愛、喜び、平安

ガラテヤ5:16-23

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5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 今年のカリフォルニアはいつまでも暑く、9月になっても10月になっても、あまり秋らしい気配がありませんでした。ところが、10月の末になって急に気温が下がり、一気に秋が深まりました。毎年毎年、気候がおかしくなっているようですが、それでも、神が「地の続くかぎり、種蒔きと刈入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。」(創世記8:22)と約束してくださったように、春、夏、秋、冬の四季が確実にめぐってくることを感謝したいと思います。

 今年、私たちはイザヤ書37章31節から「下に根を張り、上に実を結ぶ。」というみことばを年度の標語として選びました。聖書はクリスチャンの成長を果樹の成長にたとえているわけですが、果樹が多くの実を実らせるためには、まず、「下に根を張る」必要があるのです。「下に根を張る」ことなしには、実を結ぶどころか、木そのものが枯れてしまいます。どの木も、土の中で根を伸ばした分だけしか枝を伸ばすことができないと聞いたことがあります。枝を伸ばし、実を実らせるためには、土の中で根を張るという隠れた努力が必要なのです。それは人の目には見えませんが、とても大切なことなのです。それで、私たちは、今年、悔い改めと信仰、みことばと祈りなど、クリスチャンの成長にとって基本的なことを学び、「下に根を張る」ことに励んできました。しかし、いよいよ今年もあとわずかになり、実りの秋を迎えましたので、今週から数回、ガラテヤ人への手紙から「上に実を結ぶ」ことについてご一緒に学びたいと思っています。

 一、完全な実

 「ガラテヤ人への手紙」と聞いて、多くのクリスチャンが、思いうかべるのは、「御霊の実」だろうと思います。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」があげられています。どれも、私たちに必要なもの、私たちが欲しいと思うものばかりですね。御霊の実は九つありますが、「実」ということばは単数ですから、この九つは、ばらばらにではなく、ぶどうのひとふさのように、ひとかたまりものとして与えられていることがわかります。「愛」はあるけれど「喜び」はない、「喜び」はあるけれど「平安」はないということはありえませんね。愛はかならず私たちに喜びを与え、喜びはかならず私たちを平安に導くからです。

 この九つの実は三つずつに分けることが出来ます。最初の「愛、喜び、平安」は神との関係における実、次の「寛容、親切、善意」は他の人との関係における実、そして、最後の「誠実、柔和、自制」は自分自身に関しての実です。神との正しい関係を持ち、心に愛、喜び、平安を持っている人は、他の人に対して寛容であり、親切であり、善意をもって接することができます。そしてそのような人は、誠実であり、柔和であり、自制心を持っています。そうでなければ、他の人に対しても、神に対しても正しい関係を持つことができません。このように、九つの実はそれぞれにかかわりあっていて、どれ一つが欠けても完全ではありません。ですから、御霊の実は「九つの実」と言うよりは、「九重の実」と言ったほうが良いかもしれません。聖書で「三」という数字は「完全」を表わし、三の三倍である「九」は、「完全の完全」を表わします。ヤコブの手紙1:17に「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」とあるように、完全な神が私たちに与えてくださるものはすべて、良いもの、完全なものであり、神が与えてくださる御霊の実も当然、私たちに必要なものがすべて含まれ、調和のとれた完全なものなのです。

 私たちの責任は、この九重の御霊の実を、そのままの姿で、さらに大きく実らせていくことです。「愛、喜び、平安」はあるけれど、人に対する「寛容、親切、善意」がないとか、人に対しては「寛容、親切、善意」を持っているが、自分に関しては「誠実、柔和、自制」がないということであってはなりません。私たちは、神から完全なものを受けたのですから、それをいびつなもの、変形したものにしてはいけないのです。御霊の実がいびつであり、変形しているとしたら、それはもはや「御霊の実」とは呼べなくなってしまいます。したがって、御霊の実を豊かに実らせるためには、まず、それを変形させようとするものや実らせまいとするものに注意する必要があります。

 二、実りを妨げるもの

 では御霊の実が結ばれるのを妨げるもの、また、それをいびつなものにするものとは、いったい何でしょうか。実は、ガラテヤ人への手紙は、御霊の実を妨げるもの、それをなしくずしにしようとするものと戦うために書かれた手紙です。ですから、この手紙の中にその答えがあります。それは、「誤った教え」と「律法主義」と「肉」です。

