受けるだけで終わることなく、それを他の人々に分け与える者となるよう望んでおられます。私たちを神の祝福をさらに豊かに受け、もっと多くの人に分け与えることができる者としてください。祝福に満ちた主イエスのお名前で祈ります。

5/3/2009