1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
1:4 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。
1:5 神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。
一、世界の起源
聖書はなんという言葉ではじまっているでしょうか。そう、「はじめに」ですね。創世記1章1節は、「初めに、神が天と地を創造した。」と言っています。聖書は世界にはじまりがあった。それは神によって造られた。神が世界をはじめられたと教えています。
世界のはじまりについて、いろんな人がいろんな説を唱えています。そのひとつに「ビッグバン説」(Big Bang Theory)というのがあります。これは、ジョージ・ガモフという物理学者が唱えたものです。ガモフは物理学をわかりやすく解き明かした本をたくさん書いており、私は、中学生のころ、学校の図書館にあったガモフの本を読みふけったことを今でも覚えています。ガモフは宇宙マイクロ波の存在を予言したのですが、それが発見されることによって、ビッグバン説は支持を集めるようになりました。宇宙がふくらんでいるとの観測結果から、それを逆にもどしていくと、今から137億年前には、宇宙はものすごい密度の物質とエネルギーのかたまりだった。それが爆発を起こして膨張していく間に、現在の宇宙が造られ、地球ができあがり、人間が生まれたというのです。ビッグバン説は、世界にはじまりがあったという点では、聖書の教えにかなっているようですが、最初の宇宙が、神によって造られたとは言っていません。その宇宙は、はじめからあったということになります。しかも、宇宙は長い時間をかけて膨張していくうちに「おのずと」秩序を造り出し、生命を生み出したと言うのです。
しかし、聖書は、はじめから存在しておられるのは、神だけだと教えています。はじめにおられたのは神であって、ビッグバンでできたベビー・ユニバースではないのです。この世界も無く、人間もいなかった時に、神はすでにおられました。そして、「はじめ」からおられた神がこの世界を「はじめ」てくださったのです。しかも、この世界を、偶然に任せるのでなく、ご自分の知恵と力によって世界に秩序を与え、目的と計画をもってこの世界にいのちを与え、愛といつくしみをもって人間を造られたのです。これが聖書の教える創造です。
しかし、神が愛であることを信じ、神が人間を救ってくださること、やがて天国がやってくることは信じても、神が世界を創造されたことを、聖書に教えられている通りに信じられないという人が多くいます。聖書の他の箇所は信じるのに、創世記は信じられないというのです。しかし、神が創造者でなくて、どうして救い主であることができるのでしょうか。神がこの世界をはじめられなかったのに、どうしてこの世界を完成することができるのでしょうか。創造を信じないなら、聖書の他の教えも正しく理解することはできません。「創造」はとても大切な教えなのに、なぜ、それを信じるのが難しいのでしょうか。いろいろな理由がありますが、最も大きな理由は、「進化論」の教育を受けてきたことにあるのではないかと思います。
二、進化の証拠
日本の高校の生物の教科書にこう書かれています。
「現在、地球上には、動物や植物など多種多様な生物が生活している。しかし、地球が誕生した約46億年前には、地球上に生物は存在しなかった。地球の歴史のなかのあるとき、ある場所で原始的な生物が誕生した。その生物は自己複製をくり返して子孫を生み出しながら進化して、現在のような、複雑な体制をもつ動物や植物が現れてきた。」(三省堂『高等学校 生物?』156頁)進化論は、進化論学者の間でも意見が一致していない、ひとつの仮説なのです。それは証明された真理ではないのですが、教科書では、あたかもそれが事実であるかのように扱われています。そして、この教科書は
「現生の生物が、過去の生物から進化してきたことは、さまざまな証拠から明らかにされている。」(同182頁)と言っています。進化論には「証拠」があって、それは正しいのだというのです。そして、その「証拠」として、「ウマの進化図」、「相同器官」、「痕跡器官」、「胚の比較」の四つをあげています。しかし、これらは、本当に進化論の証拠になっているのでしょうか。一つづつ調べてみましょう。
1. ウマの進化図
