5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
今月は、ガラテヤ人への手紙からの「御霊の実」について学んでいます。御霊の実は九つあり、最初の三つ、「愛、喜び、平安」は私たちと神との関係における実、次の三つ、「寛容、親切、善意」は私たちと他の人との関係における実、そして、最後の三つ、「誠実、柔和、自制」は、私たち自身に関する実です。今日は、私たち自身に関する三つの実、「誠実、柔和、自制」について学び、こうした実を結ぶ秘訣を、聖書の中からご一緒に探求してみたいと思います。
一、誠実、柔和、自制の実
御霊の実の第七番目「誠実」という言葉は、ギリシャ語で「ピスティス」と言います。「ピスティス」という言葉は、聖書では「信仰」と訳されています。コリント人への手紙第一12:3に「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあり、信仰もまた聖霊によって与えられますから、「ピスティス」を「信仰」と訳して、「信仰」を御霊の実のひとつと考えることもできますが、ここでは、やはり、「誠実」と訳すのが良いでしょう。この場合、「ピィスティス」は「信頼して大丈夫なこと」という意味になります。
私は、日本にいた頃、海外青年協力隊に入って、世界のさまざまな国々の人と一緒に働いてきた人と知り合いました。その人は私に、こんなふうに話してくれました。「日本では、滅多に宗教のことや信仰のことは話題にのぼらないけど、他の国の人は必ず、『君の信仰はなんだい?』と聞いてきます。ある時、ぼくが『家の宗教は仏教だけど、ぼくは何も信じていないよ。』と答えると、『信仰を持っていない人は信頼できない。』と言われてしまいました。」クリスチャンなら誰でも信用できて、無信仰の人なら誰も信用できないということではありませんが、多くの場合「信頼できる人」、「人々から信頼されている人」は、きちんとした信仰を持っている場合が多いように思います。神に信頼しながら生きている人が「信用のおけない人」「信頼できない人」というのでは、困ってしまいますね。神への信頼を深めていくにつれて、人々からの信頼をも勝ち取ることができるものになりたいと思います。
そして、「信頼に足る人間」になるということは、「真実な人」になるということであることも覚えておきましょう。「ピスティス」には「信仰」、「誠実」という意味の他に「真実」という意味もあるのです。能力のある人には、確かに多くの人が付き従うでしょう。また、気前のいい人のまわりには多くの人が集まるでしょう。けれども、本当の意味で信頼されるのは、裏表のない真実な人、まっすぐな人です。先週のある集まりで、ひとりの姉妹が、リトリートの感想を話してくれました。彼女のスモールグループには年配の人たちが多かったのですが、信仰歴何十年というクリスチャンが、「今も、日々悔い改めて、成長を求めています。」とあかししているのを聞いて、その誠実さに感動したというのです。私たちの教会には、自分たちはすでに立派なクリスチャンになっていると自負して、「今ごろの若い者の信仰はなっとらん。」などと先輩風を吹かせるような人が誰もいないのは、ほんとうに素晴らしいことです。真実というのは、その心や生き方に偽りがないということなのですが、自分の心や生活を正直に見つめ、罪や誤りがあればそれを心から認め、悔い改めていく姿は素晴しいですね。そうした誠実さが他の人に感動を与えるのです。神は私たちの心の中に真実を求められますが、人々もまた、真実な神を信じる者たちに、それにふさわしい真実を求めていると思います。真実な生き方によって人々の信頼を勝ち取ることのできる「誠実」という実を豊かに結びたく思います。
第八番目の実、「柔和」は、決して、物腰が柔らかいというだけのことではありません。それは、神の前に心からへりくだる謙遜さを意味しています。被造物である私たちが創造者であるお方の前にひれふすこと、また、罪を持った私たちが、聖なるお方の前におののくことです。そして、そのような心で神の前に立つ人はまた、他の人に対しても、謙遜でいられるのです。私たちは謙遜や柔和を美徳として大切にしてきました。しかし、神を知らなかった時には、おひとりの偉大な神の前には、人間はみな等しい存在だということが心底わからず、どこかで、誰か他の人と比較して、自分は優れている、自分は劣っていると考えながら生きていました。「日本人は腰が低い」と、よく言われます。私は、「そりゃ、足が短いからさ。」と冗談を言うのですが、神は、私たちに単なる物腰の柔らかさや、うわべだけの柔和さではなく、内面の「柔和さ」を求めておられます。ペテロの手紙第一3:4に「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」とあります。どんなにきらびやかに自分を飾り立てても、それが心から出たものでなければ、神の目にはすぐさま見破られ、また、そうしたものは、やがて人の目にも本物でないことが明らかになるでしょう。本当の柔和は、御霊の実として与えられるのでなければ、決して得ることのできないものです。しかし、柔和の実を持つ人には、主イエスが「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:5)と約束されたように、神が与えようとしておられる大きな祝福を受けることができるのです。