 御霊の実を実らせまいとする第一のものは「誤った教え」です。ガラテヤ1:6で「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」とあるように、それは「ほかの福音」と呼ばれています。もちろん、「ほかの福音」と言っても、福音が何種類もあるわけではありません。「神がイエス・キリストの十字架によって私たちを救ってくださる」という救いのメッセージはただひとつです。それで、次の節には「ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」(ガラテヤ1:7)と書かれています。「オウム真理教」の教祖に対する裁判が終わったそうですが、あの事件からわかるように、間違った教えからは、間違った結果しか生まれてこないのです。そして間違った物の考え方があのように恐ろしい犯罪を引き起こすのです。正しい教えを学び、信じることなしには御霊の実は結ばれることはありません。私たちは、時として生半可な知識で、神のことばが分かったように考えてしまうことがあります。また、独り善がりの意見で神のみこころを判断してしまうこともあります。それは、とても危険なことです。正しく聖書を学び、救いのメッセージを、伝えられたままに受け入れ、たえず神のことばに聴き従っていく、そこから御霊の実が私たちのこころに、生活に、人生に実っていくのです。

 御霊の実をいびつなものにする第二のものは「律法主義」です。「律法」は神がお与えになったもので、イスラエルに神の民としてのあるべき姿を教えるためのものでした。ところが、イスラエルの人々は、神の律法からさまざまな「細則」を作り出し、神のことばを「規則の体系」にしてしまったのです。たとえば、安息日にしてよいこと、悪いことについて、「ロープに結び目を作ってはいけないが、帽子の紐は結んでも良い。」といった細かい規則が何百とつくり出されました。その中には「安息日につばを吐いてはいけない。それが畑におちて玉となり、畑の畝を耕すことになる。」という、私たちから見て滑稽なものや、「安息日には足をくじいても、そこに水をつけて冷やしてはいけない。」とか、「歯が痛んで、それをいやすために酢を口に含むとそれは罪になる。」などという、不合理なものまでありました。このような規則を作り出した人々は、神が律法を通して示そうとしておられるみこころを求めるのでなく、ひたすらに規則を守ることを追求しました。そして、律法を落ち度なく守れば救いが得られると考えたのです。こうし彼らは神の「律法」を曲げて解釈し、「律法主義」を作りだしたのです。これに対して、ガラテヤ人への手紙は「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる。…律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいない。…もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味なものとなる。」(ガラテヤ2:16)と教えています。

 ガラテヤの教会は、最初は正しい教えに立っていたのですが、「律法を守らなければ救われない」と教える人々によって惑わされ、福音から離れて行ったのです。「まったくの罪人がキリストの身代わりの死によって罪から救われる」という福音よりも、「律法を守れば救われる」という教えは人間のプライドをくすぐります。「私はこれこれのことをしたから救われたのだ」という満足を与えます。しかし、実際は、私たちのどんな行いも、自分を救うためには不十分なのです。救いはただ神の恵みによるのであり、それを受け取る信仰によるのです。「律法主義」は、神の恵みを無駄にし、私たちから健全な信仰を奪いとります。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実は人間の努力で身につけることのできるものではありません。それは、神からの「恵み」であって、「信仰」によってだけ受け取ることができるものなのです。

 御霊の実に反する第三のものは「肉」です。5:17に「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」とありますように、御霊と、肉とは常に相反するものです。聖書で「肉」といわれているのは、神に逆らう人間の罪深い性質のことです。聖書は、人間に罪があると教えていますが、聖書が「罪」と言う場合、それはけっして、不道徳な行ない、インチキや詐欺といった悪事、また、強盗や殺人などの犯罪のことだけではありません。人の目には見えなくても、悪事をしたう欲望、自分さえ良ければと思う利己心、自分だけが正しいと思う傲慢など、人の心の奥深くにあるものをさします。ガラテヤ5:19-21に「肉の行ないは明白であって、つぎのようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。」とありますが、普段は表面には表われなくても、これらの「行ない」の背後にひそんでいて、機会があれば顔を出してくるもの、それが「肉」なのです。

 昔、まだ未開の国のある村で働いていた宣教師が、どこの家に行ってもとても不衛生だったので、村の人たちを集めて「みなさん、水をかけて、石鹸で床を洗ってください。」と言いました。すると、村人から「先生、おれたちの家の床は土でできているんだ。水をかけたら泥だらけになってもっと汚くなりますぜ。」という返事が返ってきたそうです。土の床を洗って磨けばもっときたない泥になるように、「肉」はどこまで行っても「肉」です。それを洗っても、磨いても、改善されることはありません。生まれつきの性質である肉によっては、神に従うことはできません。私たちは聖霊によって生まれ変わり、新しいいのちと、神の子としての性質が与えられてはじめて神に従うことができるのです。新しいいのちや新しい性質が成長していくには時間がかかります。それで、それを待ちきれないで、聖霊によってでなく、生まれつきの力、「肉」の力に頼ってものごとを行おうとしてしまいますが、それによっては御霊の実を結ぶことはできないのです。御霊の実を結ぶには、御霊によって歩まなければなりません。自分にではなく神に頼り、行ないによってでなく信仰によって歩むのです。