教科書にある「ウマの進化図」では、ウマは最初はからだの小さいイワダヌキのようで、指の数が前肢が4本、後肢が3本だったが、だんだんとからだが大きくなり、森林から草原に出るようになって指の数が減って前肢も後肢も指が一本だけの今日のウマへと「進化」したことを示しています。これは1879年にマーシュとハクスレーが化石を並べて唱えた説ですが、ウマの原型とされるヒラコテリウムは、今日では、ウマとは全く別種の動物であることが知られています。彼らの化石の並べ方はきわめて主観的で、1本指のウマの化石も3本指のウマの先祖とされる化石も、同じ地層から出ていることが無視されています。ウマは進化して徐々にからだが大きくなっていったと言いますが、現在もファラベラポニーという小さなウマも、シャイアーという大きなウマも同時に存在しています。これらの形の違ったウマは、同じ、もとになるウマから進化したというよりは、最初からそれぞれ形の違ったものとして造られたと考えるほうが事実に即しています。ファラベラポニーは進化から取り残されたわけではないのです。
2. 相同器官
「見かけ上の形や働きは異なっていても、基本的な構造が同じである器官を相同(そうどう)器官という」のですが、教科書によると、鳥の翼は、四肢の動物の前肢が、「空を飛びたい」という欲求や、「空を飛ぶ必要がある」という環境に適応するために変化したものであるというのです。骨格の基本構造が同じなのは、生物が共通の祖先から出てきた証拠であるというのですが、これは論理の飛躍のように思われます。生物の骨格が基本的に同じ構造であるのは、それが、力学の法則にかなっているからです。この地上に生きるすべてのものは、同じ環境にあるわけですから、共通したものを持っているのは当然です。また、生物が共通したものを持っているのは、共通した造り主によって設計されたことの証拠でもあるのです。聖書によれば、水に住む生物は水に住むものとして、地上に生きる生物は地上で生きるものとして、空を飛ぶ生物は空を飛ぶものとして、それぞれ、最初からその環境に適するものとして独自に造られたと教えています。今日、地球の温暖化によって、多くの生物が絶滅の危機に瀕しています。生物は環境の変化に対してそんなに適応できないのです。しかも、環境への適応が何世代にわたって引き継がれていくというのは、考えにくいことです。魚が地上を歩きたいと欲求して、爬虫類になり、その爬虫類が空を飛びたいと願って、鳥になったというのは、おとぎ話としては面白いかもしれませんが、科学的でも、生物学的でもありません。「始祖鳥」の化石が発見されたとき、クチバシに歯があり、翼に鉤爪があったので、これは爬虫類が鳥になりかけている中間の生物であるとされましたが、現在もクチバシに歯があり、翼に鉤爪のある鳥がいます。始祖鳥は、そのような鳥のひとつだったのです。
3. 痕跡器官
痕跡器官というのは、進化論によれば、その生物の先祖の時代には必要だったが、環境の変化に適応していくうちに、以前の機能が不要になり、痕跡として残ったもので、進化の「名残り」と考えられてきました。教科書では、虫垂、尾骨、扁桃などが例にあげられています。しかし、医学の発達により、1890年に180個もあげられていた痕跡器官は、現在ではもはや痕跡器官としては認められていません。虫垂は「虫垂炎」を起こすやっかいでいらないものと考えられていましたが、実は免疫に関して重要な役割を果たしていることが分かっています。尾骨は、人間がもとはサルのように尻尾を持っていたことの名残りだと言われてきましが、実は、これは九つの筋肉をつなぎとめている重要なもので、これがなければ、排便など日常の生活ができなくなってしまいます。扁桃は、喉の入り口にある器官で、炎症を起こすと大きく腫れます。それで、これも不要な痕跡器官とされていましたが、扁桃が腫れるのは、それによって細菌の進入を喉の入り口で防ぐためなのです。このように、今まで痕跡器官とされていたものが、今では重要な役割を果たしていることが分かっています。医学や生物学の世界では、「痕跡器官」という言葉すらなくなっているのに、痕跡器官が進化の証拠として教科書に掲載され続けているのは、かなり時代遅れなことです。
4. 胚の比較
