4:12 お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。
4:13 ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
4:14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。
4:15 それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
4:16 それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
4:17 あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。
4:18 良いことで熱心に慕われるのは、いつであっても良いものです。それは私があなたがたといっしょにいるときだけではありません。
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
4:20 それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。
私たちは、肉体的、精神的にさまざまな苦しみを経験します。今日は、母の日ですが、母親には、他の人に経験しない苦しみがあります。それは「産みの苦しみ」です。これは男性は決して経験できない苦しみのひとつです。夫婦が子どものことで口論して、夫が妻から「子どもを苦しんで産んだのは私よ。あなたはちっとも苦しまなかったじゃない。」と言われると、夫は返す言葉がなくなってしまいます。母親は、父親とは違って「おなかを痛めて産んだ」こどもと特別なつながりを持っています。
ところが、聖書では、男性である使徒パウロが「私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:19)と言っています。パウロは男性が知るはずのない「産みの苦しみ」を知っており、それを味わっているというのです。それはどういう意味なのでしょうか。今朝はそのようなことを学びながら、母の愛をとおして神の愛と教会への愛に目を向けたいと思います。
一、神の愛と母の愛
「神の愛にもっとも近いものは母の愛である。」と言われます。ということは、神は私たちにとって父であるばかりでなく、母のようなお方でもあるということです。聖書は神を私たちの「父」として教えています。私たちも主の祈りで「天にましますわれらの父よ。」と祈ります。私たちは神を「父」と呼ぶことによって、神の偉大さを思うことができます。神の大きさを感じとることができます。しかし、こどものころ、父親と良い関係を持たなかった人には、「父」という言葉によって「厳しさ」や「恐ろしさ」だけしか感じられない場合もあります。そのため神を「天の父よ。」と呼びかけられない人もいます。もし、皆さんの中に、父親についてマイナスのイメージしか持っていない人は、聖書をよく学んでみてください。神がただ厳しく、恐ろしいお方だけでないことがわかります。聖書は、私たちの父である神は、私たちに対して母親のようなこまやかな愛情を持っていると教えています。
イザヤ書で神はこう言っています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)イザヤとその後の時代には、偶像の神々のに自分の子どもをささげたり(列王第二23:10、エレミヤ32:35)、エルサレムが外国軍に攻め囲まれて食べ物がなくなった時には、自分の子どもを殺して食べるなどという残酷なことさえ行われました。母が子どもを忘れ、捨てるようなことがあっても、神は、神に頼る者たちを、決して忘れることなく、捨てることもないと言っているのです。
性差別を嫌う人たちは神を「父なる神」と呼ぶのはけしからん、「父にして母なる神」と呼ぶべきだと言います。聖書が神を「父なる神」と呼んでいるのには意味がありますから、「父にして母なる神」と呼ぶのは、行き過ぎです。しかし、神の中に「父性」ばかりでなく「母性」もあることは、誰もが認めることができます。詩篇に「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように御前におります。」(詩篇131:2)とあります。私たちが神に立ち返った時に味わう不思議なやすらぎは、神の母のような愛から来ているのです。神に頼る者は、まるで、母親に抱かれているような安らぎを感じることができるのです。
父の愛も、母の愛も、もとは神の愛から出たものです。神は父親、母親の愛を通して、私たちを愛してくださっていたのです。父親や母親に子どもを愛することを教えた神が、父の愛、母の愛にまさる愛を持っていないわけはありません。たとえ、地上の父親、母親に失望することがあったとしても、私たちは、神の愛に向かっていくことができるのです。
二、神の愛と使徒の愛
さて、使徒パウロですが、彼は、このような神の愛をもって人々に仕えた人でした。パウロは、人々に父親のような愛と、母親のような愛を注ぎました。テサロニケ人への手紙で「また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。」(テサロニケ第一2:11-12)と言っていますが、それと同時に「あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」(同2:7)とも言っています。神の愛に生きている人々には、父親のような愛と母親のような愛のふたつが溶け合っているのを見ることができます。一昔前の牧師や宣教師たちは、それぞれ近寄りがたいような威厳を持っていましたが、親しく話してみると、誰もが暖かいものを感じさせてくれました。彼らは、父親のような存在でしたが、同時にまるで母親のように人々のことをこころにとめていました。
