1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
一、進化論が教える「人間」
今年2009年はチャールズ・ダーウィンが生まれてちょうど200年目、進化論の古典となった『種の起源』が出版されてちょうど150年目になります。
チャールズ・ダーウィンはイギリス中西部の町シュルーズベリーの医者の次男として生まれました。父親は彼を医者にしたかったのですが、ダーウィンは医者になることに興味がなく「博物学」を志しました。「博物学」というのは、動物、植物、鉱物など自然界のあらゆるものを採集して標本をつくり、それを分類して研究する学問で、ダーウィンの時代には流行の学問でした。この博物学から動物学、植物学、鉱物学、地質学、気象学などという自然科学の諸部門が生まれました。ダーウィンは若いころビーグル号というイギリスの南米探検船に乗って南米の海岸を一周し、進化論のヒントを得たと言われるガラバゴズ諸島に至りました。さらにそこからニュージーランド、オーストラリアに立ち寄り、アフリカのケープタウンを経て再び南米のサルバドールに行き、そこからイギリスに戻りました。南半球を一周する実に5年に渡る航海でした。
ダーウィンはこの調査の結果を発表し博物学者としての地位を確かなものにしました。また、ダーウィンはこの調査にもとづいて進化論についての資料をまとめていました。彼はさらに研究を重ねてから発表するつもりだったのですが、友人のトマス・ハックスレーが、アルフレッド・ウォレスもダーウィンと同じような研究をしていることを知り、ダーウィンに、ウォレスよりも先に本を出すように勧めました。そこでダーウィンは詳しい本を書くのを諦め、それまでの資料をまとめて、一冊の本を出すことにしました。それが1859年の『種の起源』だったのです。
『種の起源』は全部で15章あり、「種の変異」、「自然淘汰」、「生存競争」などといったことが論じられています。すべての生物は共通の先祖から長い時間をかけて環境に適応するように徐々に変化してきたというのが、ダーウィンの主張だったのです。ダーウィンはこの本によって進化論を仮説から理論にまで高めたと言われていますが、生物学が分子のレベルにまで発達し、遺伝子の構造までも解明されるようになった現代ではダーウィンの理論には否定されたり、訂正されなければならないものが数多くあります。しかし、進化論はそれ以来生物学の領域を越えて、一人歩きするようになりました。
ダーウィンは「種」を定義するのはとても難しいと言っており、しかも「種の変化」という言葉は使っても「進化」という言葉は使いませんでした。「進化」という言葉の中には「より優れたものへの変化」という概念があるからです。様々な生物を観察してきたダーウィンにとって変化した種、変種がもとの種よりも優れているとは言いきることができなかったからです。けれども19世紀の人々は「科学万能」を信じ、人類とこの世界はより優れた方向へと「進化」しているのだと考えました。人間はサルと共通の先祖を持ってはいても、道具を使うことを覚え、文字を生み出し、そこから進化してきたと信じるようになりました。学問としての進化論ではなく思想としての進化論、「進化思想」というものが幅を効かすようになったのです。そうした進化思想から「白人が最も進化した人種であり、他の人種は劣っている」という科学的根拠のない考えが生まれ、ヒットラーのユダヤ人虐殺や人種差別が行われるようになりました。ダーウィンの「自然淘汰」という考えが曲げられて「強いものだけが生きる権利がある」という考えに結びつき、それが競争社会を生み出したのです。
日本では「進化論」が証明された事実であるかのように受け入れられおり、学校でもそのように教えられていますので、進化論に疑問を持つような人は白い目で見られます。アメリカでも、進化論を擁護しない教授たちや研究者たちが大学や研究所を追われているという現実があります。そのことは "Intelligent Design" についてとりあげた数年前の映画 "Expelled" で紹介されていました。「進化論」は学問をしばりつけていた宗教の権威から人々を解放し、人間に真の自由を与えるものとして歓迎されたのですが、今度は「進化論」がそれに賛成しない人々の学問の自由を脅かしているのです。進化論者は "Intelligent Design" を認める人たちに「科学に宗教を持ち込んだ」と非難していますが、じつはその人たちが「進化思想」を神聖なものとし、それを「宗教」にしているのです。「進化論」は科学のテーマのひとつとして研究されるべきものなのに、進化論は科学のあらゆる分野を支配する絶対的な思想になってしまったのです。
「進化論」は自然界のすべてを説明できる理論ではありません。まして、進化論は、人とは何者なのか、私たちは何のために生きるのかという答えを与えることができません。人生の意味と目的を見失った人々はひずんだ競争社会を作りあげ、その中で自らが苦しむという悪循環を繰り返してきました。ダーウィンから200年、この二世紀の間に自然科学は驚異的な発展を見ました。しかし、同時に人々は人間にとって最も大切なものを失いました。21世紀になって環境問題が取り上げられ、競争社会から共生社会へということが言われるようになりました。人間と自然とが対立するのでなく人が自然の一部として生きる、人と人とが対立し争うのでなく共存し互いに助け合って生きる、そういう考え方が見直されてきました。人々は聖書が三千年前からずっと教えてきたことに立ち返り、ダーウィンから二世紀の間に見失ったものを取り戻そうとしているのです。
二、聖書が教える「人間」
