5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
「実りの秋」に、私たちも良い実を結びたいと願い、先週から、ガラテヤ人への手紙より「御霊の実」について学んでいます。御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の九つあって、「愛と喜びと平安」、「寛容と親切と善意」、「誠実と柔和と自制」の三つづつに分けることができます。先週は「愛、喜び、平安」の三つをとりあげましたので、今週は「寛容、親切、善意」に進みましょう。
「愛、喜び、平安」の三つは、私たちと神との関係における「実」でしたが、「寛容、親切、善意」は、私たちと他の人との関係における「実」です。私たちのかかえる問題の多くは人間関係の問題です。人間関係の問題は、昔も今も、世界のどこの国でも共通しており、私たちが生きているかぎりつきまとう、人間として避けられない問題ですが、もし、私たちが「寛容、親切、善意」という実を実らせることができたら、きっと、多くの問題は解決することでしょう。今朝は、「寛容」、「親切」、「善意」のそれぞれを順に学んでみたいと思います。
一、寛容
最初に「寛容」についてですが、この言葉はもとの言葉で「マクロスミア」と言います。「ミクロス」、「ミクロ」、あるいは「マイクロ」というのは小さいことを表わしますが、「マクロス」、あるいは「マクロ」というと、大きいことを表わします。「ミクロの世界」というと、生物の細胞のしくみを扱ったりする時に使うことばですね。マイクロフォンを使うと、声を大きくすることができますが、「マイクロフォン」というのは、小さな音も拾うことのできる機械なので、「マイクロ」という言葉がついています。これに対して「マクロの世界」という時には「宇宙の法則」をさし、「経済をマクロの視点から見ると…」という時には「世界規模の経済」をさします。皆さんも "macrocosmic" や "macroeconomic" といった言葉をニュースなどで聞いたことがあることと思います。ギリシャ語の寛容(マクロスミア)には「マクロ」という言葉が入っていて、それは、大きな心、広い心という意味になります。すべの良い人間関係は、大きな心、広い心で相手を受け入れることから始まるのです。
私たちはお互いに、生まれ育った文化や環境によって、多かれ少なかれなんらかの「偏見」を持っています。そうした先入観にもとづいた自分だけの考え方、物の見方だけですべてを判断して、「こういう人は悪い人だ」「こんなことは間違っている」と、他の人を頭から否定してしまうことがあります。実は、パウロも、もとはそういう人でした。彼は、パリサイ派というユダヤ教の中でも、最も保守的なグループに属していました。この人たちは他のグループを決して受け入れようとはせず、同じユダヤ人でも、律法を守っていない人々を「罪人」と決めつけ、同じ国に住むサマリヤ人を憎み、ユダヤ人でない人々を人間以下のもの、「犬」と呼んで軽蔑していました。パリサイ人たちはイエスを十字架に追いやり、イエスをキリストと信じる人々を迫害しました。パウロは、その迫害の先頭に立っていた人物です。パウロは、かっては、「寛容」のひとかけらも持っていなかったのです。
ところが、神は、そのようなパウロを大きい心、広い心で受けとめ、彼を、キリストを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者へと変えてくださったのです。神はパウロにご自分の大きな寛容を示してくださったのです。パウロはローマ人への手紙の中にこう書いています。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(ローマ2:1-4)彼は、きっと過去の自分の姿を思い起こしながら、こう書いたのでしょう。パウロはクリスチャンを罪に定め、迫害していた「他人をさばく人」でした。しかし、そんな彼も「神の慈愛」によって悔い改めに導かれたのです。ローマ2:4にある「神の豊かな慈愛と忍耐と寛容」は、彼自身が体験したことだったのです。この体験によってパウロは寛容を持つことができ、他のクリスチャンたちにも寛容を持つようにと勧めることができたのです。
パウロだけではありません。神に逆らい続けていたり、神に従うのをためらっていた私たちも、神の寛容によって、神に受け入れられたのです。私たちが今あるのは、神の寛容、大きな心、広い心のゆえです。このことが本当に分かれば、私たちはおのずと他の人に寛容ななれるのです。
今年の夏期修養会で、講師の先生は「風呂敷」の話をしてくれましたね。風呂敷は、小さいものでも、大きいものでも、四角いものでも、丸いものでも、どんな形でも包むことができるというお話でした。アタッシュケースは、頑丈にできていて、とても格好のいいものですが、その中にはスイカは入れられません。しかし、風呂敷なら大丈夫です。私たちも風呂敷のように、どんな人でも包み込んでしまうような大きな心を持ちたいと思います。E・マーカムという人の詩に次のような一節があります。