第九番目の実、「自制」は現代の私たちに、一番欠けているものかもしれません。このごろは、すぐ「切れて」しまい、暴力をふるったり、人を殺してしまったりする人がずいぶん増えています。特に日本からのニュースには、友だちに冷たくされたからといって、友だちを傷つけてしまう、父親に注意されたからと言って父親を殺してしまうという恐ろしいことが毎日のようにあります。私は、最初「切れる」というのが、どういう意味かわかりませんでした。「プッツン」と言う言葉がはやったおともありましたが、「プッツン」と「切れる」という意味なのでしょうね。そういえば「堪忍袋の緒が切れて」と言いますね。忍耐ができなくなる、自制心が効かなくなることを「切れる」というのです。風に乗って空を舞う凧には、紐がついています。紐があるので、凧はコントロールが効くのですが、紐が切れてしまったら、たちまち、地面に落ちてしまいます。自制心は凧の紐にたとえることができます。凧の紐が「切れる」と凧はどこに飛んでいくかわからず、ついには、地上に落ちて、壊れてしまいます。それまで、どんなに人に対して寛容で、親切で、善意があり、誠実であり、柔和であったとしても、自制心を失った瞬間に、それらすべてのものが台無しになってしまうのです。それで、使徒パウロは、スポーツの選手のことをたとえに引いてこう言っています。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(コリント第一9:24-27)パウロは御霊の実である「自制」を大切なものとし、それを求め、それをしっかりと身につけようと努力していました。パウロでさえ、このようににそれを真剣に求めていたなら、まして私たちは、もっと「自制」を求める必要があります。
二、実を結ぶ秘訣
しかし、このように、御霊の実について、くわしく学べば、学ぶほど、それを身につけることが、どんなに難しいかが分かってきます。神が私たちに求めておられるのは、決して表面的なものではありません。クリスマス・ツリーのように、木の枝に飾りをつけるというのではなく、木の枝が内側からの力によって実を実らせることなのです。どうしたら、本物の御霊の実を実らせることができるのでしょうか。それは、私たちのうちに、神のいのちが働くことによってです。切り取ってきたクリスマスツリーは、いくら待っても、実を結ぶどころか、どんどん枯れていくだけです。しかし、地面に植えられた木は、しっかりと根をおろし、太陽の光を受けているかぎり、かならず実を結ぶ時がやってきます。私たちも、キリストに根ざし、神の恵みを受ける時、実を実のらせることができるのです。
しかし、聖書は、私たちが神のいのちによって生かされる前に、まず、死ぬ必要があると教えています。「生かされるために死ぬ」とは、どういうことかと言いますと、「古い私」が死ぬことを言います。これは「自我の死」とか、「肉の死」とか言われます。こどもたちに「世界の真中に何がある?」と聞くと、しばらく考えて「はい、蚊です。」と答えます。「セ・カ・イ」の真中は「カ」だからです。ところが「私」の真中には「カ」ならぬ「我」がいるのです。私たちは、知らず知らずのうちに、「自分の考え」「自分の知識」「自分の判断」「自分の好み」「自分の願い」など、「自分」を主張し、神に対してさえ、「我」を押し通そうとしています。この古い私をなんとかしない限り、どんなに良い実の種であっても、茨の中に蒔かれた種のように、茨の勢いに負けて、実を結ぶことができなくなってしまうのです。古い私が死に、私たちの罪深い性質がどこかで処分されなければなりません。古い私はどこで死に、私たちの罪深い性質はどこで処分されるのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架の上でです。24節に「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」と書いてあるとおりです。クリスチャンであれば、誰もが、イエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、私の罪のためだったということを知っています。キリストは、私たちが受けなければならなかった罪の刑罰を代わって受けて十字架で死なれたということを信じています。しかし、残念なことに、多くのクリスチャンが、あの十字架で、古い私も、私の罪深い性質も一緒に死んだことを知らないでいるのです。聖書にそう書いてあっても、信仰によってそれを自分のものとしていないのです。