「胚」というのは、受精卵が細胞分裂を繰り返し、からだの器官のもとになるものが造られるまでの段階を言います。教科書に載っている図によると、どの生物も、発生の最初の段階ではみな同じ形をしていており、これは、すべての生物が、共通の原始の生物から出てきた証拠であるとされてきました。人間はその成長の段階で、魚の段階、爬虫類の段階を経、サルのように尻尾の生えた段階を経てから、人の胎児になる、つまり、母の胎内で進化の過程をくりかえしているのだというのです。これはヘッケルという人が唱えた説で、「反復説」と言われていますが、実は、ヘッケルは、自分の説を正当化するために、それぞれの生物の胚の絵をわざと似せて描いたのです。
実際の観察に基づいて描かれたものを見ると、それぞれの生物の胚が大きく違っていることが分かります。人の胚は決して魚の段階や爬虫類の段階などを通ることはありません。魚の鰓穴だと言われてきたものも、下あごや中耳、胸腺、副甲状腺になることが知られています。
この項目の参考記事 Johnathan Wells, "SURVIVAL OF THE FAKEST" <http://www.discovery.org/articleFiles/PDFs/survivalOfTheFakest.pdf> 図は、<http://www.dcsociety.org/id/publication/060304.html> より転載
三、創造の神
進化論は、共通した生命体からさまざまなものが分かれて、今日みられるさまざまな生物になったという説です。この地上で、生き物がみごとに自然の環境に適応しているのは、生物そのものに、「進化」という環境に適応して自分を変化させる力があるからだと言うのです。これに対して、創造論は、神が、さまざまな種類の生物を、はじめから完成した形で造られた。時間の経過や環境の変化によって絶滅したものもあり、同じ種の中でも遺伝の法則にしたがって、形や性質の異なったものが分かれてきてはいても、今日のさまざまな生物は、最初にいた生物とあまり変わっていないと言います。進化論も創造論のどちらも科学であって、証拠によって証明されなければなりません。「創造論」は神を持ち出すから科学ではなく、信仰だと言う人もありますが、科学というものは、何らかの前提、出発点を持っており、神を信じることが科学の妨げになったり、科学を成り立たせなくするわけではありません。ガリレイ、ケプラー、ニュートン、ファラデー、パスカル、リンネ、メンデル、ファーブル、マーサー、フランクリンといった科学者たち、エジソンなどの発明家たちの多くは、神を信じ、聖書を信じる人たちでした。その信仰に助けられて、科学を進歩させてきたのです。「創造論」を信仰だというのなら、「進化論」も「神はいない」という前提に立っており、そう意味では、一つの信仰です。どちらの説がよりよく事実を説明しているか、どちらの信仰が、私たちの人生に意味を与え、目的を与えるかを考えてみてください。
世界のはじまりを誰も見た者はありません。時間を逆に戻して、世界のはじまりから今に至るまでを繰返すことはできません。世界のはじまりを誰も見た者はありません。私たちは時間を逆に戻して、世界のはじまりから今に至るまでを繰返すことはできません。しかし、神は、世界のはじまりの前からおられたお方、世界にはじまりを与えたお方です。聖書は、その神が、世界のはじまりについて描いておられる書物です。世界のはじまりばかりでなく、はじまりから今にいたるまでの歴史を、そして、いまから後起こることを聖書は描いています。私たちには、科学の証拠だけでなく、聖書のことばという確かな証拠によって、この世界が神によって創造されたことを知るのです。そして、神の創造された世界でどのように生きるべきかを学ぶのです。ほとんどの製品には、それを使う上での注意事項を書いた「ユーザズ・マニュアル」が付いてきますが、聖書は、ある意味では、神からの「ユーザーズ・マニュアル」なのです。聖書の創造の記録から、創造者である神をより深く知り、神に信頼することを学びましょう。それが、神の造られた世界で喜びと力を受けながら生きる道なのです。
(祈り)
神さま、あなたは、すべてのものを造り出されたお方です。あなたこそ、あらゆるものの「はじめ」であるお方です。私たちの人生も、あなたを「はじめ」に置くとき、幸いなものになります。「はじめに、神」と聖書が言うように、この一年のはじめに、あなたを第一とする信仰と生活に、私たちを導いてください。私たちの主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
1/4/2009