「彼らは輪を描いて私たちを締め出した。相手が、私たちとの間に線を引いたからといって、私たちも線を引く、相手が背を向けたから私たちも背を向けるというのでは、人間関係の問題は解決しません。神からいただく寛容で相手を包み込むことができたなら、私たちは良い人間関係を作り上げていくことができでしょう。「寛容」という漢字は、「広いいれもの」と書きますが、聖霊によって、そのような寛容の実を結ばせていただきましょう。
しかし、私たちは、彼らを取り込む、
もっと大きな輪を描いた。」
二、親切
次に「親切」という言葉ですが、一般には「困っている人を助けてあげる」というような意味で使われます。しかし、聖書では、別の意味で使われています。これは、先ほど引用したローマ2:4では「慈愛」と訳されており、他の箇所では「いつくしみ」とも訳されています。マタイの福音書11:28-30に「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とのイエスのことばがありますが、この中で「わたしのくびきは負いやすい」の「負いやすい」というところに「親切」という言葉が使われています。英語では "easy" などと訳されるのですが、この場合は「難しい」の反対の「易しい」という意味になります。つまり、「親切」というのは、誰もが利用することができるもの、誰にもすぐ役立つこと、良く使われる英語で言えば "user friendly" ということになるでしょう。
自動車はとても複雑な機械ですが、そんなに面倒なことを覚えなくても、誰もが運転できるようになりました。私は日本ではずっとシフト式の自動車に乗っていましたが、アメリカに来てからオートマチックに乗るようになって、ずいぶん運転が楽になりました。「オートマチック」ということで、ある人のしてくれた話を思い出します。この人は自分では自動車を運転できないのですが、ある日、ご主人が「今度はオートマチックの車を買おう。」と言いました。それを聞いた彼女は「オートマチックの車なら、私でも運転できる」と思って、近所の人たちに、「主人がオートマチックの車を買ってくるのよ。そしたら、私も運転できるようになるわ。」と話していました。いよいよ、その車がやってきました。彼女は、喜んで運転席に座わり、ご主人が助手席に座りました。ところが、いくら待っても、車は動き出そうとしません。「どうして動かないの?」と聞くと、ご主人は「キーをまわしいてエンジンをかけてから、そこのハンドルを "Drive" に入れるんだよ」と教えました。これを聞いた彼女は、「なーんだ。オートマチックというから、座席に座ったら自動的に動くかと思って、じっと待っていたのよ。それなら、ちっともオートマチックじゃないじゃない!」と言いました。これは実際に聞いた話で、この話を聞いた時には、おなかを抱えて笑いましたが、将来は、行き先を入れると、本当に自動的に運転してくれる自動車ができるかもしれません。そういうオートマチックの車なら、ほんとうにユーザ・フレンドリーで、人間に「親切な」車ということになりますね。私たちも「親切」ということを考える時、「私は、他の人とって使いやすいだろうか。ユーザーフレンドリーだろうか。ちょっと間違った扱い方をされただけで、相手を責めたり、背を向けてしまう難しい人間でないだろうか。」と考えてみる必要があります。
私たちが何かをする時や何かを語る時には、三つのことを考えてみると良いと、よく言われます。まずは、「それは正しいか」「それは真実か」ということです。間違ったことをすれば、それは犯罪になりますし、本当でないことを言えば、それは嘘になってしまいます。子どもを叱る時、「あんたはいつも悪いことばかりして…」と言うことがありますが、これは本当とは思えません。子どもは朝から晩まで悪いことばかりしているわけではありません。良いことだってしているわけですから、正しく子どもを見て、正しいものの言い方をしなければなりません。
次は、「それは適切か」「それは必要か」ということです。たとえそれが正しいことであっても、本当のことであっても、今、この場で、口に出す必要のないこと、口にしてはいけないこともあるのです。夫婦や親子、友人同士、信仰の仲間など、親しい間がらであっても、いつでも何でも思ったとおりのことを口にしていいわけではありません。言わなくてもいいことが、案外多くあるものです。それを言ってしまったために、人間関係がこじれてしまうことは、良くあることです。「それは本当か」ばかりでなく、「それは必要か」ということも心に留めたいものですね。