「私は…産みの苦しみをしています。」ということばは、パウロの、ガラテヤのクリスチャンに対する愛の深さを表わしています。ガラテヤの人々は、パウロから福音を聞き、救われ、クリスチャンになり、教会を建てあげてきました。パウロはそのためにどれほどの労苦をしたことでしょうか。ガラテヤに教会が生み出されるために、まさに「産みの苦しみ」をしたのです。ところが、にせ教師たちがやってくると、彼らはパウロから聞いた福音を捨て、パウロから注がれた愛を忘れ、間違った教えに、またそれを教える人々になびいていってしまったのです。子どもが母親を捨てて、悪い友だちのところに行ってしまったようなものです。しかし、ガラテヤの人々がパウロを捨てても、パウロはガラテヤの人々を捨てませんでした。母親がかたときも子どものことを忘れることがないように、パウロもガラテヤの人々のことを思い嘆いているのです。ガラテヤの教会は、福音から離れたために教会でなくなってしまっている、だから、もういちど教会を産みださなければならない、ガラテヤのクリスチャンのために再び産みの苦しみをしなければならないと、パウロは言っているのです。パウロは男性でしたが「産みの苦しみ」の霊的な意味を知っていました。
使徒パウロにとっての「産みの苦しみ」とは、まず、彼がキリストのために受けたさまざまな、迫害や投獄などを指していました。紀元一世紀に教会はローマ帝国のいたるところに建てられましたが、それは、なんの苦労もなしになされたことではありませんでした。パウロは、福音を伝えるために受けた苦難について、こう言っています。「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(コリント第二11:24-27)しかし、パウロにとっての「産みの苦しみ」はそれだけではありませんでした。外からの苦しみがなくても、教会のための心配ごとがあると言っています。「このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(コリント第二11:28-29)使徒パウロは、神の子どもたちが生み出されるため産みの苦しみを味わい、生まれたばかりの神の子たちを母親のような愛で見守ったのです。
私たちもまた、先輩のクリスチャンの「産みの苦しみ」によって、神の子として生まれました。私たちが、神にそっぽを向いていた時、先輩のクリスチャンがどんなに祈り、また、心をつくして神のことばを分け与えてくれたことでしょうか。信仰生活で、迷ったり、もがいたり、つまづいたりした時も、多くの兄弟姉妹たちが、じっと見守り、支え、導いてくれました。教会が困難に直面した時も、その問題を見えないところで背負ってくれた人々がいたからこそ、私たちは、教会生活を続け、信仰を養われてきたのです。教会は「母なる教会」と言われますが、それは、教会に「産みの苦しみ」をいとわず、他のクリスチャンに母親のような愛情を注いでその信仰を育てている霊的な「母親」たちがいるからです。私たちは、そうした方々の「産みの苦しみ」によって、救いにあずかり、信仰を成長させてくることができました。今度は、私たちが、霊的な母親になる番です。男性であっても、教会の重荷をすすんで担うとき、霊的な意味で「産みの苦しみ」を理解できるのです。私たちは「産みの苦しみ」を味わうほどに教会を愛しているでしょうか。教会をこころから愛する人々によってはじめて、教会は「母なる教会」になることができるのです。
「産みの苦しみ」は、無意味な苦しみではありません。それは、いのちを生み出す、希望の苦しみです。イエスがヨハネ16:21で「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」と言ったように、この苦しみは、必ず喜びに変わるのです。キリストのため、キリストのからだである教会のための苦しみは決して無駄になりません。それによって、新しいクリスチャンが生み出され、成長し、キリストのからだの一部として働くのを見て、喜ぶことができるのです。そして、天では、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)とのことばをいただき、もっと大きな喜びを受けるのです。
母の日に、母の愛に感謝するだけでなく、母の愛のみなもとである神の愛に感謝しましょう。そして、教会を愛する愛を持つことを願い求め、教会をそこで新しい命が生み出され、育てられる「母なる教会」とし続けようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、私たちはあなたを「父」と呼びますが、あなたの中に父の愛、母の愛のすべてがあることを知りました。今日の母の日に、私たちがあなたの持っておられる「母の愛」を持つことができるようにしてください。男性であれ、子どもを持たない者であれ、母なる教会の一員として、霊的な新しいいのちを生み出すための苦しみにあずかるほどに、あなたを、主イエスを、そして、その教会を愛する者としてください。キリストのお名前で祈ります。
5/11/2003