父を呼ぶ

ガラテヤ4:1-7

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4:1 わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、
4:2 父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。
4:3 それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。
4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
4:5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
4:6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
4:7 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。

 一、神の招きによって

 「わたしたちにも祈ることを教えてください。」弟子たちのこの願いに答えて、イエスは「主の祈り」を教えてくださいました。主の祈りは、「天にましますわれらの父よ」ではじまりますが、聖書のもとの言葉では、「父よ」「わたしたちの」「天に」という順序になっており、もともとは「父よ」という言葉で始まっています。「父よ」という呼びかけで始まり、そのあとに願いが続くのですが、「父よ」という呼びかけは、じつはそれ自体が祈りです。あとに続く願いが無くても、神を呼ぶこと自体が祈りとなるのです。創世記4:28に「セツにもまた男の子が生まれた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた」とあります。「主の名を呼ぶ。」これは「祈り」や「礼拝」を指しています。「祈り」は難しいものではありません。祈りとは神を呼ぶことです。そして、神はわたしたちに「わたしを呼べ」と招いてくださっています。詩篇にこうあります。

悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう。(詩篇50:15)

彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。(詩篇91:15)
神はご自分を呼び求める者に必ず答えてくださると約束しておられます。

 皆さんも経験があると思うのですが、カスタマーサービスに電話で問い合わせると、たいていは、「英語なら〔1〕をスペイン語なら〔2〕を押してください。続いてカスタマーナンバーを入れ、ポンドキーを押してください」などというメッセージが聞こえてきます。中には、電話のキーを押すのではなく、「用件を言ってください」というのがあります。下手な英語で話すと、何度言っても、「ごめんなさい。聞き取れませんでした。もういちど、はっきりとおっしゃってください」という冷たいメッセージが返ってきます。いっぱいキーを押したり、喋ったりして、やっとカスタマーサービスに届いても、「ただいま、他のカスタマーと話し中です。しばらくお待ちください」といって音楽が流れ出します。「しばらく」が5分だったり、10分だったりもすると、電話を切りたくなってしまいます。

 祈りは神への電話のようなものです。どちらも「コールする」(呼ぶ)ものです。しかし、祈りの電話には面倒なアンサリングシステムはありません。それは神に直接つながるホットラインです。神は神を呼ぶ者に直接答えてくだいます。「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。」神は、あなたに答えると約束してくださっています。聖書が教えるように、恐れないで神を呼びましょう。主イエスが教えてくださったように、神を「父よ」と呼びましょう。神は必ず答えてくださいます。

 二、キリストの贖いによって

 わたしたちは神を「父」と呼ぶように教えられています。しかし、イエス・キリストを信じて「神の子ども」とされるまでは、心をこめて神を「父」と呼ぶことができないでいました。アダムが「神の子」として造られていながら(ルカ3:38新改訳)、神に逆らい、罪を犯したように、わたしたちも、神を父として敬い、信頼するという、神の子どもとしての心を失っていたからです。神の子どもから罪の奴隷へと転落してしまったのです。しかし、神は、そんなわたしたちをなお愛して、イエス・キリストによって、わたしたちを罪の奴隷から解放してくださいました。

 奴隷制度があった時代、奴隷は「贖い金」を支払ってもらって解放されましたが、キリストが十字架の上で捧げられたいのちは、わたしたちのための「贖い金」だったのです。「主によりて贖わる、わが身の幸はみな主にあり」という讃美歌は、英語では "Jesus paid it all" と歌います。そうです。主イエスは、わたしたちの罪が赦され、罪の負い目から自由になるために、一切を支払ってくださったのです。罪は、聖書では「借金」にたとえられていますが、イエスは「元金は返してやったから利息は自分で払いなさい」と言われるのではないのです。元金も、利息も、違反金も、なにもかも一切を、その贖いによって完全に支払ってくださったのです。イエス・キリストの贖いには何の不足もないのです。

 しかも、イエス・キリストの「贖い」は、わたしたちを罪を犯す前の状態に戻すだけではなく、それよりももっと素晴らしい状態へと引き上げるのです。イエス・キリストを信じる者は、キリストの贖いにより、聖霊によって新しく生まれた神の子どもとなるのです。すべてのものは神によって造られたもの、被造物です。ほんらい「神から生まれた」お方はただひとりイエス・キリストだけです。ところが、キリストの贖いはわたしたちに神のいのち(永遠のいのち)を与えて、わたしたちをキリストと同じ、神から生まれた者にするのです。わたしたちはキリストが持っておられる神の子の身分を授かり、神が御子を愛しておられるその大きな愛を注がれているのです。