 三、神からの実

 では、「御霊によって歩む」「信仰によって歩む」とは具体的にどうすることなのでしょうか。御霊の実の最初の三つ、「愛、喜び、平安」をとりあげて考えてみましょう。

 まず、「愛」ですが、これは、何よりも神が私たちを愛してくださった愛を表わします。愛にはいろいろな種類の愛があり、実際、聖書が書かれたギリシャ語でも、男女の愛、兄弟の愛、肉親の愛などはそれぞれに違ったことばで表されています。しかし、御霊の実の「愛」には、そうしたことばのどれでもなく、「アガペー」ということばが使われています。「アガペー」の愛とは、神の愛のことです。人間の愛には、「あなたはきれいだから愛する。」「あなたはお金持ちだから愛する。」というように条件が入ってくるのですが、「アガペー」は無条件の愛です。また、人間の愛は「わたしはあなたを愛してあげたから、あなたもわたしを愛すべきだ。」と、「おかえし」を求めますが、「アガペー」は報いを求めない、献身的な愛です。神は、ご自分の御子を私たちのために十字架の上で死なせてくださいました。聖書は、十字架を指差して「ここに愛がある。」と言っていますが、「アガペー」は犠牲の愛でもあるのです。

 この無条件の愛、献身の愛、犠牲の愛は、キリストによって示され、聖霊によって、すでに信じる者の心に与えられています。ローマ人への手紙5:5に「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。まじめなクリスチャンほど「私には愛が足りない。」「もっと神を愛さなければならない。」と感じるのですが、そのことを嘆く前に、まず、神がどんなに私たちを愛してくださっているかを知り、信じ、確信しようではありませんか。「私たちが神を愛したら、神も私たちを愛される。」という考えは、「律法主義」に逆戻りすることになります。私たちは神から愛されていることを知れば知るほど、より神を愛することができるようになります。神に愛されることなしに神を愛することはできないのです。愛とは、「神が聖霊によって私たちに与えてくださるもの」ということが分かる時、私たちから神への愛も実るようになるのです。

 「喜び」も、同じように、「神が聖霊によって私たちに与えてくださる喜び」と定義することができます。この喜びは、環境や状況によって左右されるもの、時間がたてば消えてしまう一時的なものではありません。それは、私たちの生涯を通してだんだんと大きくなっていく救いの喜びです。私は神の愛をいただいています。神はその愛によって私たちを罪から、その刑罰から救い出してくださいました。私たちは、敬虔な意味で神を「恐れる」ことはあっても、神を「怖がる」必要はありません。むしろ、神を喜ぶのです。ローマ5:11に「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」とあります。「神を喜ぶ。」「神を大いに喜ぶ。」というのは、クリスチャンでも、なかなかそれが分からないと言う人がいます。私たちは、神を喜ぶことをもっと学ぶ必要があります。私たちは、神に喜ばれるものでありたいと願い、また、神を喜ばせる生活をしようと努力します。それはとても素晴らしいこであり、しなければならないことです。しかし、もし、神を喜ぶことなしに、神を喜ばせようとしたら、それこそ、それは、喜びどころか、苦痛となってしまいます。神を喜ぶ人だけが、神を喜ばせることができます。私たちが神を喜びとしていくなら、それによって「喜び」の実を実らせることができます。

 第三の「平安」もまた「神が聖霊によって与えてくださる平安」と言うことができます。現代は、とても不安な時代です。平安でいることが不可能なほど、現代の社会は複雑になってきました。しかし、神を信じる者は、そのような中でも、不思議な平安を体験しています。平安というものは、決して私たちの側で作り出すことはできません。心を静めようとすればするほど、心が騒ぎ、心配するのは止めようと決心しても、思い煩いが次から次へと湧き上がってくることがあります。しかし、そんな時でも、神に目を向けると、突然のように神からの平安で心が満たされる、神を信じる者はそういう体験があります。ピリピ4:6-7に「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあるように、神からの平安はいつも私たちの思いを超えたものです。それは、私たち自身から出たものではなく、神から出たもの、聖霊によって与えられるものです。

 愛、喜び、平安は、神が、イエス・キリストを信じる者に、聖霊によって与えてくださるもので、決して宗教的な行いによっても、生まれつきの能力によっても得られないものです。信仰によってそれを受け取りましょう。そして、与えられている御霊の実を感謝し、喜びましょう。そのことによって、御霊の実は、私たちのうちにいよいよ豊かなものとなっていくのです。

 (祈り)

 父なる神さま、実りの秋を迎え、キリストのぶどうの枝である私たちは、もっと豊かな実を結びたいと願っています。今朝、あなたが、キリストを信じる者にすでに、聖霊によって「愛」も、「喜び」も、「平安」も与えておられることを、教えられました。聖書を正しく学ぶことによって、与えられている御霊の実を発見し、信仰によってそれらを受け入れ、聖霊により頼んで、あなたが与えてくださったものをさらに豊かなとすることができますよう、導いてください。私たちのまことのぶどうの木であるイエス・キリストのお名前で祈ります。

11/2/2003