ローマ人への手紙には、私たちが罪に対して死んだことが次のように書かれています。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」(ローマ6:3-4)バプテスマ(洗礼)を受け、水に沈められた時、古い私は、そこでいわば溺死してしまい、水から出てきた時には、新しい私になっていたのです。バプテスマは、新しい私の誕生を表わすものですが、それは同時に古い私のお葬式でもあったのです。ローマ人への手紙は続けて「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:6-7)と言っています。そして、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)と勧めています。ここで「思いなさい」と言われている言葉は、「勘定しなさい。」という意味の言葉です。会計簿をつけるときに、このお金は食費に、このお金は修理費にとふりわけますね。そのように、古い私を、「死んだ」ほうに勘定してしまうのです。聖書は罪を負債、借金にたとえていますが、借金を背負った古い私は「死んだ」のですから、負債はゼロに勘定してしまっていいのです。「私がキリストと共に十字架で死んだ。」ということは、確かに私たちの経験をこえた事柄で、理解しにくいことかもしれません。しかし、信仰によって、この真理を受け入れて、古い自分を死んだほうに勘定してしまう時、そこから、今度は、キリストの復活の力によって生きる、聖霊によって生きるということが分かってくるのです。
御霊の実を結ぶために、私たちはいったん死に、再び生きなければなりませんが、古い自分を死なせることも、新しい自分を生かすことも、私たちの力でできることではありません。それは、神だけができることです。神は、私たちがイエス・キリストを信じる時、神は、キリストの復活の力によって私たちを生かしてくださるのです。その時、聖霊が私たちを神の子として生んでくださり、その後も、私たちのこころの中に留まり、私たちを生かし続けてくださるのです。私たちは、イエス・キリストによって罪を赦されました。すでに罪の刑罰から救われています。サタンも私たちの罪を責めることはできないのです。しかし、私たちはまだ罪の力が支配しているこの世に生きています。クリスチャンであっても、罪を犯すことがあります。しかし、進んでではありませんね。ある教会で、その教会のメンバーになりたいと願ったひとりの姉妹が、牧師たちのインタビューを受けました。牧師が聞きました。「あなたは、イエス・キリストをどのように信じていますか。」彼女は答えました。「はい、私の罪からの救い主と信じています。」牧師:「それでは、あなたの罪は、もう赦されているのですね。」姉妹:「はい、そうです。」牧師:「では、あなたはもう罪を犯しませんか。」こう尋ねられた時、この姉妹は、すこし考えてから、「はい、時々は。でも、キリストを信じる前は、私が罪を追っかけていましたが、今は、罪が私を追っかけてきます。しかし、キリストによって私は罪に打ち勝つことができると思います。」私たちが罪を追いかけるのと、罪が私たちを追いかけてくるのとでは大きな違いですね。私たちは、この世にある限り、罪の力からの挑戦を受けるでしょうが、私たちのうちにいてくださる聖霊によって私たちは罪の力に打ち勝つことができるようになります。そして、やがて、私たちは、罪の存在そのものからも救われて、神の国に入るのです。神の国、天国には、罪そのものがないのです。
私たちがキリストとともに死に、キリストとともに生きることについて、ガラテヤ人への手紙は2:20でこう言っています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」これはまさに「信仰の奥義」のようなことばです。このことばの意味はたんに説明して理解できるものではないと思います。しかし、私たちがキリストを信じる信仰によって歩み、御霊に導かれて生きるなら、このことばの意味を体験として理解できるようになるでしょう。私たちはキリストの十字架によって罪に死に、キリストの復活により、聖霊により生かされました。ですから、私たちはキリストを信じる信仰によって生き、聖霊に導かれて歩むのです。その時、私たちは、聖霊が私たちのうちにその実を結んでくださるのを見ることでしよう。そして、その御霊の実によって、私がキリストともに死に、キリストが私のうちに生きておられるという「奥義」をいっそう理解することができるようになります。ガラテヤ人への手紙は、御霊の実について教えた後、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。」(25、26節)と結んでいます。「御霊に導かれて」歩む日ごとの生活の中に、御霊の実があるのです。このことによって、日ごとの生活の中に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結んでいきましょう。
(祈り)
父なる神さま、今朝、御霊の実を結ぶ秘訣が、キリストとともに死に、キリストとともに生きることにあることを学びました。これは決して自分の力でできることではありません。しかし、あなたは、私たちには不可能なことを可能にするため、私たちに聖霊を与えてくださいました。聖霊によってはじめて、私たちは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制の実を結び、それらを身に着けることができます。私たちが聖霊に導かれて進むことができるために、私たちがキリストとともに死に、御霊によって生かされていることを、信仰によって私たちのうちにしっかりととらえることができますよう、お助けください。私たちのうちに生きておられるキリストのお名前で祈ります。
11/16/2003