1:20 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。
1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。
1:22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」
1:23 こうして、夕があり、朝があった。第五日。
一、神は創造者
ある科学者が太陽系の模型を作りました。太陽が真ん中にあってその回りに水星、金星、地球、火星、木星、土星などがあります。ハンドルがあってそれを手で回すと、それぞれの惑星が太陽の周りを回るようになっています。ある日、友人が訪ねてきて、その模型を見て言いました。「これはよくできてるね。いったい誰が作ったんだい。」科学者は答えました。「それは自然にできたんだよ。」すると友人は言いました。「そんなことはないだろう。こんなにうまく出来ているものが自然にできるわけがない。」それでも、その科学者は「いや、自然にできたのだ。」と言い張りました。友人は腹を立てて言いました。「おい、怒るぞ。自然にできるはずがないだろう。君が作ったのかい。」それに答えて科学者は言いました。「そうさ。これは僕が作った太陽系の模型だ。宇宙の模型でさえ、自然にはできないのに、君はいつも、本物の宇宙は自然に出来たと言っている。おかしいとは思わないかい?」この友人はそれから、この世界を造られた創造者である神のことを考えるようになったということです。
最近、ある人から「クリスチャンの中には、人間はサルから進化したのでなく、神によって造られたという説を信じている人たちがいると聞きましたが、ほんとうなんですか。」という質問がありました。一般的な日本人にとっては、アメリカ人の多くが神の創造を信じていることが驚きだったようです。日本では進化論があたかも事実であるかのように教えられてきたため、多くの人が聖書を読んでも、神がこの世界と人間とを造られたということをなかなか受け入れられないでいます。そのため、聖書が教える神の愛が分からない、人間の罪が分からない、キリストの救いが分からないということになってしまうのです。
キリストの救いは言うなれば、神の再創造のみわざです。エペソ2:10に「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」とあります。救いとは、罪のために壊れてしまった人間の内面が造り変えられること、壊れてしまった神と人間との関係が築きなおされ、それに基づいて人と人との関係も修復されることです。救いは私たちの内面から始まり、それが家庭を変え、社会を変え、世界をも変えていきます。神がこの世界をその全知全能の知恵と力で、また愛といつしみをもって造られたことを信じることができなければ、神がキリストを信じる者を造り変えてくださることを信じることができません。神を創造者として信じることは信仰の出発点です。
二、神はいのちの与え主
創世記は神がこの世界をどんなにみごとに造ってくださったかを描いています。私たちはすでに第一日目に神が光を造られたこと、第二日目に大空を造られたこと、第三日目に陸と植物を造られたこと、第四日に天体を造られたことを見てきました。第五日と第六日では神は水に住む生き物、空を飛ぶ鳥、そして陸に住む生き物を造られました。第五日目になってはじめて「生き物」という言葉が出てきます。ヘブル語で「生き物」は「ネフェシュ・ハヤー」と書かれていますが、これは「生きたたましい」という意味です。今日の生物学では植物も動物もともに「生物」ですが、聖書や私たちの日常の経験では動物はたましいを持つものとされ、植物はたましいを持たないものとされています。ですから植物については「枯れる」と言うことはあっても、「死ぬ」とはあまり言いません。野菜をとってきてサラダにしたからといって野菜を「殺した」とは言いませんね。もちろん、植物を観察するだけでも、神がいのちの与え主であることが分かりますが、動物によってもっと神がいのちの与え主であることが分かります。神は動物を造って「生めよ。ふえよ。」と言われました。動物たちが子孫を作っていく姿に、私たちは「いのち」を感じとるのです。神が第一日目から第四日目にかけて造られた環境はじつにこのいのちを守り、育てるためのものだったのです。
地球はじつにみごとに造られています。地球の円周は約4万キロメートルで、それが24時間で一周しています。ですから地球は時速1,666キロメートルというジェット機よりも早い速度で回転していることになりますが、いったいこの回転の力はいったいどこからきたのでしょうか。そんなに早く回っているのに、その上に住む私たちは遠心力で振り飛ばされることがなく、煙突から上る煙はまっすぐ空に上っていきますからとても不思議です。また、地球は太陽に対して23.5度傾いていますので、太陽の熱が北や南にも分散するようになっています。この傾きがなければ、暑い地域はずっと暑く、寒い地域はずっと寒いままになってしまいます。地球に春、夏、秋、冬の四季がなくなるのです。誰がこのような角度に傾けたのでしょうか。
