5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
昨年からはじめた「12ステップ」のメッセージ・シリーズは、「12ステップ」の概略をお話ししただけで、触れることのできなかったところ、語り尽くせなかったところが多くありましたが、きょう、最後のステップ、ステップ12をとりあげて、終りたいと思います。ステップ12は、「私は、これらのステップをへて精神的に目覚めましたので、このメッセージを他の人に伝え、あらゆる事がらにこの原則をあてはめるよう努力しました。」とあって、「12ステップ」の原則を、日々の生活にあてはめることを教えています。私たちの生活で「原則」はどれほど大切なのでしょうか。そして、「12ステップ」の原則とは、いったい何なのでしょうか。その原則を実行するにはどうしたら良いのでしょうか。今朝は、そうしたことをご一緒に考えましょう。
一、原則の大切さ
「12ステップ」は私たちの人生の原則を教えるものです。「12ステップ」は、こんなときにはこうしたらよいかという具体的な指示を与える、いわゆる「ハウ・ツー」ものではありません。「ハウ・ツー」ものというのは、すべての人に、どんな場合でも当てはまるものではありません。最近は、コンピュータやソフトウェアを買っても、使い方についてのマニュアルがついてくることが少なくなりました。あったとしても簡単なものしかなく、はじめてコンピュータを使う人に『コンピュータの使い方』などの本が必要になってきました。それで本屋さんには数多くの本が並ぶようになりました。確かにそこに書いてあるようにすれば、いちおうはEメールのやりとりをしたり、ウェブ・ページを見たりできるようになるのですが、そうした「ハウ・ツー」ものは、コンピュータの仕組みについては何も教えないので、いつもと違ったことをしなければならないとき、トラブルが起ったときは、それに対応できなくなってしまいます。それは、育児書も同じです。育児書の多くは、赤ちゃんが何ヶ月でどのぐらいの体重になり、どれだけのミルクを飲むようになるか、また何ヶ月ごろから離乳食を食べるようになるかなどといったことが書かれ、こんな場合はこうしたら良い、こんなことはしてはいけないなどといったことが詳しく書かれています。けれども、赤ちゃんひとりびとりには、みな個性があり、成長の度合いが違っていて、育児書通りにはいかないことが多いのを、みなさんはすでに体験していることでしょう。それに、育児書は、どうしたらこどもの発達を助け、健康を守るかについては書いてあっても、こどもの人格をどう育てるのか、こどもの人生をどこに向かわせてあげるかについては何も教えてはくれないのです。
機械の操作にさえ、原理・原則が必要なら、まして私たちの人生には、もっと原理・原則が必要であり、私たちはそれをしっかり学び身につけていなければならないのではないでしょうか。私たちのまわりには「ハウ・ツー」ものがあふれていて、人々はそうしたものに飛びつきはしますが、人生の原則を学ばないために、いつも目新しい「ハウ・ツー」を追い求めなければならなくなっています。聖書を、たんに「ハウ・ツー」ものとしてだけ読み、その原則をつかんでいないとしたら残念なことです。もちろん、聖書にはきわめて具体的な指示があり、いたるところに、いわゆる「生活の処方箋」があり、「人生のレシピ」があります。多くの人はそれによって聖書が、私たちの生活に無関係な書物でなく、身近で、役に立つものだということを知ることができるでしょう。しかし、そこで留まってしまっては、聖書が聖書でなくなってしまいます。聖書は私たちの人生に原理・原則を与える神のことばではなく、たんなる人生の参考書になってしまいます。聖書がいつの時代の誰に対しても神のことばであるのは、そこに、決して変わらない人生の原理・原則が示されているからなのです。私たちはそれを教会でしっかりと学び、身につけたいと思います。人間も人生も単純ではなく、複雑です。「こんなときはこうしたら良い」という決まりきったマニュアルだけでは対応できません。人生には思わぬ出来事が起こります。暗記すれば答えることができるような「練習問題」だけでなく、思いもよらないような「応用問題」がいっぱいです。「ハウ・ツー」もののすべてが悪いわけではなく、それが要らないわけでもありませんが、「ハウ・ツー」ものだけで終わっているなら、決して人生の「応用問題」を解くことはできませんし、人生の深い意義を味わうこともできません。
多くの人は「12ステップ」を人生の問題を即座に解決してくれるテクニックのように思っていますが、「12ステップ」をここまで学んできたみなさんは、これが単なるテクニックではないことを、すでにお分かりと思います。「12ステップ」は聖書にもとづいたもので、聖書の原則を私たちに教えるものです。「12ステップ」を学んだ私たちは、これを手がかりに、聖書の原則をしっかり身に着け、どんな人生の「応用問題」にもしっかり取り組むことができるようになりたく思います。
二、原則の中心
