6:1 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
6:2 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
6:3 もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
6:4 ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。
6:5 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
一、重荷
徳川家康の遺訓に、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とあるように、誰もが、何らかの「重荷」を抱えて生きています。自分が障害を持っていたり、障害のある家族を抱えている人が少なからずいます。それがどんなに大変なことかは、経験した人でなければ分からないでしょう。医学は発達しましたが、それでも治らない病気がたくさんあります。難病や心の病で苦しんでいる人も少なくありません。経済的な負担、仕事や人間関係からくるプレッシャーなどの重荷を背負っていない人はおそらく誰もいないでしょう。
わたしたちが背負う重荷のうちで、一番重いのは「罪」の重荷です。ダビデはイスラエルの王として、国の重荷を一身に背負っていました。時には、その重圧に潰されそうになったことがあったでしょう。しかし、そうしたものは、罪の重荷の比ではありませんでした。彼が罪を犯した時、彼は全く打ちのめされてしまいました。ダビデは言っています。「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、かれ果てた。」(詩篇32:3-4)
ある人の詩に、こういう詩があります。
心さえ明るければ
かなりの辛さに耐えられる
もし私の心が
神を信じてほんとうに明るければ
人は、特に、神を信じる者は、神の光に照らされた明るい心があれば、かなりの重荷にも耐えることができます。しかし、解決されていない罪や、疑い、不信仰などいった闇が心にあると、それは人を押しつぶす重荷になってしまうのです。
主イエスが「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われた時、その「重荷」は、まずは「罪の重荷」を指しておられたのだと思います。イエスは、わたしたちから罪の重荷を取り去るために、何をしてくださったか、わたしたちはよく知っています。主は十字架でその命をささげてくださったのです。「ああカルバリ」という賛美では「主の恵みは深く、豊かにゆるしたもう、わが重荷は去れり、ああカルバリ」と歌われています。他にも「罪、重荷をのぞくは 血の力、主の血は悪魔のわざをこぼつ くしき力なり」と歌う賛美もあります。イエスのもとに罪の重荷をおろしたわたしたちは、こうした賛美を、心から、力強く歌うことができるのです。
では、クリスチャンは、もう、どんな「重荷」も負うことが無くなったのでしょうか。いいえ、たましいは救われても、わたしたちはまだ弱い肉体の中にいますし、わたしたちをとりまく環境はすぐには変わりません。人には、生きる限り、負わなければならない重荷があるのです。たとえ、自分のことでは大きな重荷はなくても、クリスチャンには、家族や、自分がかかわっている人々の救いのために働くという重荷があります。パウロは、自分の民族、ユダヤの人々の救いのために、大きな重荷を持っていました。ローマ9:2-3でこう言っています。「すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。」人々の救いのための「重荷」、これはクリスチャンであるなら、誰もが負わなければならない「重荷」なのです。
二、互いに
聖書は「互いに重荷を負い合いなさい」(ガラテヤ6:2)と言って、互いに重荷を負い合うことを教えています。「喜びはふたりで分けると倍になり、悲しみは半分になる」とよく言われます。主は、わたしたちがひとりで重荷を背負い込むことがないようにしてくださいました。わたしたちと一緒に重荷を背負ってくださるのは、まず、誰よりも主イエスご自身です。重荷を引っ張るためのくびきの片方はイエスが背負っていてくださることを、忘れないようにしましょう。また、イエスは、「互いに重荷を負い合う」ことができる信仰の仲間をわたしたちの身近に置いてくださいました。
「お互いさま」という言葉があります。「互いに重荷を負い合う」というのは、自分が他の人の重荷を背負うとともに、自分の重荷も他の人に背負ってもらうということです。人の重荷を背負っているつもりでも、実際は、その人に自分の重荷を背負ってもらっているのです。親は子どものために大きな重荷を背負わされます。かつてのアメリカでは、若者はハイスクールを卒業すれば自分ひとりの力で大学に行き、自分の人生を歩みはじめましたが、今では、結婚したあとでも、親の世話を期待する人たちが増えてきました。けれども、そのような場合でも、親が一方的に子どもの重荷を負っているのではなく、子育てや子どもの援助を通して、親は子どもから励ましを受けます。子どもに自分の重荷を負ってもらっているのです。年老いた親を介護するのは、大変な労苦で、大きな重荷に感じられることもあるでしょうが、その場合も、介護している親に慰められることが多いと思います。親に自分の重荷を背負ってもらっているつもりで、自分の重荷も負ってもらっているのです。まさに「お互いさま」です。