人々が失ったもの、今、とりもどすべきものとは何でしょうか。それが今朝の箇所にある「神のかたち」です。人間は、分類学によると、「動物界、脊つい動物門、ほ乳綱、サル目(霊長目)、ヒト科、ヒト亜科、ヒト属のヒト」です。これはからだの仕組みからの分類であって、かならずしも人間のすべてを言い表しているものではありません。「あなたは何ですか。」と言われて、落語に出てくる「ジュゲム、ジュゲム、…」ではありませんが、「私は、動物界、脊つい動物門、ほ乳綱、サル目(霊長目)、ヒト科、ヒト亜科、ヒト属のヒトです。」と答える人は誰もいないでしょう。「あなたは何ですか。」と尋ねられたら、誰もが「私は人間です。」と答えるでしょう。人間は、他の生物、動物とは違った独自な存在なのです。創世記1:24-25にこうあります。
ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。ここには、動物たちは、それぞれ「その種類にしたがって」造られたとあります。ウシにはウシの原型、ウマにはウマの設計図があって、それぞれにその特性、パターンに従って造られたのです。ですから、たとえウマはウシと一緒に育てられたとしても、決して「モー」とは鳴かず、ウシのように角が生えてくることはないのです。ところが人間の場合は「ヒト」という種類にしたがって造られたとは書かれていません。創世記1:26-27を読んでみましょう。
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。様々な生物は「種類にしたがって」造られていますが、人間だけは「神のかたち」にしたがって創造されています。人間が造られるときに参照されたのは「ヒト」という原型、パターンではなく、「神のかたち」だったのです。人間は神になぞらえて造られました。神が人間の原型であるというのです。
とは言っても「神のかたち」というのが、両足で立って歩くという人間の身体つきのことではありません。それが「神のかたち」なら、人間は「神のかたち」を失ってはいないことになります。創世記5:3に「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」とあります。人間の身体の特徴、アダムから子孫へと遺伝子によって受け継がれているものは「アダムのかたち」であって、「神のかたち」ではありません。「神のかたち」は目に見えないもので、遺伝子ではなく、たましいの中に刻まれているものです。エペソ4:22-24に「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。このことばから「神のかたち」とは「真理」や「義」や「聖」といった神の目に見えない性質のことであることがわかります。
人類はアダムの遺伝子を受け継いで今に至っていますから外見は「アダムのかたち」を保っています。しかし、罪によってたましいの内面にある「神のかたち」を失ってしまいました。そうして人は神との断絶状態を心の中に作りだし、神を認めない社会を作り出してきました。また、自然環境を損なってきました。創世記1:26にある「そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」ということばは、人間が自然を思い通りにしてよいという意味ではありません。このことばはそのすぐ前にある「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」ということばから切り離すことができません。人間が自然を支配するというは、自然に対して神の代理者となって、自然に対して神の知恵や力だけでなく、神のいつくしみやあわれみというご性質をもって接することなのです。実際、神がアダムをエデンの園に置かれたときには、そこを「支配させる」というよりは「そこを耕させ、またそこを守らせた」(創世記2:15)のです。人間は自然を守るべきであるのに、「神のかたち」を失ったため、神から与えられた力を誤って使い、自然を破壊してきたのです。そして、私たちは自然破壊の痛ましい結果を受け取り、次の世代にそれを負わせようとしています。
しかし、神は人間が失った神のかたちをもういちど取り戻すことができるために、イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」とあるように、イエス・キリストこそ本来の「神のかたち」です。神は、キリストを信じる者をキリストに似た者とし、「神のかたち」を取り戻させてくださるのです。イエス・キリストを救い主また主として、こころに、人生に迎え入れるとき、私たちはふたたび「神のかたち」に造りかえられ、そこからさらにキリストに似たものとして日々に造りかえられていくのです。神は、私たちの中に「神のかたち」が形づくられるのをどんなに願い、それが成長するのをどんなに喜んでくださることでしょうか。
人間は、進化の過程で偶然生まれた存在ではありません。「神のかたち」につくられた価値ある存在です。神がご自分の性質を分け与えても惜しくないと思うほどに、神に愛されているのです。そのことに気づかないうちは、自分が何者なのか、人生の目的が何なのかが分かりません。しかし、自分が神に造られた存在であることが分かるとき、私たちは自分を見出し、人生の目的を知るようになるのです。ここにいるひとりびとりが「あなたは何ですか。」との問いに正しく答えることができるよう心から祈ります。
(祈り)
すべてのものの造り主である神さま、あなたは人間を良いものとして造ってくださったのに、人間はさまざまな罪によってあなたに与えられた良いものを捨て、「神のかたち」を損なってしまいました。人間はもはや神に似たものでなくなり、ときには動物以下の姿になってしまいました。しかし、あなたはそんな人間を見放さず、人間が再び「神のかたち」を取り戻す道を備えてくださいました。それは私たちの主イエス・キリストです。このイエス・キリストを信じ、主に従うことによって「神のかたち」を取り戻し、他の人々に、この世界にあなたを表わすことが出来るよう私たちを導いてください。主イエス・キリストによって祈ります。
8/2/2009