では「12ステップ」の原則の中心はどこにあるのでしょうか。「無力を認める」「悔い改める」「償いをする」などは、「12ステップ」の大切な部分で、ここに原則の中心があると言っても良いほどです。しかし、「12ステップ」には、これらのものを支えているもっと根本的な原則があります。ステップ2に「私は、自分よりもすぐれた力が私を正常にもどしてくれることを信じました。」とあるように、それは、神が、私たちを「正常」な状態、本来あるべきところへと戻してくださる「回復の神」だということです。神が私たちの回復を願っていてくださるからこそ、私たちは進んで悔い改めることができ、神が私たちを回復させてくださるにつれて、私たちも他の人々との関係を回復するために「償い」に励むのです。
私たちの神は「回復の神」です。アダムとエバが罪を犯し、神の顔を避けて隠れたとき、神はアダムとエバに「あなたはどこにいるのか。」と呼びかけて、彼らをふたたびご自分のもとへ連れ戻そうとしておられます。神は、罪の中へ落ちていく人類を救うため、そのときすでに「女のすえ」として生まれる救い主を約束なさいました。処女マリヤから生まれたイエス・キリストは、その「女のすえ」です。神は人類を罪から回復するためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。
イエス・キリストは、病人をいやし、らい病をきよめ、悪霊を追い出されました。キリストは、病気やらい病のため、また悪霊のために、家族から、また社会からもはじき出されていた人々に罪の赦しを与え、再び神に立ち返らせてくださいました。そればかりか、人々を家庭にも社会にも復帰させてくださいました。そして、最後にイエス・キリストは、十字架の上でご自分のすべて、そのおからだだけでなく、心もたましいも、そして神としての存在のすべてもおささげになりました。私たちが神のもとに立ち返る道を切り開くためです。キリストご自分がその道となってくださったのです。
そしてキリストは、十字架の死から三日目に復活され、罪の中に死んでいた私たちを生かす、いのちの主であることを、全世界に宣言されました。ペテロは、イエスの一番弟子と自負していたにもかかわらず、「私はイエスの弟子ではない。私はイエスなど知らない。」と言って、イエスを三度も否定しました。ペテロは自分の犯した罪のために意気消沈し、ガリラヤに帰ってもとの漁師の生活に戻ろうとしました。しかし、復活したイエスは、ペテロをもういちど「人間をとる漁師」、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師として任命され、彼を回復してくださいました。
キリストは四十日にわたってご自分の生きておられることを弟子たちに示されたあと、天に帰られ、父なる神の右の座について、私たちを導いておられます。パウロはこのキリストに逆らい、教会を迫害する者でしたが、キリストがパウロに現れたとき、パウロはキリストを信じ、キリストの使徒として、ローマ帝国のいたるところで、キリストを宣べ伝えました。キリストは、迫害する者さえも、キリストを愛する者へと変えてくださる回復の神なのです。
キリストはやがて、もういちどこの世界に来てくださいます。そのとき、人類は失ったエデンの園を回復します。エデンの園で神と人とが分け隔てなく語り合うことができたように、新しい天と新しい地では、神が人とともに住み、人の目から涙をぬぐいとってくださるのです。人類はエデンの園の「いのちの木」を失いましたが、新天新地には「いのちの木」があって、それが人々をいやすと、聖書は約束しています。神は、罪を犯した人類を回復してくださるだけでなく、やがての日に、人間の罪のためにダメージを受けたこの自然を、社会を、文明をも、回復してくださるのです。
私たちの神は、じつに、「回復の神」です。どこの誰でも、たとえその人がどんなところにいても、悔い改めて立ち返るなら、そこから回復の道を歩ませてくださいます。どんな失敗をしても、誰でもやり直せるのです。神は「回復の神」だからです。やり直すのに遅すぎることはありません。神はいつでも手を広げ私たちを待っていてくださいます。「自分よりもすぐれた力が私を正常にもどしてくれる。」これが12ステップの大原則です。「12ステップ」は、この大原則を人生にあてはめるプログラム、「回復の神」への信頼のステップです。
三、原則の実行
では、この原則をどのように実行していけば良いのでしょうか。原則の実行ということを考えるとき、忘れてはならないことがあります。それは、自分の力では、これを実行することができないということです。「12ステップ」は、それをいつも唱えて、頭に叩き込み、努力に努力を重ねてやり遂げるというようなものではありません。「12ステップ」は自分の無力を認めることからはじまっていました。それは、ステップ1だけのことではなく、12のステップのすべてに当てはまります。12のステップのどれも、無力な私たちには、自分の力でそれをすることができないのです。では、何の力によってでしょうか。神の力によってです。より具体的に言えば聖霊の力によってです。
