4:1 ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、
4:2 父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。
4:3 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
4:5 これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
4:6 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。
4:7 ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。
礼拝プログラムをご覧になって、何かが変わったことに、気づきませんでしたか。「表紙の写真が変わりました。」という答えが聞こえてきそうですが、それは、毎週変わっていますから、特別なことではありませんね。礼拝プログラムの最初に今日の日付がありますが、その次に、「待降節第一主日」となっていますね。ペンテコステ、聖霊降臨日のあとの三位一体主日から、私たちはづっと、「三位一体後第○○主日」というように数え、先週は「三位一体後第23主日」でした。先週で「三位一体節」が終り、今日から、「待降節」が始まったのです。「待降節」の「待降」は、「降誕を待ち望む」と書きますが、英語では「アドベント」と言います。「アドベント」とは「到来」あるいは「出現」という意味で、人類の歴史の最初から約束されていた救い主が、私たちのところに来てくだった、私たちのうちに現れてくださったことを意味します。
一般の暦では、一月一日から新年が始まりますが、教会の暦では、今日のアドベントから新しい一年のサイクルがはじまります。人類の歴史が、キリストの到来によって区切られ、キリスト以前を "Before Christ" という意味で BC と呼び、キリスト以後を "Anno Domini" (主の年) を略して AD と呼びます。そのように、キリストの到来を祝うアドベントから、教会の新しい一年が始まるのです。私たちも、このアドベントの期間、キリストを私たちの心に、生活に、人生に迎え入れ、信仰を新しくして、キリストが来られたことを喜び、祝いたいと思います。
さて、今年のクリスマスは、救い主の母マリヤの信仰から学ぶことにしていますが、その前に、救い主が「おとめマリヤ」から生まれたということに、どんな意味があるのかを見ておきたいと思います。
一、預言の成就
イエスがマリヤから生まれたというのは、第一に預言の成就でした。ガラテヤ4:4に「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」とあります。「母親にならない人はいても、母親を持たない人はいない。」と言われるように、人は誰でも、母から生まれます。もっとも、最近は「代理母」というのがあって、事情は複雑になってきていますが、女性から生まれることには間違いありません。人間にとって当然のことなのに、キリストの場合、わざわざ「女から生まれた者」と言われています。なぜでしょう。多くの人は、キリストは今から二千年前に生まれ、三十数年の生涯の後世を去った、彼は、二千年前の三十数年間だけの存在であったと考えていますが、そうではありません。キリストは、それ以前も、また、今にいたるまでも存在しておられるのです。イエスは、ヨハネ8:58で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」と言われました。イエスは系図によれば、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として生まれたのですが、自分の先祖が生まれる前から存在しておられたというのです。さらに、聖書は、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)と言って、キリストはこの世界が造られる「先から」存在しておられました。それで、このことをキリストの「先在」と言います。キリストは造られたお方ではなく、生まれたお方です。古代の学者たちは、それを「御子は、永遠のはじめに、父なる神から生まれた。」という言葉で表現しています。こう言いますと、みなさんは、何か煙にまかれたように感じるかもしれませんが、神の存在は、私たちの存在とは違っていて、人間の言葉では、このように表現するのが精いっぱいなのです。
ともかく、キリストは、父なる神から生まれたお方であって、私たちのように、「女から生まれた」ものではありません。なのに、キリストは、マリヤの子として生まれ、「女から生まれたもの」となってくださいました。それは、神が、人類に与えた救いの約束を果たすためでした。ここで、「女から生まれたもの」とあるのは、創世記から来ています。罪は、最初の人、アダムから始まりました。アダムは、神への罪をエバのせいにし、エバはそれを蛇のせいにしました。これを「責任転嫁」といいますが、神は、人間の罪を文字通り、キリストに「転嫁」し、キリストは、すべての人の罪を十字架の上でその身に負われました。創世記3:15にある「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」との神のことばは、イエス・キリストの救いについての最初の預言で、キリストの十字架のことを言い表わしています。キリストは、「女のすえ」となり、ひとりの人として世に来てくださいました。「おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあるように、サタンは、キリストを亡きものにしようとして十字架につけました。キリストはサタンに敗北したかのように見えましたが、ご自分の死によって罪と死を滅ぼし、サタンの「頭を踏み砕」いたのです。聖書のはじめから、人間の罪のことが書かれ、聖書の歴史は、人間の罪の歴史のようなものですが、同時に、救いも聖書のはじめから、預言され、約束されています。聖書の歴史は、この預言が成就し、約束が果たされていったことの歴史でもあるのです。