 今朝の箇所、ガラテヤ4:4-5はキリストの贖いによってわたしたちに神の子どもの身分が与えらたと教えています。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。」「わたしを呼べ」と言われた神と、「神を父と呼べ」と教えてくださったイエス・キリストは、わたしたちが神を呼ぶことができるように、「父」と呼ぶことができるようにしてくださったのです。続く4:6には「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである」とあります。「アバ」というのは、ユダヤで、子どもが親しみをもって父親を呼ぶときの言葉です。英語の "Daddy" に当たります。聖なる神は、わたしたちをはるかに超えたお方です。そんな神に、「お父さん」と呼ぶことが許されている、いや、わたしたちがそう呼ぶことを神が望んでいてくださる。わたしたちのうちに宿る聖霊が、そう叫ばせてくださる。これはなんという大きな恵みでしょう。神を「父」と呼んで歩む人生には大きな幸いがあります。その幸いが信じる者には与えられるのです。キリストの恵みを受け取りましょう。そして、心から神を「父よ」と呼びましょう。

 三、信頼と従順によって

 神の子どもとされたわたしたちは、神に信頼し、服従することによって神の子どもとして生きていきます。わたしたちが神の子どもとされたのは、神の愛を受け、神に信頼して生きるためです。神の愛を受けることもなく、神に信頼することもなければ、神の子どもとされた意味がなくなってしまいます。わたしたちは神への信頼と服従によって、神を「父」と呼ぶのです。

 信じる者が神の子どもされていることは、聖書と聖霊が証していることです。しかし、時として、キリスト者がこの事実を忘れてしまうことがあります。自分が神の子どもであることを、頭では分かっていても、心の中では忘れていて、「わたしなど何の役にも立たない」などと、自分を卑しめてしまうことがあります。謙遜になることと、自分を卑しめることとは違います。キリスト者にはいつも二つの思いがあります。自分が聖なる神の前には罪人に過ぎないという思いと、栄光に満ちた神の子どもとされているという確信です。そして、このふたつは矛盾しません。キリストは罪人を神の子どもにするために十字架で死なれたからです。自分の罪を認めない人も、自分に与えられた神の子どもとしての身分を認めない人も共に、キリストの贖いに生きてはいません。神は、贖われた者に言われます。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。…あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43:1, 4)と。わたしたちは、自分が、イエス・キリストが代わりに死なれたほどに、大切な者であることを知っていたいと思います。

 わたしたちは、生きていく中でさまざまな問題にぶつかります。それは、精神的な苦痛であったり、からだの病気や弱さであったりします。また、他の人からの非難を受けたり、疎外されたりということもあるでしょう。あるいは、自分の至らなさや失敗、挫折であったりします。そうしたことの中で、わたしたちは自分が神の子どもとされているという喜びを失くし、確信を奪われたりします。けれども、そんなときも、神が父であり、自分が神の子どもであるという事実に立ち返り、神に信頼し、神に従って生きるのです。わたしたちは、そうした神への信頼と服従によって神の子どもとして成長していくのです。

 神に信頼することの中には、もちろん、神に従うことが含まれています。「服従」という言葉は、現代では好まれない言葉になりましたが、どの時代にも、神が、神の子どもに求めておられるのは、「信頼と服従」("Trust and Obey")です。聖書は「従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」(第一ペテロ1:14-15)と命じています。「従順な子ども」というのは、どんな失敗もない「立派でお利口な子ども」という意味ではありません。「従順な子ども」とは、失敗しても、父の愛を信じて、失敗から立ち上がる人のことです。今は困難な中にいても、父がかならず助け、導いてくださると信じて、神に従う人です。

 イエス・キリストは、わたしたちの主ですが、人としては、ひとりの信仰者として生き、わたしたちに父への信頼と服従を身をもって示してくださいました。主イエスは、十字架にかかられる前の夜、弟子たちとともにゲツセマネというところに行き夜を徹して祈られました。その祈りは「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36)という祈りでした。主イエスは、もうそこに十字架が差し迫っているというその時にも、「アバ」("Daddy")という愛情と信頼のこもった呼び名で神に呼びかけています。神の愛を信じて疑わない信仰がここにあります。たとえ、十字架が避けられないものであったとしても、「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と、ご自分をみこころに委ねていく心からの従順をここに見ることができます。イエスはもとから神の御子でした。しかし、この神への信頼と服従によって、ご自分が、まさに父の御子であることを示されたのです。

 「アバ、父よ」イエスがゲツセマネでそう祈っておられたとき、弟子たちは、悲しみと疲れのために眠っていました。しかし、熟睡などできなかったはずです。「アバ、父よ」という祈りを、夢うつつの中で聞いたに違いありません。そして、この祈りは弟子たちの心に深く刻まれたことでしょう。わたしたちがどう祈ったらよいかわからなくなるほど、苦しむときには、聖霊がわたしたちの内側で祈ってくださると、聖書にあります。その聖霊の祈りとは、「アバ、父よ」という祈りなのかもしれません。聖書は「あなたがたは…子たる身分を授ける霊をうけたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と教えています(ローマ8:15, 26)。神を呼びましょう。「父よ」と呼びましょう。そこから、信仰が生まれ、神への愛が生まれます。信頼が育まれ、神への従順の一歩が始まるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、御子ばかりか、聖霊をもくださって、わたしたちが、あなたを「アバ、父よ」と呼ぶことができるようにしてくださいました。どんなときも、あなたを「父よ」と呼んで、あなたのこの大きな愛に感謝し、信頼するわたしたちとしてください。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/22/2015