地球は太陽からの熱や光を受けていますが、同時に太陽から生命に有害な「太陽風」と呼ばれる陽子イオンや高温ガスが飛んできます。ところが、地球の中心には鉄やニッケルなどの密度の高い流動体があって、それが地球の自転によって磁場を作っており、この磁場によって地球は太陽風から自らを守っているのです。カール・ガウスはこの地球の磁気を計算する方法を発見し、それに従って磁気が測定されていますが、それによると地球の磁気は1400年ごとに半分に減っており、3991年には地球の磁気はゼロになるというのです。あと2000年以内に磁気がゼロになったとしたら、果たして地球に生命が生存できるのでしょうか。とても心配です。
そんなことを考えると、地球にいのちが存在するというのは、決して偶然ではなく、その背後にいのちの与え主である神がおられることが分かります。地球をいのちを守り育てる場所とされたのは神なのです。今日の言葉でいうなら、神は地球を「バイオスフィア」(生命圏)として造り、この地球の生命圏を守るためにさまざまなものを造られたのです。いのちのないものでさえ、こんなにみごとに造られているのですから、いのちあるものはなおのことです。神の創造を考えるとき、私たちはいのちの与え主である神のすばらしさを思わずにはおれません。
エペソ2:4-5に「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださたその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし…てくださった。」とあります。キリストは罪の中に死んでいた者を、ご自分の復活の力によって霊的に生き返らせ、新しいいのちを与えてくださいます。私たちに新しいいのちを与えること、それがキリストの救いです。神がいのちの与え主でなくてどうして、神が私たちを救うことができるというのでしょうか。
三、いのちの守り主
神は、水に住む生き物、空を飛ぶ鳥、そして陸に住む生き物を「生きたたましい」として造られましたが、これは、やがて神がさらにすぐれた「たましい」である人間を造られることの予告でした。創世記2:7に「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」というところでも、「生きたたましい」という言葉が使われています。これは、人間が単なる被造物ではなく、たましいを持った存在であること、神がすべていのちあるものの造り主であり、たましいの父であるということを表わしています。イザヤ57:16に「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。」ということばがあって、人のたましいは神によって造られたことが示されています。またペテロ第一4:19には「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」とあって、神がたましいの「真実な創造者」であることを教えています。
イエスは「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。これは迫害に直面していた初代のクリスチャンにとって心強いことばでした。今日は「三位一体主日」ですが、三位一体の信仰を守るため戦ったアレキサンドリアのアタナシオスは、司教の地位を奪われ、アレキサンドリアから何度も追放され、いのちを狙われ続けました。しかし、彼は迫害を恐れず、聖書の教えを教え続けました。人間がからだだけでない、たましいを持った存在であり、そのたましいは神以外の誰も手を触れることができないという確信を持っていたからです。今日でも本物の信仰を守り通すためには苦しみや迫害を通らなければならないでしょう。しかし、神はいのちの与え主であり、またその守り手です。ですから、私たちはどんな苦しみの中でも心強く歩むことができるのです。キリストにあって新しく造られた者として、聖霊によって生かされた者として、いのちの守り手である神の手の中にある者として進んでいくことができるのです。
(祈り)
私たちのたましいの父よ。真実な創造者であるあなたに私たちのたましいをおまかせする信仰を与えてください。苦しみのときに、詩篇の作者とともに「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」(詩31:5)と祈ることができるよう導いてください。十字架の苦しみを乗り越え、その死によって死に打ち勝ち、私たちに限りないいのちを与えてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。
6/7/2009