しかし、それと同時に、しなければいけないことをしなかったため、また、言わなければいけないことを言わなかったために人間関係を冷たくしてしまう場合もあります。何かをする時、「それは本当か」「それは必要か」だけでなく、「それは親切か」ということも考えてみましょう。る必要があります。同じことを言うにも、優しく、分かりやすく言ったほうが相手に「親切」です。聖書は「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」(コロサイ4:6)と教えています。態度や行ない、ことばに、暖かさ、優しさ、分かりやすさ、心遣いという、「親切」が伴うよう祈り求めていきましょう。
三、善意
最後に、「善意」ですが、これは英語で言えば、Good Will です。 Good Will と慈善団体がありますが、聖書で使われている「善意」は、たんに慈善の心を持つということではありません。「真実を求める切実な思い」という意味です。聖書が教える「寛容」は真理が曲げられても平気な顔をしていることではありませんし、「親切」も、それによって人々の罪を助長するようなものではありません。寛容も親切も「真実を求める切実な思い」という意味での「善意」に支えられてはじめて、ほんとうの寛容や親切になるのです。聖書をラテン語に訳したヒエロニムスは、「善意」という言葉の意味は、イエスが神殿で商売をしている人たちを追い出した、あの神の家を思う熱心の中に見ることができると言っています。
エペソ5:9には「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」とあって、「善意」と「正義」と「真実」とが組み合わせられています。また、ローマ15:14には「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」と言っています。本当の寛容は善も悪もごちゃ混ぜにすることではなく、ひたすらに善いものを求めていくことの中にあり、また、本当の親切は、間違ったことをそのままにしておくことではなく、それを「互いに訓戒しあって」正していくことにあるのです。
先週のメッセージで、「御霊の実を損なおうとするものに、律法主義と『肉』とがある」と話しました。律法主義とは、規則や伝統のうわべだけを守っていれば中身はどうでもよいとするものなのですが、それは、御霊の実に反するものです。御霊の実である「善意」は、私たちに内面の真実を求めさせるからです。聖書の人間関係についての教えは、人との関係でうまく立ち回わることができるためのものではありません。どのような律法、法律、規則、とりきめ、あるいは道徳や格言も、つきつめていけば、私たちの内側に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」を求めているのです。そして、その要求を満たすものは、御霊の実以外にありません。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(22-23節)とあるように、私たちは御霊の実によってはじめて、律法の求めるものを満たし、うわべだけをとりつくろうことや、みせかけだけの生活などから解放されるのです。
また、御霊の実は、人間の生まれつきの罪深い性質である「肉」に打ち勝つ、ただひとつの方法です。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(24節)とあるように、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によって、私たちは「肉」から解放され、「御霊の実」を結ぶことができるのです。「善意」という御霊の実によって、私たちは、聖書の真理に基づいた正しい人間関係を築き上げていくことができるのです。
「愛、喜び、平安」が、神のご性質であり、神から私たちに与えられたものであるように、寛容、親切、善意も、神のご性質です。神は寛容であり、神は親切なお方であり、神は善意に満ちたお方です。私たちは、神を信じることによって、神のご性質である寛容、親切、善意をいただくのです。神に従うことによってそれらを育てていくのです。御霊の実を、たんに道徳的に自分のものにしようとするなら、寛容も親切も善意も、手の届かないものになってしまいます。しかし、神を信じる者は、それが聖霊とともに、私たちに与えられていることを発見するのです。それは、私たちの心に命の種として植えられています。命あるものは必ず、芽を出し、花を咲かせ、実を実らせます。聖霊の力に信頼し、それを大きく育てていきましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたが寛容で、親切で、善意にあふれたお方であることを感謝いたします。あなたが私たちにどんなに寛容でいてくださったか、どんなに親切にしてくださったか、また、善意をもって取り扱ってくださったかを、より深く知らせてください。それによって、私たちがあなたにより信頼することができますように、そして、その信頼によって、私たちのうちに御霊の実を実らせ、私たちが他の人に対して寛容で、親切であり、すべてのことを善意をもって行なうことができるようにしてください。救い主キリストのお名前で祈ります。
11/9/2003