聖霊は、イエス・キリストを信じる者のたましいのうちにいてくださり、私たちを内側からささえてくださるお方です。詩篇に「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇18:48)とありますが、まさに聖霊なる神は「すぐそこにある助け」です。けれども、聖霊を、たんなる「お手伝いさん」や「便利屋さん」のように考えてはなりません。聖霊は、慰め主、いやし主、あわれみに満ちたお方ですが、聖なるお方、神であり主であるお方です。ふだんは自分の思いのままに生活していながら、都合の良いときだけ、いいかげんな気持ちで聖霊の助けを求めるようなことがあってはなりません。神に頼らず、自分の力によって、自分の思いのままに生きることを聖書は、「肉」と呼んでいます。「肉」とは、聖書の独特の言葉で、罪によって損なわれてしまった人間の生まれつきの性質や、その性質が持っている生活の原理・原則を指します。ガラテヤ5:19~21にあるように「肉」からは何の良いものも生まれません。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」とある通りです。生まれつきのまま、古い性質を持ったままでどんなに努力しても、それは、決して聖霊の実と呼ばれる「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)を持つことはできません。「肉」の中にいながら聖霊の助けを得ることはできないのです。「肉」は聖霊に逆らい、聖霊は「肉」と相容れないからです。「なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5:17)とある通りです。
ですから、聖霊の力に頼るというのは、基本的には自分の力に頼りながら、足らないところを聖霊に助けていただくということではないのです。自分の「肉」が、神のために実を結ぶのに全く無力であることを認めて、もっと全面的に聖霊に頼ることです。聖書は、人は「肉」の原理で生きるのか、それとも聖霊の原理で生きるのか、ふたつに一つしか選ぶことができないと教えています。聖霊によって生きようとしても、なお、私たちは自分のうちにまだ残っている「肉」と出会ったり、「罪」の力に引っ張られたり、この「世」の誘惑を感じたりします。しかし、けれども、そのつど悔い改め、神の助けを呼び求めていくことによって、聖霊の原理で生きることができます。聖霊の満たしをいただくとき、聖霊の原理が肉の原理に打ち勝っていくのを、体験することができます。地上に生きる限り、私たちは、まだ天国の完全を体験することはないでしょう。聖霊によって生きること、聖霊によって歩むことは、何の罪も犯さない、何の失敗もないということではありません。「肉」の力でものごとを表面だけでうまくやったほうが、聖霊によって、真実に生きようとするよりも、失敗が少ない場合もあるほどです。しかし、罪を犯すことがあっても悔い改め、失敗することがあっても再び神に信頼するなら、それが、神の喜ばれる生き方、聖霊によって生きること、聖霊によって歩むことになるのです。じつは、自分の無力を認めること、悔い改めることが、人間にとって一番難しいことであり、聖霊の助け無しにはできないことだからです。
「12ステップ」の原則は、クリスチャンでない人には、「なぜ、こんなことをしなければならないのか?」と反発を感じるものかもしれません。クリスチャンであっても、まだ聖霊の力を体験していない人には「これは理想かもしれないが、こんなことは誰もできない。」と言うかもしれません。また、ある人は、「これはアルコール依存症の人のためのもので、私には要らない。」と言うでしょう。しかし、今まで何度もお話ししてきたように、これはいわゆる「依存症」と呼ばれるものを持った人のためだけのものではありません。神以外のものに依存している私たちすべての者のためです。たとえ、神を信じていると言っても、まだまだ神を信じる以前の価値観や人生観が残っていて、「肉」の支配のもとにあることが多いのです。そのような自分の姿に気づき、それを認め、神の光の中を歩もうと努めることは、すべてのクリスチャンに必要なことなのです。表面をつくろうだけの歩き方では、聖霊は働かれないからです。世界中で多くの人々が「12ステップ」の原則を実行し、回復の旅を歩んでいます。「12ステップ」は歴史と実績をもっており、なにより、それは聖書にもとづいています。「12ステップ」は、私たちを聖霊の力に頼らせます。聖霊の力によってしか「12ステップ」の原則を実行することができないからです。「肉」から、無力な自分から、「よりすぐれた力」である聖霊へと私たちの信頼のスイッチを切り替えましょう。聖霊に思いを向け、このお方に信頼を置きましょう。
(祈り)
神さま、私たちはみな、本来あるべきところから離れてしまっています。そんな私たちを、あなたはあわれみ、御子イエスを私たちのところに遣わし、十字架で死なせてくださいました。あなたは、ご自分の御子を失ってまでも、失われた私たちを取り戻したいと願われ、それを実行なさいました。あなたの愛はなんと大きく、深く、力強いことでしょう。あなたが回復の神であることを感謝します。あなたは、また、私たちが回復の力を受け続けるため、私たちのたましいのうちに聖霊を遣わしてくださいました。私たちが「肉」に頼ることを止め、聖霊に深く信頼することができるよう、私たちを導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/24/2008