「お互いさま」とは、美しい日本語です。この言葉はギリシャ語で ἀλλήλων(allēlōn)といって、新約に100回近く出てきます。ところが、その半分は、悪い意味で使われています。「互いに裏切る」「互いに憎み合う」「互いに敵対する」「互いにつぶやく」「互いに論じ合う」「互いに傷つけ合う」「互いにはずかしめる」「互いに責め合う」「互いにさばき合う」「互いに奪い合う」「互いに悪口を言う」「互いに殺し合う」などです。前回学んだガラテヤ5:26にも「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」と書かれていました。こうした言葉は、人と人とが互いに互いを痛めつけ合っている現状を描くとともに、それに対して神が心を痛めておられることを、わたしたちに伝えています。キリストがおられない人間関係は惨めな結果しかもたらしません。たとえ、表面的に一致しているかのように見えても、それは神を締め出すために同調しているだけで、本当の一致ではありません。
三、キリストの律法
しかし、「互いに」の中にキリストを迎えるとき、そこには本物の、良い人間関係が生まれます。それは、「互いに受け入れ合い」(ローマ15:7)「互いに忍び合い」(エペソ4:2)「互いに赦し合う」(コロサイ3:13)まじわり(コイノニア)です。「互いに受け入れ合う」と言っても、それは聖なるものも俗なるものも、善も悪も、光も闇もいっしょにというものではありません。それは神の聖なる光の中にあるものです(ヨハネ第一1:7)。低いところで馴れ合うのでなく、より高いものを目指して「互いに訓戒し合い」(ローマ15:14)「お互いの霊的成長に役立つこととを追い求める」(ローマ14:19)ものです。
これは一言で言えば「互いに愛し合う」ということです。そして、「互いに愛し合う」というのは「キリストの律法」です。「キリストの律法」というのは、これが、イエス・キリストによって直接与えられた戒めだからです。「神を愛する」ことと、「隣びとを愛する」ことは、旧約ですでに与えられていた戒めであり、それは「律法」の中心です。イエスは「神を愛する」ことと、「隣びとを愛する」ことに加え、第三の愛、キリストにある者たちの互いの愛を、加えられました。ヨハネ13:34に「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とある通りです。「神を愛する」ことと「隣びとを愛する」ことは、すべての人に命じられていることですが、キリストを信じる者には、そのうえにさらに「互いに愛する」ことが求められているのです。クリスチャンには、互いに重荷を負い合い、「キリストの律法」を満たすことが求められているのです。
しかし、神を愛し、隣びとを愛することさえ、おぼつかないわたしたちに、それ以上のこと、「互いに愛し合う」ことができるのでしょうか。もちろん、「生まれつき」のままでは、また、「肉の人」のままではできません。しかし、きょうの箇所に「霊の人であるあなたがたは…」とあるように、聖霊に信頼し、聖霊によって歩む者にはそれができるのです。「霊の人」とは「成長した」クリスチャンという意味ではありません。さまざまな弱さや欠けがあっても、「成長を目指している」人のことです。
主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。パウロは「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:32)と言い、ヨハネは「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(ヨハネ第一)と言っています。大切なのは、「神がわたしたちを愛してくださった」「神がわたしたちを赦してくださった」という言葉です。わたしたちは、みずからがキリストの愛と赦しを受け、それに感動し、感謝し、それによって生かされてはじめて、「互いに愛し合い」「互いに赦し合う」ことができるようになるのです。
「互いに愛し合う」ことは、イエス・キリストの十字架の愛から出ているのです。「神を愛する」ことと、「人を愛する」ことという戒めは、神がモーセに与えた十戒の二枚の石の板に書かれましたが、「互いに愛し合う」ことという戒めは、十字架の上に、主イエスの血で書かれたと言うことができるでしょう。十字架の愛を知り、それに生きる以外に、この「キリストの律法」を満たす道はありません。
ヨットは、風が吹いてくる方向に向かって進むことができす。けれども、そのためには帆を操作するとともに、船底にあるセンターボードと呼ばれる、大きな舵を操作しなければなりません。それは、水の中にあって、外からは見えません。けれども、それがヨットに安定を与え、方向を定めているのです。わたしたちがそれぞれに負っている「重荷」は、ヨットのセンターボードのようなものです。神から与えられた重荷にしっかり取り組むことによって、わたしたちの人生は、安定し、方向を定めることができます。そのとき、「霊の人」は聖霊の風を受けて進むことができるのです。
もし、わたしたちに負うべき何の重荷もなければ、わたしたちの人生はおそらく、うすっぺらなものになり、この世の流れに流されるだけのものになるでしょう。まず、「自分自身の重荷を負う」、そして、「互いの重荷を負い合う」のです。このことによって、わたしたちの人生は、「キリストの律法」を満たすものになるのです。「自分自身の重荷を負い」、「互いの重荷を負い合う」、この「キリストの律法」を喜びとし、目標としましょう。そのようにして、聖霊の風を受けて進んでいく「霊の人」となることを、心から願い求めましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたがわたしたちから取り除いてくださった重荷と、新しく与えてくださった重荷の意味をともに考えることができ、感謝します。なおも、わたしたちにそのことを教え、自分の重荷をしっかりと受け留め、互いに重荷を追い合うことを、実践できるよう、導き、助けてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
10/21/2018