ガラテヤ4:5は、イエスが「女のすえ」として、この世に生まれてくださったのは、「律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるため」だったと言っています。「律法の下にある」というのは、ふたつの意味があります。ひとつは、私たちが、神の聖い基準である律法にかなわず、律法の定めた刑罰のもとにあるということ、もうひとつは、キリストが来られるまでに定められたさまざまな儀式や制度、また戒めのもとにあるということです。しかし、キリストを信じる者は、罪のさばきから救われ、もはや、律法のもとにはありません。また、キリストの救いが成就したあとは、それ以前の儀式や制度や戒めはいらなくなります。キリストが来てくださったことによって、また、キリストを信じることによって、私たちはまったく新しい立場を持つことができるようになったのです。
旧約時代というのは、人々がまだ制限の中にあった時代でした。ガラテヤ4:1-2に「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。」とありますように、たとえ資産家の跡取息子であったとしても、子どもの時は、大人とおなじように財産を自由にすることはできません。こどもは後見人の下に置かれ、財産は管理人が管理しています。旧約時代の律法や、制度、儀式は、その後見人や管理人のようなものでした。しかし、神は、私たちをいつまでも、後見人や管理人の下に置いたままにしておかれませんでした。神は時を定めて、私たちに、旧約の律法が示していたもの、預言者が予告していたものを明らかにしてくださいました。4節に「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。」とあります。「定めの時」とは、今から二千年前の救い主の誕生の時だったのです。イエス・キリストによって、全く新しい世界が開かれました。ガラテヤ4;5-7は「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」と言っています。イエス・キリストは、私たちに、神の子どもの特権のすべてを与えるため、「女のすえ」として、「女から生まれたもの」となってくださったのです。
二、救いの奇跡
キリストは、私たちのために、女から生まれたものとなってくださいましたが、なぜ、「おとめ」から、まだ結婚していない女性から生まれなければならなかったのでしょうか。結婚している夫婦からでは駄目だったのでしょうか。救い主が赤ちゃんになって生まれるにも、いろいろな方法、選択肢があったかもしれませんが、処女から生まれるという方法をお取りになったのには、どのような理由があり、意味があったのでしょうか。
それは、まず、救い主が、まったく罪を持たないためでした。罪は、アダムからその子、その孫、そして私たちへと、まるで遺伝するかのようにして伝わっています。これを「原罪」といいますね。もし、救い主が誰かの夫婦の子であるなら、まったく罪から無縁であると言うことができません。救い主は、罪の性質をひきつがないため、聖霊によって、マリヤより生まれました。救い主のからだにはマリヤの遺伝情報はあっても、ヨセフの遺伝情報も、どの男性の遺伝情報もありませんでした。そのかわり、神が最初にアダムを造られた時の、完全な形での遺伝情報があったことでしょう。救い主は、私たちの罪をきよめるために、まったく、きよいお方でなければならなかったのです。
罪が、アダムから始まって、私たちに伝わってきたのは、川の流れにたとえることができます。川の上流に毒が投げ込まれれば、当然下流にまで毒が運ばれていきます。そのように、罪は、アダムから始まって、全人類に広まったのです。川の上流に投げ込まれた毒は、下流に行くに従って薄められるかもしれませんが、罪の場合は、その毒と毒とが反応しあって、下流に向かうほど、その毒性が強まっていくのです。この毒の水を浄化するためには、その毒をすべて引き受け、毒の水にかわってきよい水を注ぎ出す、新しい流れが必要ですが、それをしてくださったのが、救い主イエス・キリストです。イエスは、あの十字架の上でアダム以来のすべの罪を飲み干されたのです。そればかりでなく、十字架の死から三日目によみがえり、私たちに、いのちと、きよさに満ちた新しい川の流れを与えてくださったのです。聖書は、このことを、キリストは「第二のアダム」になったと教えています(ローマ5:21、コリント第一15:45-47)。キリストは、このようにして、罪を背負ったアダムの子たちも、神の子どもとして生まれかわる道を開いてくださったのです。イエスが「おとめ」から生まれたのは、イエスが罪のないお方であることを表わすためでした。
また、イエスが、「おとめ」より生まれたのは、イエスこそ、人を救う力のある、まことの救い主であることを表わしています。どんな生命も、その誕生はとても神秘です。人間は、生命の仕組みをある程度あきらかにすることができるようになりました。体外受精の技術も持つようになりました。しかし、人間は、決して、命のないものから、命あるものを造りだすことはできません。それができるのは神だけです。「おとめ」がみごもるという、誰が考えても不可能なことを、神は、救い主の誕生の時になさいました。それは、マリヤの体の中に起こった奇跡でした。それは、目に見える大掛かりな奇跡ではありませんでしたが、そうしたものに勝るもの、生命を誕生させるという、神にだけできる奇跡でした。神は、救い主誕生の後にも、先にも、処女から人が生まれるという奇跡を行なってはおられません。イエスだけが、この奇跡によって生まれました。それは、イエスこそが、罪からの救いという奇跡の中の奇跡を行なってくださるお方であることを教えているのです。私たちは、使徒信条によって、「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ」と告白しています。「おとめマリヤより生まれ」たイエス・キリストこそ、救い主であることを、しっかりと覚えましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、奇跡の神です。あなたは、私たちを罪から救い、きよめ、私たちを神の子どもとするという大きな奇跡をしてくださいました。そのために、あなたは、御子が人となり、聖なるお方が罪人の中に住み、命の与えぬ主が私たちのために死ぬという奇跡をしてくださいました。そして、こうした奇跡を起こすため、あなたは、処女降誕という奇跡を行なってくださいました。私たちに、奇跡の神であるあなたを信じる心を与え、私たちのうちに神の御子がやどるというもっと大きな奇跡を見るものとさせてください。私たちの救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。
11/30/2003